優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
 翌朝のオフィスは、昨日までの騒がしさが嘘のように静まり返っていた。正確には静かというより、誰もが空気の正解を探しながら息を潜めているような、妙な緊張が漂っている。その中心にいるのは高城さんだった。
 ヒールの音は規則正しく響いているのに、その1歩1歩には昨日までの迷いのない鋭さがない。ほんのわずかに遅れているような、踏みしめるたびに確かめているような、そんな違和感があった。きっと皆も感じているのだろう。だからこそ、息を潜めて彼女のことを見つめていた。
 彼女はそんな視線を集めていることを知ってか知らずか、まっすぐ一ノ瀬くんのデスクの前に向かうとピタリと立ち止まった。

「高城さん?」

 さすがに違和感を感じたらしい一ノ瀬君が手を止めて彼女を見上げたと同時に、彼女は深々と頭を下げた。

「……昨日は、ごめんなさい」

 その声には、いつもの張り詰めた強さがなかった。震えていて、弱弱しい。それでも、その謝罪が上辺だけではないことは明白だった。

 オフィスの空気が一瞬で固まるのを感じる。私も手元の資料から視線を上げたまま、その場を見つめてしまっていた。高城さんは顔を上げることなく、言葉を続ける。

「仕事のやり方も、言い方も……全部、間違っていたわ。本当にごめんなさい」

 一度だけ言葉を切り、彼女は小さく息を吐いた。

「一ノ瀬のことも、白石さんのことも……ちゃんと見ていなかった」

 その言葉に、周囲の空気がさらに静かになるのが分かる。
 一ノ瀬くんはキーボードから手を離し、短く彼女を見上げた。その表情はいつもと変わらず落ち着いていて、感情の揺れはほとんど見えない。

「…考えを改めていただけたのなら、それで十分です。この後、先輩の所にも行くんですよね」
「ええ」

 その言葉に、一気に私にも視線が集まる。気まずくなっていれば、チラリと一ノ瀬君と目が合った。それから彼は、短く息を吐いた。

「なら、僕から言うことは何もありません。これからもよろしくお願いします」

 きっとそれは、一ノ瀬君なりの許しだったのだろう。
 仕事仲間として線引きをした上での精一杯の恩情。それを感じ取ったらしい高城さんは、もう一度頭を下げてから私の所にもやって来た。

「白石さん」
「はい」
「昨日は…いえ、昨日より前からずっと、本当に申し訳ありませんでした」

 少しだけ間が落ちる。

「あなたに対して、失礼なことをたくさん言いました。仕事のやり方も、人としての在り方も……勝手に決めつけていました。ごめんなさい」

 深く、頭が下がる。オフィスの空気がさらに静まり返る中で、私はしばらく言葉を探していた。けれど結局、出てきたのは素直な一言だった。
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