優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
最高の相棒
 季節が何度巡っても、このオフィスの空気は変わらない。
 微かに漂うコーヒーの香りと規律正しいキーボードの打鍵音。そして、大きなプロジェクトが発足する直前の肌を刺すような、それでいて心地よい独特の熱気。

 私はデスクで最新の市場調査資料を捲りながら、ペンを走らせていた。30代半ばに差し掛かった私の肩書きは、時の流れとともに着実に重みを増していった。背負う責任は大きくなり、決定を下す数字の桁も増えた。けれど、この仕事に対する渇望と情熱が枯れることは一度としてなかった。

「白石マネージャー……。あ、今は一ノ瀬マネージャーでしたっけ? ごめんなさい、未だに呼び間違えちゃうわ」

 隣のデスクから、少し慌てたような、けれど親愛の情がこもった声が響く。顔を上げると、そこには目尻の笑い皺が少しだけ増えた相変わらず朗らかな佐藤さんが立っていた。

「どちらでも構いませんよ。仕事の上では旧姓の『白石』で通していますし、私自身、まだその響きの方がしっくりくるんです」
「ふふっ、そうでしたね。仕事に関しては、誰よりもストイックな白石さんらしいわ。それにしても…」

 佐藤さんの視線が、資料を押さえる私の左手に落ちた。そこには、派手な装飾こそないけれど、確かな重厚感を湛えた銀色の指輪がオフィスの無機質な蛍光灯を反射して静かに光っている。

「結局、寿退社はしなくて良かったんですか?」

 佐藤さんの少しだけ茶目っ気を含んだ問いかけに私はペンを置き、窓の外に広がる抜けるような青空を仰いだ。

「ええ。だって、ずっと彼の『憧れの先輩』でいたいですから」

 私は自然と溢れた笑みを隠すことなく、そう答えた。その答えが、何よりも私を私たらしめている証拠のように思えた。

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