親友に婚約者を奪われた毛虫令嬢は、腹黒王子様に捕獲されてしまった〜この溺愛からはきっと逃れられない〜

9 彼の毒(2)

 奥の部屋は書庫のようになっていて、壁一面にずらりと様々な専門書が並んでいた。正面には小さな格子窓があり、木々の隙間からの柔らかな光が注いでいる。
 足元にはいくつもの標本箱が積み上がり、雑然としていた。

「これですよぉ」
 手招きする先生の元に行き、標本箱を覗き込んだ。
 赤や黄色など色鮮やかに鱗粉が輝き、様々な色の斑紋や、波打つような見事な縞模様。どの蝶も、息を呑むほどの美しさだった。

「わぁ、綺麗!」
 私が感嘆の声を上げると、先生もうなずいている。
「そうでしょう? メイコブの蝶は鮮やかですよねぇ。他にももっと標本があるので、また探しておきますねぇ」
「はい。よろしくお願いします」

 部屋の外から「先生ー」とクリフさんの呼ぶ声が聞こえる。
「二人とも、好きなだけ見ていっていいですからねぇ」
 そう言って微笑んで先生は部屋を出ていった。

 標本を眺めていると、その中にある一匹の青い蝶に目が止まる。この前、王宮の庭園で見かけた蝶とそっくりだった。

「あ、これは庭園にいた蝶……?」
 レノ様もその存在に気付いたらしい。
「はい! モルフォ蝶です!」
 横を向くと思ったより近くにいたレノ様に驚いて、心臓がドキッと高鳴る。

「モルフォ蝶か……、綺麗だな」
 そう呟きながら標本を見つめるレノ様に、目を奪われてしまう。

(うわぁ、蝶に負けないくらい綺麗な横顔……。肌なんて透き通るように白くて、まつ毛も私よりずっと長いわ)
 窓から差し込む光を浴びた金色の髪が、キラキラと輝いていた。

「私の顔に何か付いてるかな?」
 見つめていたのがバレていたらしく、焦ってしまう。
「あ、いえ、なんと言いますか、レノ様はやはりお綺麗ですね……」
 私が正直に答えると、レノ様は眉をピクリと動かし僅かに表情を変える。

「……こいつも……同じか」
「……?」
 彼がぼそっと何か呟いたようだったが、聞き取れなかった。

(レノ様のこの美しさは何かに似てる……、ずっと思っていたのだけど、思い出したわ!)

「……その金色の髪に黒い瞳。そう、まるで……リンゴドクガの幼虫のようで、本当に美しいです……」
 私がうっとりして言うと、

「……リ、ンゴ……、ドクガ……?」
 レノ様は戸惑う仕草を見せる。

「はい! リンゴドクガという蛾の幼虫は、フワフワした黄色の毛並みが特徴の毛虫でしてっ。外部から刺激を受けるとくるんと丸くなり、黒い目のような模様を見せて威嚇するんですよっ。それがまた可愛くて……あ、安心してください、レノ様! ドクガと言う名前ですが、毒はありませんっ!!」
 
 私が人差し指をビシッと立てて熱弁を振るうと、レノ様は呆気に取られたように瞬きを繰り返し、

「――ふっ、あはははっ」
 突然吹き出した。
 いつも笑顔なレノ様だけど、こんな楽しそうな姿は初めて見たかもしれない。
 
「そうか。毛虫ねー」

 笑い終わった彼は、目を細めて僅かに口元に笑みを浮かべると、私を見下ろした。その黒い瞳の奥には、どこか妖しさが宿っている。
 未だかつて見たこともない冷酷な笑顔に、私の心臓がドクドクと嫌な音を立てた。

「やっぱ、おもしろいね、おまえ。でも、俺には毒があるかもよ?」

(――!?)

 レノ様がゆっくりと近づき、私の耳元に顔を寄せると、冷ややかな声で囁いた。

「せいぜい俺を楽しませろよ、ティナ」

「っ!?」

 私の背中がゾクリと震える。怯える私を見てレノ様がふっと鼻で笑うと、横を通り過ぎていった。
 コツコツと靴音が遠ざかっていく。

(――今のは、なに? なんか、私……、とんでもないことに巻き込まれてるんじゃ……?)

 私はしばらくその場から動けなかった。



 痛い――。視線が、至近距離からブスブスと頬を突き刺してくる。資料をめくる指先が震えて止まらない。
 先程から、深い黒い瞳がじっとこちらを見つめているからだ。
 いつもはテーブルの向かいに座っているレノ様は、なぜか今は私の隣を陣取っている。

「あ、あの……、私に何か……御用でしょうか?」
 耐えきれずに尋ねると、レノ様は頬杖をついたまま口の端を吊り上げる。

「ん? 可愛い婚約者を見つめるのに理由なんて必要かな?」
「かっ、かわっ!?」

(婚約者っていっても、フリをしてるだけじゃないですか! そこまで演技しなきゃダメなんですか!?)
 言い返したいが先生たちの前でバラすわけにはいかず、言葉を呑み込む。

「ふっ、耳まで真っ赤だよ。本当に可愛いなぁ、私の婚約者殿は」
 甘く微笑んで、私の髪を長い指先でそっと掬う。そして、耳元に唇を近づけ、

「――楽しませろって言ったよな?」
 私にしか聞こえない低い声で囁いた。

「――っ!?」
 驚きと恐怖で後ろに大きく仰け反り、私は思わず自分の耳を手で押さえる。
(なっ、たっ、楽しませろって、こういうことなのっ!?)

「ティナ、そんなに後ろに動いたら危ないよ。ほら、こっちにおいで」
「う……、は、はい……」
 振り返って見れば、もう少しで書類の山にぶつかるところだった。
(その原因を作ったのは、他ならぬレノ様なのにっ!)
 納得できないが、言われるままに元の位置に戻る。

「ふっ、本当に君は手のかかる子だね。こうやって捕まえていないと、すぐに逃げ出してしまいそうだ」
 そう言いながらレノ様は、私の肩を優しく抱き寄せる。

「ひぇっ!?」
 驚いてレノ様を見上げると、その瞳は珍しい玩具を見つけた子供のような色をしていた。
(……ぜ、絶対に、からかって遊んでるんだわ!)
 
「はぁ……、俺たちは一体何を見せられてんだー?」
 私たちの正面に座っているクリフさんが、呆れたように声を上げる。
「ふふふっ、若いっていいですねぇ」 
 コリンズ先生はズレた眼鏡を上げながら、楽しげに微笑んでいた。
「あ……、いえ、これはっ」
 弁明しようにも焦って言葉が出ず、レノ様を横目でチラリと見ると、彼は口元を押さえ声を殺して笑っている。

「……さてと、名残惜しいけど、調査を進めないといけないね」
 レノ様がやっと私を解放し資料へ向き直ったので、ほっとして息を吐く。

 しかし、レノ様の毒? に触れた私は、まだ動揺が収まらなくて、そのあと資料を読もうにも全然集中できなかった。
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