八年執着されましたが、幸せです ~傷心のホテリエですが、イケメン御曹司と契約恋人になりました~
 その後、ほどなくして俺は芳乃を家庭教師として迎える事に成功した。

 けれど初回は緊張のあまり、まともに彼女の顔を見られなかった。

 当時の俺は背は高いものの、痩せてヒョロッとしている上、長めの前髪で目元を隠している〝陰キャ〟だった。

 学校ではあまり同級生と交流せず、休み時間はイヤフォンで音楽を聴きながら、図書室で借りてきた本を読んでいるタイプだった。

『初めまして。三峯芳乃です』

 彼女が初めて我が家に来たのは夏の盛りで、芳乃は長い髪をポニーテールにし、Tシャツにデニムというカジュアルな格好をしていた。

 芳乃は汗をタオルハンカチで拭き、『クーラーが効いていて涼しいね! 生き返る』と笑った。

『初めまして。仁科悠人(はると)です』

 俺が神楽坂暁人と名乗らず、仮名を名乗ったのには理由があった。

 当時、神楽坂グループは、顧客情報の漏洩という不祥事を起こしたばかりだった。

 大企業なだけに不祥事は大きなニュースになり、神楽坂グループにはネガティブなイメージがついてしまった。

 検索エンジンではサジェスト汚染され、口コミサイトでも宿泊した事のない人が低評価をつけ、罵詈雑言を書き立てる日々が続いていた。

 謝罪会見を行った時に祖父や父の顔がメディアに露出し、ネットで家族を馬鹿にする言葉を見ては胸を痛めていた。

 住まいも、それまで暮らしていた赤坂の神楽坂家にはマスコミが押し寄せる事もあり、俺は一時的に母方の実家である、青葉台の仁科家で暮らしていた。

 そんな背景があるので、芳乃が俺にネガティブな感情を抱く事を恐れ、仮名を使ってしまった。

 一目惚れして家庭教師になってもらったのに、我ながら情けない。

 ニュースで取り沙汰されるのは会社や経営陣だけで、一般人で子供の俺がやり玉に挙がる事はない。

 だが富裕層の子供が通う学校あるあるで、同級生の間でも神楽坂グループの不祥事は噂になっていて、俺はクラスメイトから腫れ物扱いされていた。

 避けられるだけならまだマシだが、時には陰口を叩かれ、いじられる事もあった。

 心理的な面から体調を崩しがちになった俺は、保健室で過ごすようになっていた。

 自分で言うのはなんだが、地頭はいいほうだし、覚えもいい。

 成績は常に五位以内を守っていたが、その一件があってから如実に成績が下がっていた。

 だから親に評判のいい家庭教師の話をしたら、『じゃあお試しで』と、すんなり承諾してもらえたのだ。

 しかし憧れの芳乃に会えたというのに、俺はすっぽりとパーカーのフードを被っていた。

 ぜひ家庭教師に来てほしいと言っておきながら、この態度は悪すぎる。

 けれど芳乃は色んな生徒を受け持ってきたからか、特に突っ込んでくる事はなかった。

『じゃあ、悠人くん。大学合格まで宜しくお願いします。ラストスパートの時期だからビシバシいくね。分からない所があったら、遠慮せず何でも聞いて』

『はい、宜しくお願いします』

 芳乃の教え方は、とても分かりやすかった。

 その意味でも、俺は芳乃への好意を高めていった。

 彼女は美しく聡明なだけでなく、冗談のセンスも良くて人を和ませる力がある。

 学校では人目を避けてウジウジしていた俺なのに、気がつくと芳乃といる時だけ本当の自分を取り戻せたような解放感を覚えていた。



**



『ねぇ、芳乃先生。俺、どうしても叶えたい願いがあるんだけど』

 俺がそう切り出したのは、彼女が家庭教師になってから、三か月経った秋の日だった。

 両親にも芳乃の評判は良く、母はずっと塞ぎ込んでいた俺が明るさを取り戻し、成績も上位に戻った事を『芳乃ちゃんのお陰』と言って彼女に感謝していた。

『願い? 将来の夢?』

 芳乃は栗きんとんを食べ終えたあと、お茶を飲んで聞き返す。

『夢……かな。でも、絶対に叶えたいから、ただの〝夢〟にはしたくない』

『じゃあ、願いだね』

『うん』

 俺の願いはたった一つ。

 芳乃に認められる立派な男になり、彼女と結婚する事だ。

 だが幸治に釘を刺されたように、家庭教師としての芳乃と恋愛関係になれば、せっかく彼女が築いた信用を崩しかねない。

 本気で恋をしているなら、自分の欲を優先するより芳乃の人生を第一に考えるべきだ。

 だから俺は無事にT大に合格したあと、〝生徒〟を卒業して彼女に告白しようと決めていた。
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