雨のち花憑き
石段を一段、また一段と踏みしめるたびに、背後の雨音が遠のいていく。
叩きつけるような水滴の衝撃は確かにあるはずなのに、耳に届くのは、自分の乱れた呼吸と、濡れた靴が石を打つ鈍い音だけ⋯⋯。
鳥居をくぐり抜けた瞬間、世界から色が消え、濃密な白銀の霧が足元から這い上がってきた。
「⋯⋯え? なに、これ⋯⋯」
振り返っても、先程まで走ってきたはずの通学路は見えない。
あるのは、底知れない白の闇だけ。
呆然と立ち尽くす鈴花の前に、ふわりと、温かな提灯のような光が二つ、霧の中から浮かび上がった。
「おやおや⋯⋯迷子さんですかねぇ?」
のんびりとした、春の陽だまりを思わせる声。
霧の中から姿を現したのは、真っ白な、袖の長いパーカーのような羽織をゆったりと着こなした少年だった。
その頭頂部には、ふかふかとした白い耳が、声に合わせてぴこぴこと揺れている。
狐⋯?いや猫?というか、人間???
鈴花が言葉を失って固まっていると、その背後から、もう一つの影が飛び出してきた。
「おい、ハク! 気安く話しかけるなと言っただろう。人間だぞ、人間! 穢れがうつったらどうするんだ!」
現れたのは、対照的に真っ黒な着物を短く着崩した、鋭い目つきの少年。
彼にもまた、ぴんと尖った黒い狐耳がついている。
腰に巻いた帯を乱暴に締め直しながら、彼は鈴花を指差して顔を真っ赤にさせた。
「な、なんだその格好は!⋯⋯その、身体の線が見えてるだろうが!はしたない、さっさと隠せ!」
「ちょっと、クロ。そんなに怒鳴ったら怖がらせてしまいますよ。ただ雨宿りに来ただけなのですから⋯⋯ねぇ?」
白狐のハクは、困ったように微笑みながら、鈴花の濡れた肩にそっと手を置こうとした。
しかし、それよりも速く、黒狐のクロが間に割り込んでくる。
「触るなと言ってるだろ! ⋯⋯ほら、これでも被ってろ、馬鹿人間!」
クロが放り投げたのは、どこから取り出したのか、古めかしいが手触りの良い羽織だった。
鈴花の頭からがばりと被せられたそれは、不思議と焚き火のような温かさを帯びている。
鈴花は、あまりの出来事に目を白黒させた。
「あの、ありがとうございます⋯⋯。えっと、ここは⋯⋯?」
「うーん。ここは隠り世(かくりよ)の入り口⋯⋯普通の人間は、まず辿り着けない場所なのですが⋯⋯ふふ、不思議なご縁ですねぇ」
ハクがおっとりと首を傾げる。
一方で、クロはふいっと顔を背けている。
「ふん、どうせ雨に呼び寄せられただけだろう。お伽話⋯⋯あるわけないんだからな」
クロの言葉に、ハクが意味深に目を細める。
二人の不思議な存在を前に、鈴花は恐怖よりも、なぜか懐かしい安らぎを感じていた。
けれど、ここは自分の知る世界ではない。
白狐のハクが、鈴花の顔を覗き込むようにしてふわりと微笑んだ。
「おやおや、名乗るのを忘れていましたねぇ。私はハク。そちらでいう、あやかし。そっちの、顔を真っ赤にして尻尾を振り回しているのがクロと言います⋯⋯。貴女は、どこのどなたですか?」
クロは「誰が尻尾を振り回してんだ!」と噛みつこうとしたが、鈴花の視線に気づくと、ばっと顔を背けた。
鈴花は、あまりに非日常な光景に戸惑いながらも、羽織ったストールの温かさに少しだけ勇気をもらって、震える声で答えた。
「私⋯⋯水ノ葉鈴花、と言います。中学二年生です⋯⋯。その、日直の仕事で遅くなっちゃって、雨宿りにここへ⋯⋯」
「ミズノハ⋯⋯スズカ、さん。ふふ、綺麗な名前ですねぇ。この土地を護る社と同じ名を冠するとは、やはりただの迷子ではなさそうです」
ハクがおっとりと頷く。その背後で、クロが不自然なほど大きな声で鼻を鳴らした。
「ふんっ!人間界のガキがこんな場所に一人で来るなんて⋯⋯危なっかしいんだよ!」
そう言いながらも、クロは霧の向こうから吹く冷たい風を遮るように、さりげなく鈴花の前に立っている。
ツンツンしているけれど、優しいのかな?
