優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
誰のための幸福論
 一ノ瀬君と『仮恋人』である限り、その関係はどこかで守られているものだと、私は疑いもせずに信じ込んでいた。
 彼は周囲の視線をさりげなく遮るように振る舞い、時には牽制めいた言葉さえ口にする。私に対しても遠慮なく距離を詰めてきて、仕事終わりの残業後には一緒に帰ることが当たり前になっていた。

 恋人になるか。
 それとも、ただの先輩と後輩に戻るのか。

 答えを出すリミットまで、残された時間はあと1ヵ月だった。


 そんな、ぬるくも心地のいい均衡が続くと思っていたある日。
 平穏を鋭く切り裂くようにして現れたのはマーケティング部の敏腕エース、高城(たかぎ) 美波(みなみ)だった。

 彼女は、目を引く人だった。華やかというよりは、凛としていて隙がない。無駄のない所作に、よく通る声。誰かに媚びるでもなく、それでいて自然と周囲の視線を集めてしまう。初めて見かけたとき、同じフロアの空気がわずかに張り詰めた気がした。

 そして、彼女の視線の先に一ノ瀬君がいた。

 「一ノ瀬、久しぶり」

 親しげに名前を呼ぶ声。彼は驚いたように目を見開いた後、すぐに彼女の元に歩いて行った。そのやり取りを少し離れた場所から見ていた私は、胸の奥で小さく何かが軋む音がした気がした。

__知らない関係が、そこにある。

 今まで疑いもしなかった『仮恋人』という立場が、急に頼りなくなった。まるで、足元の地面が静かに崩れ始めているような、不安がじわりと広がっていくのを感じることしかできなかった。
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