優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
定時のチャイムが鳴ったが、一ノ瀬くんは私の元には来なかった。いつもなら自然と隣に立つはずの気配が、今日はない。それだけのことで、こんなにも不安になるなんて思いもしなかった。
「先輩、今日は会議が長引きそうなので、」
それだけで、一ノ瀬君が何を言いたがっているのか分かった。どこか遠慮がちな、でも事務的な響き。皆まで言わせるのは申し訳ないため、頭を振って彼の言葉を遮った。
「分かったわ。ありがとう」
そう返事をすれば、勝利を確信したかのような高城さんの明るい声が追いかける。その笑い声がやけに軽く、耳に残った。つい顔を顰めるも、それを指摘する人はいなかった。
これ以上は会社にいたくなくて、逃げるように退社した。エレベーターの扉が閉まる瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んで、息が浅くなる。
(仕事なら仕方ない。一ノ瀬くんにとっても良い経験になるはず)
帰路を歩きながら、何度も自分に言い聞かせる。理屈ではそう分かっても、視界の端で揺れる街灯の光が滲むように見える。足取りは一定のはずなのに、どこか地面を踏みしめきれていない感覚があった。
高城さんに一ノ瀬君が惹かれないだろうか。迷いなく欲しいものを取りにいく彼女と、曖昧なまま立ち止まっている私。比べるまでもないのではないかという考えがじわじわと広がっていく。
お試しなんて中途半端な関係を続ける私より、彼女の方が真っ直ぐに彼のことを求めてくれるのではないか。そう思った瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
「……結局、待たせて我が儘言って、逃げたのは私じゃん」
零れた声は自分でも驚くほど弱かった。夜の空気に溶けて、すぐに消えてしまう。
仕事の自信も仮恋人としての余裕も、高城さんの登場であっけなく崩れようとしていた。
偶然ではなく、必然だったのだと、どこかで分かってしまっている。
それが悔しくて仕方なかった。