優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください

『仮恋人』の彼

 意識の底から、ゆっくりと体が浮かび上がってくるような感覚があった。重たい瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは見覚えのある天井。けれど、それは私の家の天井ではない。

(ここは……)

 ぼんやりとした頭で状況を探ろうとしながら、体を起こそうとしたその瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。思わず小さく呻いた時だった。

「……気がつきましたか」

 聞き覚えのある声が、すぐ傍から静かに落ちてくる。視線を声の方へ向けると、そこには椅子に腰掛けた一ノ瀬くんの姿があった。ジャケットは脱いでおり、白いシャツの襟元がわずかに乱れている。普段は隙のない彼にしては、どこか珍しい姿だった。

「一ノ瀬くん……。ここ、もしかして……」
「僕の家ですよ。目が覚めたなら、先に水分補給をしましょうか」

 そう言って彼はテーブルの上に置かれていたペットボトルを手に取る。パキッという軽い音とともにキャップを外し、こちらへ差し出した。
 受け取ったボトルはひんやりと冷たく、その感触がぼんやりした意識を少しずつ現実へ引き戻してくれる。喉を潤すように水を飲み、3分の1ほど口にしたところでボトルを離した。彼はそれを受け取り、静かにキャップを閉めながら口を開く。

「それより先輩、どこまで覚えていますか?」

 淡々とした口調。けれど、その瞳には隠しきれない心配の色が浮かんでいた。その言葉を聞いた瞬間、記憶の断片がパズルのように頭の中ではまり始める。

 オフィスで彼の話を聞いていて、視界が歪んで、それから、

「……私、倒れたの?」
「はい。顔を真っ青にして、僕の目の前で。……ほんと、心臓が止まるかと思いましたよ」

 一ノ瀬くんは大きく息を吐き出した。そして、私の手をそっと握る。触れた指先から、ほんのわずかな震えが伝わってきた。
 その震えを感じた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。目の前で人が突然倒れたのだ。驚かないはずがない。きっと、相当心配させてしまったのだろう。

「……ごめんなさい。迷惑、かけちゃったわね」

 自分でも驚くほど弱々しい声だった。謝罪だけでは意味がないのは分かっているけれど、今の私には謝ることしかできない。その無力さが、異常なほど胸に刺さった。

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