優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
 唇が触れ合ったのはほんの一瞬だったはずなのに、やけに長く感じた。離れたあとも、そこだけがじんと熱を持っていて、現実感が追いつかない。
 部屋に漂うのは、さっきまでとはまるで違う沈黙だった。逃げ場のないものではなくてどこか満たされたような、柔らかい静けさ。彼は少しだけ名残惜しそうにこちらを見つめて、それからふっと力を抜いたように息を吐いた。

「…これ以上は、やめときます」

 その言い方に、どこか安堵してしまう自分がいる。きっと、今はそれでよかった。

「……うん」

 短く頷くと、彼は小さく笑った。

「お酒も入ってますしね」
「そうだね」

 確かに、頭が少しぼんやりしている。さっきのキスもこの空気も、現実なのにどこか夢みたいだ。

「いい時間ですし、寝ましょうか」

 穏やかな声でそう言われて、また素直に頷いた。自然と一緒のベッドに入ったのは、すっかり絆された果てなのか。
 それでも横になって電気を消すと、不思議と緊張も緩んでいった。暗闇の中で、少しだけ体を丸める。すると、背中にふわりと温もりが触れた。

「……嫌じゃないですか?」

 遠慮がちな声。

「…うん。嫌じゃないよ」

 そう答えると、彼の腕がゆっくりと回される。強くはないけれど、逃がさないような抱き方だった。

「おやすみなさい、先輩」
「おやすみ、一ノ瀬君」

 小さく交わした言葉のあと、しばらくはお互いの呼吸だけが聞こえていた。アルコールのせいか、体が重くなっていく。瞼も自然と落ちていく。彼の腕の中は、思っていたよりずっと安心できて、抗う理由も見つからなかった。

 意識が沈んでいく直前、微かに感じた体温だけを頼りに、そのまま深い眠りに落ちた。
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