完璧クールなイケメン社長は愛猫(と私)にだけはデレデレです。
1話
――ん、大きい。
私は指定された住所に建っている戸建ての前で、ひたすらに笑顔をキープしていた。どこに防犯カメラがあるかわからない。誰に見られているかわからない。ここに来る途中のお店の窓で、最終的な身だしなみチェックをしておいて良かった、と心から思う。
インターフォンを押して待っていると、落ち着いた男性の声がする。
『はい』
「初めまして、本日伺いました、ペットシッターの大滝と申します」
『どうぞ』
ロックが解除される音がして、門が開く。建物の前まで進むと、目の前で玄関ドアが中から開いた。
「お待ちしてました」
真面目そうな雰囲気の、長身の若い男性。清潔感のある白いシャツにスラックス、短めの髪は前髪が目にかかっていることもなく、自然な髪色は染めてはいないのだろう。
リビングに向かう中で、あちこちに猫グッズがあるのが見えた。今日のお客様はかなりの猫好きと見える。案内された広いリビングにはキャットタワーも設置されていて、あらゆるところが猫のために整えられているようだった。
今日は事前面談のための訪問だった。こちらのおうちの猫ちゃん――うにちゃんのお世話をするにあたって、聞き取りをしなければいけない内容がたくさんある。
「改めまして、ペットシッターの大滝史歩と申します。本日は、当日うにちゃんがいつも通りに快適に過ごせるよう、普段の生活習慣や注意点などについて詳しくお伺いさせてください」
「お世話になります。宝生です」
目の前に座っている男性は、私を観察するように黙って見つめてくる。その一般人とは思えないほどの整った顔に、居心地が悪くなるが笑顔をキープする。
初対面ではあるが、私はこの人を知っていた。名前は宝生和樹、年齢はまだ30にはなっていなかったように記憶している。とあるベンチャー企業の若き社長さんで、メディアで見たことが数回あった。そういう場所での取り上げられ方は、非常に冷静沈着な有能な若きイケメン社長、いわく完璧な男。予約が入った時には同姓同名の別人かと思ったのだけど、驚くことに本人だった。
涼し気な目元はいかにもクールな雰囲気で、通った鼻筋も薄めの唇も冷静沈着で仕事に関して自他ともに厳しいという噂を肯定しているようだ。モデルやタレント、美人女優らと噂になったことも一度や二度ではない。そんな有名人を前にして、少々緊張してしまう。
「ええと……うにちゃんはどちらに?」
「うに、は今隣の部屋で――」
と、言いかけた宝生さんの目が丸くなる。同時に、脛に温かい感触が当たった。
「ん……?」
視線を落とせば、『うに』という名前にふさわしいクリーム系の色合いの子が身体を擦りつけて来ていた。
「あなたがうにちゃんですか?」
声をかけると、猫ちゃんは小さく鳴いてまたすりすりと身体を寄せてくる。多頭飼いという話ではなかったから、この子がうにちゃんなのだろう。まん丸な顔にぺちゃっとつぶれた形の鼻、への字な形の口にずんぐりとした体型のエキゾチックショートヘアだ。
可愛い、と思えば自然と笑顔になる。
私の座っているソファによじ登ってきたうにちゃんは、そのまま私の膝の上で丸くなった。
「人懐こいんですね」
「え……あ……いや」
宝生さんはなぜかしどろもどろになる。どうしたのだろう、と見返すのだが、小さく眉を寄せた彼は口元に手を当ててなにやら考え込んでいるようだ。
気持ち良さそうに目を閉じてしまったうにちゃんはそのままにしておいて欲しいとお願いされ、私は宝生さんと話を始める。
「では、いくつか質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
初回訪問時には、お預かりするペットがいつも通りの生活を出来るよう、普段の食事や水の量、トイレについてや健康状態など多くを聞き取りしなければいけない。その中には、住人が不在時に滞在することになるペットシッターのこの家での過ごし方についての内容もある。
「私の書斎と寝室には入らないでください」
「はい」
「部屋を間違えることがないように、なにかしらの目印を下げておきます」
「ありがとうございます」
「また、必要のない私物にも触れないようにしてください」
