優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
 その後、午後の光がやわらかく差し込む中、私たちは美術館を巡った。
 ちょうど有名画家の特別展が開催されていたらしく、館内はほどよい賑わいに包まれている。それでも作品の前に立てば自然と静けさが生まれ、時間を忘れて見入ってしまうほどだった。気づけば、思っていた以上に長く滞在していたらしい。

 満足感に包まれたまま閉館時間と共に美術館を後にすると、空はすでに夕暮れ色へと移ろい始めていた。
 その流れのまま、一ノ瀬君にエスコートされて向かったのは、落ち着いた雰囲気のレストラン。ドレスコードこそ求められないものの、店内は程よく洗練されていた。静かな灯りが心地よい。

 こんな素敵なお店を、一体どうやって見つけてくるのだろう。
 無粋にもそう思ってしまう程、私好みのお店だった。

「お酒はどうしますか?」

 メニューを開きながら、尋ねられる。少し悩んだが、折角一ノ瀬君が誕生日を祝ってくれるのだからと、自分でも珍しく頷いた。
 どうやら彼は、事前にコース料理を予約してくれていたらしく、アルコールの注文だけ通すとメニューを閉じた。

「わざわざ予約してくれていたのね」
「まあ、土曜日ということもあるので、念には念を入れさせていただきました」

 そう言って、彼は少しだけ照れたように笑った。その仕草がどこか誇らしげで、けれど押しつけがましくなくて、胸の奥がくすぐったくなる。

「ありがとう。本当に嬉しい」

 素直にそう伝えると一ノ瀬君は目を丸くし、それからふっと視線を和らげた。

「こんなにも先輩が喜んでくれるなら、準備した甲斐があります」

 やがて運ばれてきたグラスの中で、琥珀色の液体が照明を受けて揺れる。軽く触れ合わせたグラスの澄んだ音が、静かな店内に小さく響いた。

「お誕生日、おめでとうございます」

 改めて言われると、くすぐったい。
 けれど、その一言に込められた丁寧な気持ちが伝わってきて、胸がじんわりと温かくなる。

「ありがとう。一ノ瀬君と過ごせて、とても楽しかったわ」

 素直な感謝が零れ落ちる。
 
 こんな感覚は久しぶりだった。
 誰かと一緒に居ることがこんなにも楽しいなんて、どうして忘れていたのだろうか。

「僕も楽しかったです」

 その言葉は、嘘偽りないように聞こえた。

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