優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
 サクサクのトーストを齧れば、ふわりと温かな味が広がる。昨夜あんなに心を揺さぶられたのが嘘のように、朝の光の中の一ノ瀬君は淡々と食事を進めていた。心地よい沈黙の中にコーヒーを啜る音が響く。
 特に会話もなかった中、彼が不意にスマホを手に取った。

「そうだ、先輩。急なんですけど、お互いの連絡先を交換しませんか?」
「え?連絡先?」

 思わず咀嚼が止まる。思わず問い返せば、彼は頷いた。

「うーん…。でも、いらなくない? 会社に行けば会えるし、用事があれば直接言ってくれて構わないわよ」

 私の言葉に、一ノ瀬くんは呆れたように片眉を上げる。その目は、理解力の悪い生徒を見る教師のようだ。単純に不服。ジトッと彼を見つめると、仕方ないと言った表情を向けられた。

「社員アドレスでもいいですけど、私用の連絡先を持っていれば何かと助かることがあると思いません?今回のことみたいに、社外のことも気軽に話せますし」
「それは、まあ……確かにそうかもしれないけど」
「昨夜だって、もし連絡先を知っていれば待ち伏せなんてことしなくて済んだんですよ」

 待ち伏せしていたことをさらっと白状したことについて問い詰めたくなったが、今は後回しにしよう。それよりも、先に連絡先の交換について考えるべきだ。
 彼の言葉を受けて少し考えたが、私の私用の連絡先にそこまで価値があるとは思えない。それに、一ノ瀬君の言い分はもっともだ。社員アドレスよりも気軽に連絡を取ることができるのは大きなメリットに違いない。それに、交換しても使わなければいいだけのこと。そう思えば、躊躇することなんてない気がした。

「分かったわよ。はい、これ」

 観念してQRコードを表示したスマホを差し出すと、彼は喜々としてそれを読み込んだ。
 アドレスが追加されたことを知らせるポップに表示された『一ノ瀬 涼』の文字。その名前を見て、妙なむず痒さが走る。

「ありがとうございます。追加させていただきました。これで連絡とりやすくなりますね」
「なんでそんなに嬉しそうなのよ」
「念願だったので」

 その言葉に、これ以上追及してはいけないことを察する。

 まあ、この2日間お世話になったわけだし、この程度のお願いを聞いてもお礼としてはむしろ足りないぐらいだろう。嬉しそうな表情を隠そうともしない一ノ瀬君を可愛らしいと思ってしまうあたり、彼への認識がだいぶ変わって来たのだとようやく自覚したのだった。
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