「はい」
あれこれ触られたくない心理は理解できるし、こちらとしても高価なものを触って壊してしまったり、見当たらない時などに妙な疑いをかけられるのも嫌だ。当然不用意に触る気などない。
その他にも、この家の中で写真や動画の撮影をすること、ここに来ていることをSNSに書き込むことや口外することも禁止された。信頼にかかわってくるので、私たちがお客様のことをペラペラ話すわけもないのだけど、ちょっと名前の知られている人となると、一般人の私には想像もできないような自衛が必要になってくるのだろう。
極秘の話も多いのだろうけど、そういうものを自宅に持ち帰っているとも思えない。それはそれとして、安心してもらうため、そのようなことはしないとはっきり宣言する。守秘義務に関しては契約の中に含まれているので信じてもらうしかない。
宝生さんは元々高層マンション暮らしで――ということは、なにかの記事で読んだことがあった――でも元の住居では通勤時間にそこそこ取られてしまうことなどがネックで、諸事情によりこの戸建てに越してきたばかり。ところが、引っ越しのストレスでうにちゃんは体調を崩してしまったらしい。ある程度回復するまでは自宅からのリモートで仕事をしていたのだが、流石にそろそろ出社しなければいけない。しかし、まだ一匹で置いておくのは心配。ということで、ペットシッターを頼むことにしたそうで。
緊急連絡先を交換して、なにか他に気になることがあるか尋ねると、宝生さんは難しい顔で聞いてきた。
「大滝さんは、特別に動物から好かれやすいのですか?」
「どういう意味でしょうか」
「うには人見知りで、私以外……いえ、私にもそこまで懐いていないのです。そのように、誰かの膝の上で眠る姿はおろか、膝に座っているところを見たのも初めてなので少し驚いています」
「あら、そうなんですか?」
エキゾチックショートヘアは比較的人懐こい子が多い。てっきりうにちゃんもそのタイプかと思っていた。
私は特に動物に好かれる体質ではないと思うが、元々そういう血筋なのか、両親だけでなく父方母方どちらの祖父母も動物が好きで、どの家にもペットがたくさんいた。一般的な家庭でペットとして飼われることが多い動物のほとんどは飼育したことがある、と言ってもいいかもしれない。
そんな私は、ペットシッターという仕事を知って自然とそれを目指した。専門学校に通って資格を取得し、無事に就職して以降毎日やりがいを感じながら仕事をこなしていた。
ご主人の留守中、忙しい主に代わってお散歩をしたりご飯をあげたり遊んだり、それぞれの子との相性もあるから最初から心を開いてくれる子ばかりではないけれども、徐々に仲良くなってくれる過程もそれはそれで楽しい。このように、最初から懐いてくれる子も可愛い。
「うにが嫌がったらどうしようかと思っていたのですが、このように懐いている大滝さんになら、安心してお世話をお願いすることが出来ます」
「ありがとうございます」
そんな話をしていると、うにちゃんが起きて、ふらりとどこかへ行ってしまう。ある意味でベストなタイミングだった。
「実際にお世話道具が置いてある場所を確認させていただいても良いですか?」
事細かに教えてもらいはしたが、実際に見るのと見ないとでは安心度が違う。案内してもらったお世話用具置き場は整理整頓され、パッと見ただけでなにがどこにあるかわかるようになっている。ラベルも貼られているので、ケースを開けなくても中になにが入っているのかわかる。これは助かる、と思いつつ改めて確認させてもらった。その際の説明の仕方も非常に簡潔で過不足なく、頭の良い人なのだろうと感じられた。
宝生さん自身が非常に几帳面なのだろうが、家の中も全体的にとても綺麗でチリ一つ落ちていない。スタイリッシュな物の少ない部屋の割に、置いてあるものが猫柄の、しかもうにちゃんに似ている雰囲気のものが多い。若干それらの猫グッズが浮いている気はするが、本人が気に入っているのならそれでいい。
「急な仕事が入った時など、延長をお願いすることは可能でしょうか?」
それに関しては、申込みの段階で追記されていた。忙しいことは、メディアの情報を見ていても想像はできる。
「はい、延長の場合は先程の番号までご連絡ください」
