優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
すっかり慣れてしまった彼の家に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
ここに来ること自体はもう珍しくないはずなのに、今夜はどこか空気が違う。流れのまま連れてこられたものの、どうしてここに来たのか。その理由が分からない。
「あの、一ノ瀬くん。私どうしてここに、」
言い終える前だった。
ドンッと鈍い音が響き、気づけば壁際へと追い詰められていた。いわゆる壁ドンという状況に、思考が一瞬止まる。顔を上げれば、至近距離にあるのは見慣れているはずの彼の顔――けれど、その表情は今まで見たことがないほど険しかった。
「か、顔が怖いわよ…」
「ねえ先輩、どうして俺のこと引き留めてくれなかったんですか」
逃げ場を塞ぐように距離を詰められ、息をするのもためらうほど近い。視線を逸らすことすら許されない空気の中で、彼の言葉だけが真っ直ぐに突き刺さる。
「なーにが『今度は本心から見送る』ですか。そんなこと、僕は微塵も望んでいませんでしたよ」
「だって…」
「だってじゃないです。なんなら、泣き喚いてでも引き留められる方がよっぽど良かったです」
「さっき高城さんのこと、『うるさい』って一蹴してたくせに」
「先輩は自分のことになると、何も言わなすぎなんですよ」
その言葉に、胸の奥が強く痛んだ。
仕事という正論を盾にして、自分の弱さから目を逸らしていたことは、誰よりも自分が分かっている。嫉妬で醜く取り乱す自分を見せるのが怖くて、物分かりの良い先輩という立場に逃げ込んだ。
その自覚があるからこそ、何も言い返せず、喉の奥で言葉が詰まる。
「……食事の席で言われたんです。白石さんはあなたの才能に嫉妬しているだけだって」
一瞬、空気が冷えたように感じる。
「…ほんと、笑わせないでほしいですよね。堪えるのがどれだけ大変だったことか」
壁に押しつけられた腕に、さらに力がこもる。その圧に、思わず息が浅くなる。
「で、でも、高城さんにあんな言い方して…。もし仕事に影響が出たら、どうするつもりなのよ」
「この1件で仕事に影響が出るなら、それまでです。そんなことより、」
そこで言葉が切られる。次に紡がれた声は、先ほどよりも低く、鋭かった。
「僕が1番許せなかったのは、高城さんじゃない。……先輩です」
敬語のままなのに、その響きは刃のように鋭く胸を裂いてきた。