婚約者にバカにされ続けた侯爵令嬢が「ざまぁ」するに至るまで

26.ペンとサイン

「そういうわけですので、エリオット様もそちらにご記名のほど、お願いいたします」


 エリオットがいつまで経っても顔を上げないため、ミラジェーンは微笑みながらペンを勧めた。


「いっ、嫌だ!!」


 しかしエリオットは書類をテーブルへ叩きつけた。その拍子にペンが転がり落ちたが、控えていたミラジェーン付きの侍女が無表情で元に戻した。


「なぜですの?」


 ミラジェーンは心底不思議だという面持ちで首をかしげた。事実、彼女にとって心底不思議なことであった。

 だがエリオットは必死の形相でミラジェーンを見た。


「なぜ!? 何を言っているんだ! あれはただの遊びじゃないか。それを真に受けてこんな大事にして……! 僕を馬鹿にしているのか!?」


 悲痛な叫びにもかかわらず、ミラジェーンの心はまったく動かなかった。

 婚約してからエリオットに言われた心ない言葉には、あれほど悲しい気持ちになったというのに、今目の前で叫ぶ声には、心が少しも揺れなかった。


「君がオリン公爵家に嫁がなければ、僕の立場はどうなるのだ!?」

「エリオット様が今までわたくしの立場を考えてくださったことがありますか?」

「男と女じゃ話が違うだろう!?」

「どう違うのですか? わたくし、国営事業の経理を預かる身ですのよ?」


 エリオットが顔をゆがめた。

 それは怒りにも苦痛にも見えるものであった。


「……オリン公爵家の財政の立て直しはどうするんだ」

「それはわたくしの台詞ですわ」

「なっ」

「わたくしを無下に扱うというのはそういうことです。まさか、その覚悟もなしに火遊びに精を出されましたの?」


 ミラジェーンの淡々とした物言いに、エリオットは拳を強く握りしめた。

 その手は白く骨が浮き、ぶるぶると震えていた。


「エリオット様、サインをお願いします」

「いやだ……」

「往生際の悪いお方ですこと」


 ミラジェーンが呟いたが、エリオットはぴくりとも動かなかった。


「まあ、最悪サインされなくても構いませんわ」

「え……?」


 エリオットが期待を込めた眼差しをミラジェーンへ向けた。

 その視線を受けて、ミラジェーンの感情がこの日初めて動いた――心底、気味が悪かった。

 全身に鳥肌が立ち、思わず身を震わせた。


「ミラ、僕を許してくれるのかい? こんなにも愚かで、君にすがるしかない僕を……?」

「ち、違います!」


 ミラジェーンの声はほとんど悲鳴だった。

 エリオットは再び顔をゆがめる。


「エリオット様のサインがあろうがなかろうが、すでに国王陛下が婚約破棄を承認されています。もう、全ては手遅れなのです」

「な……っ!?」

「この場はわたくしからエリオット様への最後の誠意です。……エリオット様は、いかがなさいますか」


 ミラジェーンの真っ直ぐな視線を受けて、エリオットは一瞬目を合わせたが、すぐにうつむいた。やがて、のろのろと手を持ち上げ、テーブルの上のペンを取った。

 エリオットは書類にミミズののたくったような署名をし、ミラジェーンへ投げて寄越した。


「……これで満足か」

「はい、確かにちょうだいいたしました。では、わたくしはこれにて失礼いたします」


 ミラジェーンは受け取った書類をさっと確認し、手早く片付けて立ち上がった。

 軽く頭を下げ、ドレスとリボンをひるがえして客間を後にした。

 そのままミラジェーンと侍女が玄関ホールを過ぎようとしたとき、声をかけられた。

 ミラジェーンが顔を上げると、オリン公爵が階段を降りてきた。


「ブライズ嬢。愚息が最後までご迷惑をおかけした」

「オリン公爵様……いえ、今後ともブライズ侯爵家をなにとぞよろしくお願いします」

「それはこちらの台詞だ。今後とも、ブライズ侯爵、ブライズ嬢ともに助力を頼みたい」

「はい。我が家でできることでしたら、惜しむつもりはございません。本日は失礼いたします」


 ミラジェーンは頭を深々と下げて、今度こそオリン公爵家を後にした。



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