「では、さっそく明日からよろしくお願いします」
「はい。宝生さんの出社前に伺いますね」
お見送りをしてくれたうにちゃんにも挨拶をして家を後にする。とりあえずは猫ちゃんに気に入ってもらえて良かった、と安堵しながら帰った。翌日、なんのトラブルもなくうにちゃんのお世話を終えた私に、息を切らせて帰ってきた宝生さんはスマホを握りしめていた。彼は、ふーっと息を吐いて呼吸を整えると、真剣な顔で口を開く。
「申し訳ありません。お伝えし損ねていましたが、うちにはペットカメラが設置してあります。通常通りの設定のままでしたので、今日一日こちらから見られるようになっていました」
「あ、大丈夫ですよ」
元々部屋を見た段階でペットカメラが設置されていることは把握している。こちらの様子を隠し撮りしようとしているならともかく、自分の大事な猫ちゃんを見守るためのものに文句があるわけもない。ペットシッターとペットの様子が気になってしまうのは当然だろう。それが初回であればなおさらだ。
「事前にお話し損ねていました。申し訳ありません」
丁寧に頭を下げる彼に、慌てて手を振る。
「いえいえ、お気になさらず。気になるのはわかりますから」
顔を上げた彼の顔は怖いくらいに真剣で、手早くスマホを操作するとペットカメラのアプリを起動させ、録画を見せてくる。
「一つよろしいでしょうか」
「はい」
なにか自分の仕事ぶりに問題があったのだろうか。あまりにも冷たい声と表情で言われて胃が痛くなってくる。その間も、うにちゃんは私の足元にまとわりついては、宝生さんの足に頭突きをしていた。
「こちらについて、詳細をご説明いただいても?」
再生された動画の中で、ソファに座っている私の横で寝ていたうにちゃんが、ころんとおなかを見せていた。手を差し出すと頭を押し付けてきたのでそっと撫でる。その後、部屋に用意されていた玩具で遊んでいるうにちゃんを見守っている私の姿が続く。
――もっとしっかり遊んであげろってこと?
懐いてくれたようではあるが、まだ会って二回目だ。距離の詰め方を間違えると嫌がられてしまう。どう説明したものか、と考えていると、ずいっと宝生さんは顔を寄せてくる。驚いて身体を引こうとするが、足元にうにちゃんがいるから動けない。
「私、うにちゃんからおなかを見せていただけたことがないのですが……?」
「はい?」
「頭を撫でさせていただけたこともありません」
――ん? うにちゃんに対して丁寧語?
「ああ……っ」
苦しそうな声を上げると、宝生さんは跪いてうにちゃんに話しかける。
「うにちゃん、どうして私にはそんなに素っ気ないのですか?! 私もうにちゃんの頭を撫でたいです、吸わせていただきたいのです」
今まで私に話していた時とは全く違う甘い声。まるでお姫様に対する王子様のような仕草。宝生さんは懇願するようにうにちゃんに手を伸ばすが、すいっと避けられてしまっていた。伸ばされた彼の手をぺちっと叩いて部屋に入っていってしまう。
――……遊びたいだけでは?
さっき頭突きしていたところと言い、うにちゃんは宝生さんに懐いているように思える。親愛の表現は十分にしている。きっと、態度を誤解しているのだ。
「うにちゃんは、宝生さんのことが好きなんだと思いますよ」
余計なお世話とは思いつつ、猫の態度について説明する。じわじわと目を丸くした宝生さんは、瞳を潤ませると頬を上気させ部屋に駆け込んだ。
「うにちゃん! そういうことだったのですねっ」
「あ。」
ふぎゃっとうにちゃんの鳴き声がして、バタバタと暴れる音がする。もしかしてやらかした? と思いながらリビングを覗けば、手の甲に引っ掻き傷を作って呆然と座り込んでいる宝生さんの姿があった。
「あの……大丈夫ですか?」
「……大滝さん」
低い声で名前を呼ばれ、ゾクっと背筋が凍る。暗い目つきで私を見た彼は「うにちゃんは、私を好きなのでは……?」恨みがましげに問い掛けてきた。
「好きな人だったとしても、急に迫られたら驚きますよ」
「………………」
「人間だってそうじゃないですか」
今のは宝生さんが悪い、と暗に言えば、彼は顔を覆って深く落ち込んでしまったようだ。