鈴花の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
――その時だった。
社の奥から、一筋の冷ややかな風が吹き抜けた。
霧が割れ、そこから一人の青年が音もなく姿を現す。
腰まで届く長い銀髪は、雨露に濡れて月の光を閉じ込めたように輝き、深い夜の海のような瞳は、射抜くような冷たさを湛えている。
真っ白な着物に、濃紺の袴。
その立ち姿は、この世のものとは思えないほど美しく、同時に、触れれば指先が凍りつきそうなほどの孤独を纏っていた。
ハクがそれまでのおっとりした表情を引き締め、深々と頭を下げる。
隣で毒を吐いていたクロも、弾かれたように背筋を伸ばし、慌てて自分の太い尻尾を隠すように背後に回した。
「騒がしいな。⋯⋯客か」
低く、深く響く声。
鈴花は、その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
知らないはずの人。
会ったこともないはずの、神様のような人。
なのに、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
「おや⋯⋯。天満様、起きてらっしゃったんですか?」
ハクの問いかけは、静まり返った境内に波紋のように広がっていった。
「⋯⋯懐かしい匂いがしたものでな。眠りも浅くなる」
「懐かしい匂い」という言葉に、ハクとクロが顔を見合わせる。
「匂い⋯⋯ですか? 誰かさんのせいで、今は湿気た犬のような匂いしかしませんけれど⋯⋯」
「おいハク! 誰が犬だ、誰が! 俺は高貴な黒狐だぞ!」
「あら、失礼。天満様の眠りを妨げるほど、クロの怒鳴り声が響いていたということでしょうかねぇ」
「なっ⋯⋯! それは、この人間が、勝手にここまで入り込んできたからで⋯⋯!」
クロが顔を真っ赤にして地団駄を踏むが、天満はそんな二人の騒ぎを歯牙にもかけない。
ただ、じっと、射抜くような視線で鈴花を見つめている。
鈴花は、その視線から逃げ出すことができなかった。
怖い。
けれど、なぜかその瞳の奥にある「寂しさ」のようなものに、胸が締め付けられる。
「あ、あの⋯⋯。ごめんなさい、勝手に入っちゃって。雨が、すごかったから⋯⋯」
鈴花が震える声でそう言うと、天満はわずかに眉を動かした。
彼はゆっくりと歩を進め、鈴花の目の前で足を止める。
見上げるほど背の高い彼の影に、鈴花の小さな体がすっぽりと飲み込まれた。
天満は背後の壁に立てかけられていた、一際古く、けれど気品溢れる朱色の番傘に手を伸ばした。
「⋯⋯持って行け」
「え? でも、これ、すごく高そうな⋯⋯」
「クロ。そのストール、そのまま貸しておいてやれ」
「えっ! 嫌ですよ、これ俺のお気に入り⋯⋯って、天満様が仰るなら仕方ないですけど⋯⋯。おい、人間! 汚すなよ、絶対に汚すなよ!」
クロがぷいっと顔を背けながら、もぞもぞと自分の耳を動かす。
ハクはその様子を見て「ふふ、素直じゃありませんねぇ」と楽しそうに笑った。
「⋯⋯帰れ。道を失う前に」
天満がそう呟いた瞬間、社の周囲の霧が、生き物のように激しく渦巻き始めた。
視界が真っ白に染まっていく。
「あ、待って⋯⋯!」
鈴花が手を伸ばした時、ハクとクロの声が、遠くの方で重なって聞こえた。
「また、お会いしましょうね」
次の瞬間、ふっと体が浮き上がるような感覚に襲われ、鈴花の意識は白濁した闇の中へと沈んでいった。