雨のち花憑き


鈴花は拝殿の奥へと足を進めた。
足元に続く朱塗りの床は、鏡のように磨き上げられ、天井を見上げれば精緻な龍の彫刻が、今にも動き出しそうな眼光を放っている。


「⋯⋯ここ、どこまで続いてるの?」


鈴花が小声で尋ねると、前を歩くクロが「さあな。俺たちも全部は把握してねぇよ」とぶっきらぼうに答えた。


回廊を曲がるたびに、現世の距離感が狂っていく。

数歩歩いただけのはずなのに、振り返れば入り口の光は豆粒ほどに小さくなり、代わりに左右には数え切れないほどの障子戸や、ふすまが並んでいた。


そのどれもが、固く閉ざされている。
まるで、何か大切なものを隠しているかのように。


――スゥ、と。

隣のふすまが、まるでもてなすかのように、音もなく滑らかに左右へと開かれた。


​「⋯⋯騒がしいと思えば。また、来ていたのか」


低く、耳元で囁かれるような、深く澄んだ声。
銀髪をひと房、肩から流した天満が、射抜くようなアイスブルーの瞳を鈴花に向けた。


彼は立ち上がることもなく、ただ、侵入者であるはずの鈴花をじっと見つめている。
その眼差しは、昨日見た時よりもどこか柔らかく、けれど、触れてはならない神域のような気高さに満ちていた。


​「⋯⋯傘は、役に立ったか」


​天満の問いに、鈴花は慌てて、腕に抱えていた朱い番傘を差し出した。


「あ、はい! 昨日は、本当にありがとうございました。これ、お返ししなきゃと思って⋯⋯」


「⋯⋯そうか」


​天満は短く答えると、再び視線を竹林の方へと戻した。
彼が纏う空気は、あまりにも孤独で、けれど完成された美しさを持っていた。


「⋯⋯邪魔を、しました」


鈴花が深く頭を下げて扉を閉めようとした時。
天満が、振り返らずにポツリと呟いた。


「⋯⋯菓子は、甘かったか」


その一言に、鈴花は目を見開いた。


見ていたのだ。
彼が独りでこの静寂の中に居ながら、自分たちが縁側ではしゃいでいたのをどこかで見守ってくれていたのだ。


「⋯⋯はい。とっても、美味しかったです!天満⋯⋯様?のも取ってありますよ」


​鈴花が笑顔で答えると、天満の肩がわずかに揺れた気がした。
それは、笑ったようにも、あるいは、懐かしい記憶を愛おしむため息のようにも見えた。


「⋯⋯あと、天満でいい」


鈴花は一瞬、自分の耳を疑って、大きな目を見開いた。


「え⋯⋯?」


「⋯⋯様など、いらん。お前には、そう呼ばれる方が心地よい」


天満は相変わらず庭を見つめたままだ。


その瞬間、回廊の影から、二つの気配が激しく揺れた。


「⋯⋯は」

「⋯⋯え?」


覗き見をしていたハクとクロが、今まで見たこともないような顔をして固まっていた。

いつもおっとりしているハクは。口をぽかんと開けて、その目がこぼれ落ちそうなほど見開かれている。
一方でクロは、叫び声を上げることも忘れ、彫像のように静止していた。



そんな騒ぎをよそに、天満はただ、静かに鈴花を振り返った。


「⋯⋯嫌か?」


「い、嫌じゃないです! ⋯⋯天満」


初めて口にする、彼の名前。
呼び捨てにするにはあまりに高貴な響きに、鈴花の心臓は爆発しそうなほど大きく波打った。


「⋯⋯そうか」


天満が、ほんの一瞬だけ、誰にも見せたことのないような、微かな微笑を浮かべた気がした。


「⋯⋯お前が来ると、この庭に、今までなかった風が吹く。⋯⋯悪くない」


天満は視線を庭に向けたまま、白磁のような細い指先で、自分のすぐ隣の床板を「トントン」と軽く叩いた。


「そこに座れ。⋯⋯日が沈むまで、少し時間がある」
 

その一言に、鈴花の心臓は喉元まで飛び出しそうになった。
え⋯⋯? 隣? 私が隣に⋯⋯!?


戸惑う鈴花の背後で、ハクがふわりと微笑み、どこか安心したように一歩下がった。
二人は目配せをすると、音もなく回廊の闇へと消えていく。


残されたのは、銀髪の主と、ただの女子中学生の二人だけ。
鈴花は、壊れ物に触れるような足取りで、恐る恐る天満の隣に腰を下ろした。



座った瞬間、肌を撫でたのは、この世のものとは思えないほど清廉な、雪のような冷たさだった。

天満の体からは、熱というものが一切感じられない。
氷細工の隣に座っているような、ひんやりとした気配。


けれど、不思議と拒絶されている感じはしなかった。
むしろ、その冷たさが、緊張で火照った鈴花の頬を優しく冷ましてくれるような気がした。
 

「天満様⋯⋯天満は、いつからここに住んでるんですか?」


「いつからだろうな。ハクやクロが来たのも最近だからな。⋯⋯それを含めずとも、千か、万年ほどか」


鈴花が、永遠に散ることのない庭の桜を見つめて呟く。


「⋯⋯そんなに、独りで」


天満は相変わらず庭を見たまま、静かに口を開いた。


「⋯⋯独り、か。そうかもしれん。ハクやクロが騒がしくしていても、この場所を流れる時間は、私にしか止めることができない。⋯⋯私にとって、この景色は、終わらない罪のようなものだ」

 
罪。
こんなに美しい景色を、彼はそう呼んだ。


鈴花は、自分の制服の裾をぎゅっと握りしめた。
何万年も、たった独りで、変わらない美しさを守り続けることが、どれほど残酷な孤独なのか。


「⋯⋯私、は」


鈴花が何かを言おうとした時。
不意に、天満が初めて、その深いアイスブルーの瞳を鈴花に向けた。


「⋯⋯鈴花」


ポツリと、名前を呼ばれた。
ただそれだけなのに、鈴花の体中に、電気が走ったような衝撃が突き抜けた。


彼の声は、雪解け水のように冷たく、けれど、春の陽だまりのように優しく響いた。


「⋯⋯お前が来ると、この止まった水の中に、一粒の石が投げ込まれたような気がする。波紋が広がり⋯⋯少しだけ、息ができる」


天満の視線が、鈴花の唇、そして瞳へとゆっくりと動く。
触れ合っていないはずなのに、彼の冷たさが、鈴花の体温を求めてじわりと伝わってくるような感覚。


二人の間に流れる時間は、間違いなく、今、この瞬間にだけ存在する特別な日常だった。


「あの⋯⋯また、お菓子持ってきてもいいですか? 月霧堂の、違う種類のもあるから」


天満は答えなかった。
けれど、去りゆく鈴花の背中に向かって、一言だけ、雪が降り積もるような静かな声で言った。
 

「⋯⋯明日も、雨が降るだろう」
 

それが、彼なりの「待っている」という約束だと、鈴花にはすぐにわかった。

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