しかも、かなり驚いたらしいうにちゃんが、物陰に入り込んで出て来なくなってしまった。これは困る。宝生さんも落ち込んでいるし、怪我の消毒もしなければいけないし、このままふたりきりにするのも心配だ。この世の終わり、という顔をしている宝生さんから薬箱の場所を聞き出して手当てをする。絆創膏を貼り終えて薬箱を片付け、床にへたり込んでいる宝生さんをソファに座らせ、私も隣に座る。こういう時は、うにちゃんが落ち着いて自分から出てくるまで待つしかない。下手に声をかけたらもっと警戒してしまうだろう。
「大滝さん、私、失敗してしまったのですね」
「まあ、はい、そうですね」
「……嫌われてしまったでしょうか」
「……それは、なんとも」
下手にフォローしたところで仕方がない。正直に告げると、彼はどよーんと暗い空気をまとう。冷静新着な出来る若社長というイメージとは大違いの態度に、私はどう反応していいのかわからない。
「うにちゃん……ああ、うにちゃん……」
「怒ってはいないかもしれませんし、うにちゃんが出て来てくれるのを待ちましょう。私も一緒にいますから」
「すみません」
イケメンが台無し、というくらいに落ち込んだ様子の宝生さんになんと声を掛けて良いものかわからず、一先ず今日のうにちゃんの様子について報告をする。うつろな表情で聞いていた宝生さんは、うにちゃんと遊んだ話をすると、途端に情けない顔になる。
「私も、遊んでいただきたかっただけなのに……」
「徐々に慣れていきましょう」
「大滝さんは、昨日会ったばかりだというのに、あんなに楽しそうに遊んでいたのに」
「宝生さん、うにちゃんの行動について調べなかったんですか?」
ふと気になったことを尋ねてみる。すると、勢いよく顔を上げた宝生さんは必死に訴えてくる。
「だって! うにちゃんの態度について調べて、それはあなたが嫌われている証拠です、なんて出てきたら立ち直れないじゃないですか!」
えぇぇ……と小さく声が出る。冷静沈着な完璧な男、クールなイケメンと言われている宝生和樹はどこに行った? と困惑しかない。うにちゃんに骨抜きになってメロメロになって情緒不安定になっているこんな姿、私以外に見たことのある人はいるのだろうか。
「怖くて調べられなかったんですね?」
「……はい」
「はあ……」
なんともコメントのしようがない。だが、だらだら話しているうちに、落ち着いたらしいうにちゃんが姿を見せた。いきなり動こうとする宝生さんの腕を押さえて止める。断りもなく触れてしまったことは後で謝らなければいけないが、ここでまた派手なリアクションを返せばうにちゃんがまた警戒してしまう。目線だけで、そのまま動かないで、と伝えて静かに見守る。
少し警戒するように宝生さんを見たうにちゃんは、ゆっくりとこちらに近付いてくると私の膝に乗ってくる。隣りで、宝生さんの目が見開かれるのが視界の隅に映る。
――うぅん、そんな顔をされても。
どうしてあなたが、という責めるような目線を向けられても困る。ぐりぐりと頭を撫でるように言ってくるうにちゃんの要望に応えると、また宝生さんからの視線が突き刺さる。
「うにちゃん、もういい?」
もう大丈夫だろうと思ってうにちゃんに尋ねると、帰らないでというように膝の上で寝出してしまう。
「私、帰らなきゃいけないんだけど」
困った。宝生さんも、ふたりきりにしないで欲しいというような目で見てくる。でも、もう延長時間もとうに過ぎている。電車がなくなるという時間でもないが、そろそろ帰りたい。
「また来るから、ね?」
訴えを理解してくれたのか、うにちゃんは膝から降りてくれる。ホッとして荷物をまとめ、改めてお暇の挨拶をする。玄関先まで私を見送りに出てきた頃には、宝生さんは冷静さを取り戻しており、声も低く落ち着いたものになっている。
「うちには、大滝さんが専属できてくださるんですよね」
「はい、そのようなシステムになっています」
「また明日もよろしくお願いします」
「はい、ではまた明日」
先程までとはまるで別人のような鉄仮面のような表情と冷たい声で挨拶を交わした彼は、あちらから玄関ドアを閉めた。その途端「うにちゃぁん、驚かせてしまったのですね、本当にごめんなさい。許していただけますか?」と甘ったるい声が小さく聞こえてきた。
――あーあー……あんまり距離詰めないでくださいねえ?
