雨のち花憑き
月霧堂のお饅頭を堪能し、すっかりお腹も心も満たされたはずの鈴花だったが、目の前に広がる光景からは、一刻も目が離せそうになかった。
現世の神社なら、拝殿の裏手には社務所があったり、手入れの行き届いた植え込みがあったりするものだ。
けれど、この隠り世の神社は、一歩奥へ進むたびに、世界の理ことわりが歪んでいくような感覚に囚われる。
「⋯⋯綺麗。でも、なんだか不思議な場所」
鈴花が思わず呟くと、お茶を飲み終えたハクが、袖を揺らして立ち上がった。
「ふふ、そうでしょう?鈴花さん、少し歩いてみませんか? 食べ過ぎて身体が重くなってしまったクロを放っておいて」
「おい! 誰が重いって!? ⋯⋯ったく、勝手に歩き回るなよ、人間。ここはお前の学校の廊下じゃないんだからな」
クロは文句を言いながらも、素早く鈴花の隣に並び、周囲を警戒するように鋭い目を光らせた。
三人が歩き出した拝殿の裏手には、果てしなく続くような朱塗りの回廊が伸びていた。
回廊の脇に目をやると、そこには季節外れの桜が、満開の花を湛えて静かに佇んでいた。
「⋯⋯桜? 今、六月だよね?」
「ここでは、季節なんて言葉に意味はありませんよ」
ハクが指差す先では、桜の隣で鮮やかな紅葉が色づき、その足元では冬の椿が首を落とさぬまま凛と咲き誇っている。
「天満様が美しいと思った瞬間の景色が、そのままこの庭に留まっているのです。ですから、現世の時間軸で考えようとすると、頭が痛くなってしまいますよ」
鈴花は、その言葉に目眩を覚えるような感覚を抱いた。
万物の時が止まった庭。
そこは、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷な静止した世界だった。
回廊をさらに進むと、空気の温度が急激に下がった。
冷ややかな水の匂いと、土の香りが混ざり合う。
突き当たりに見えてきたのは、深い影を落とす森の入り口だった。
現世の森とは比べ物にならないほど背の高い竹が、天を突くように真っ直ぐに伸び、その隙間からは、一切の光を通さない濃密な闇が覗いている。
「⋯⋯あそこは?」
鈴花が足を止め、その竹林の方へ一歩踏み出そうとした瞬間。
「――止まれ」
低く、地を這うようなクロの声が響いた。
いつものやんちゃな口調ではない。
それは、獣が獲物を威嚇する時のような、本能的な鋭さを帯びていた。
クロは鈴花の腕を掴み、力任せに引き戻した。
「⋯⋯あそこから先は、絶対に行くな。遊び半分で足を踏み入れていい場所じゃない」
「クロくん⋯⋯?」
ハクもまた、いつもの柔和な微笑みを消し、真剣な眼差しで鈴花を見つめていた。
「鈴花さん。あの竹林の奥には、小さな池があるのです。そこは、天満様の気に入りの場所なのですよ」
ハクの言葉には、どこか祈りにも似た重みがあった。
「もし、あそこに勝手に入って、天満様の孤独を乱すようなことがあれば⋯⋯私たちは貴女を護りきれません」
「護りきれないって⋯⋯どういうこと?」
鈴花の問いに、クロが苦々しく顔を歪め、ボソリと吐き捨てた。
「⋯⋯殺される。それも、一瞬だ。あの方は、自分のテリトリーを侵されることを何よりも嫌う。特にあの池の周りだけは、あの方の理が最も強く働いている場所だ。あそこに触れることは、天満様の逆鱗に触れることと同じなんだよ」
殺される。
その物騒な単語に、鈴花の背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。
「⋯⋯ごめんなさい。知らなかったから」
「わかればいいんだ。⋯⋯お前、危なっかしいんだよ。死にたくなければ、俺たちの側を離れるな」
クロは掴んでいた鈴花の腕を放すと、気まずそうに顔を背ける。
竹林の奥からは、さらさらと葉が擦れ合う音が聞こえてくる。
それはまるで、迷い込んだ人間を誘い込もうとする、あやかしの囁き声のようにも聞こえた。
鈴花は、もう一度だけその暗闇を見つめ、それから静かにハクとクロの方へ一歩、歩み寄った。