優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
 オフィスを出ると、夜の空気は驚くほど澄んでいた。駅へと続く並木道を一ノ瀬くんと肩を並べて歩く。街灯に照らされた私たちの影が、アスファルトの上で伸びたり縮んだりするのをぼんやりと眺めていた。

「……そういえば、先輩。大事なことを忘れていました」

 ふいに、隣を歩く彼の足が止まった。私もつられて足を止め、首を傾げて彼を見上げる。

「大事なこと? 明日の会議のことなら、さっき資料送ったけど……」
「仕事の話じゃありません。先輩の誕生日、まだちゃんとお祝いしてないなって思っていたんです」

 心臓が、不意打ちの衝撃にドクリと跳ねた。
 深夜のオフィスで、1人でカップ麺を啜りながら迎えた29歳の誕生日が思い出される。彼が現れて、私の平穏がかき乱され始めた、あの夜のことだ。誕生日と言われてそれを思い出すなんて、と呆れてしまう。

「……別にいいわよ。もう祝われるような年齢でもないし」
「そんな悲しいこと言わないでください」

 一ノ瀬くんは、再び歩き出そうとした私の行く手を塞ぐように立ち塞がった。
 夜の静寂の中、彼の透明感のある瞳が街灯の光を反射して真っ直ぐに私を射抜く。その目がどこか悲しそうで何も言えなくなってしまう。

「それに、僕が祝いたいんです。……ダメですか?」
「いや、ダメっていうか…」
「なら、いいですよね。あ、もしかしてやっぱり体調が悪いとかですか?」
「体調はいいのよ!それは本当!」

 そう言えば、彼はしてやったりと笑う。

「なら、今週の土曜日空けておいてください。朝10時に、駅前で待ち合わせしましょ」

 有無を言わせぬその口調に、嫌だけど薄々感じてしまう。

「……断っても、無駄…よね?」
「よく分かってるじゃないですか。今の僕は、先輩が思うよりずっとしつこいですよ」

 案の定の答えに心の中でため息を吐く。ああ、だから体調のことを聞いてきたのか。断る言い訳を上手い具合に先手で潰された。つい先ほど行われたオフィス内の会話の延長戦だったから、つい。

 彼は満足げに微笑むと、再び前を向いて歩き出した。少しだけ先を行く彼の広い背中を見つめるしかなかった。

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