半分呆れながら私はその場を立ち去った。
それからもほぼ連日のように依頼があり、初対面時よりももっとうにちゃんと仲良くなれていた。宝生さんはそれがよほど羨ましいらしく、しかし自分では驚かせてしまうだけだと、私たちが遊んでいる動画をコレクションしても良いかと聞いてきた。見ているだけで面白いのか? と思ったのだが
「私一人では見られないうにちゃんの貴重な姿を見られるのは、この動画の中だけなので」
とバカ真面目に言う。しかも、自分のいない所で見られるのは嫌だろうと気遣って? くれて、仕事終わりに私の隣で身悶えしながら、メロメロになりつつ今日のうにちゃんの様子についての報告を聞く、というのがお決まりになってしまった。
しかも、うにちゃんが私を気に入ってくれているという事実が彼の中での私の好感度を上昇させているらしく、最近では私に対しての表情も柔らかくて、口調も穏やかになってきている。
「大滝さんがここに住んでくれたなら、一晩中、いや一日中うにちゃんの愛らしい姿を見ることが出来るのに」
最近ではそんなことまで呟いている次第。
同居なんて出来ませんよ、と笑って躱していた私なのだけど、今、目の前で燃えている自分のアパートを前に呆然としていた。
「え……なに?」
何が起きているのか呑み込めずに、呆然と立ち尽くす。危ないから下がってという声にハッとするが、身体が動かない。
――もっと早く帰っていたら、巻き込まれていたかもしれない。
――いや、もっと早く帰れていたら、大事な物を持ち出せたかも。
ぐるぐると頭の中を取りとめもない思考が巡る。
「……さん、大滝さん!」
ぐいっと腕を引かれて振り返ると、心配そうな宝生さんの顔。
ああそうだ、今日はうにちゃんが離れてくれなくて遅くなってしまったから、うにちゃんと一緒にドライブがてら近くまで送ってくれたんだったっけ。
そんなことを思い出して、へらりと笑う。
「大丈夫ですか? 火傷は?」
「だいじょ、ぶです、けど……」
「驚きました。家に戻ろうとしたら消防車数台と擦れ違って、大滝さんの帰って行かれた方向に走っていくので、心配になって」
「あ、ありがとうございます」
ぺこ、と頭を下げると宝生さんが肩を抱いてきた。
「この状況では、ご自宅で寝ることは出来ないでしょう。どなたかに無事を伝えて、今晩は家にいらしてください」
「いえ、そんなご迷惑をかけるわけには」
「是非いらしてください。あなたになにかあったら、うにちゃんも悲しみます」
――ああ、この人の人生の基準はうにちゃんなんだ。
必ずしも私を気にかけてくれているわけではない。そう思うと、妙に肩の力が抜けた。
「すみません、一晩だけお願いします」
もう何も考えられなくてぼうっとした状態で頭を下げた私は、その同居生活が数ヶ月に及ぶことになるとは、想像もしていなかったのだった。
私は指定された住所に建っている戸建ての前で、ひたすらに笑顔をキープしていた。どこに防犯カメラがあるかわからない。誰に見られているかわからない。ここに来る途中のお店の窓で、最終的な身だしなみチェックをしておいて良かった、と心から思う。
インターフォンを押して待っていると、落ち着いた男性の声がする。
『はい』
「初めまして、本日伺いました、ペットシッターの大滝と申します」
『どうぞ』
ロックが解除される音がして、門が開く。建物の前まで進むと、目の前で玄関ドアが中から開いた。
「お待ちしてました」
真面目そうな雰囲気の、長身の若い男性。清潔感のある白いシャツにスラックス、短めの髪は前髪が目にかかっていることもなく、自然な髪色は染めてはいないのだろう。
リビングに向かう中で、あちこちに猫グッズがあるのが見えた。今日のお客様はかなりの猫好きと見える。案内された広いリビングにはキャットタワーも設置されていて、あらゆるところが猫のために整えられているようだった。
今日は事前面談のための訪問だった。こちらのおうちの猫ちゃん――うにちゃんのお世話をするにあたって、聞き取りをしなければいけない内容がたくさんある。
「改めまして、ペットシッターの大滝史歩と申します。本日は、当日うにちゃんがいつも通りに快適に過ごせるよう、普段の生活習慣や注意点などについて詳しくお伺いさせてください」
「お世話になります。宝生です」
目の前に座っている男性は、私を観察するように黙って見つめてくる。その一般人とは思えないほどの整った顔に、居心地が悪くなるが笑顔をキープする。
初対面ではあるが、私はこの人を知っていた。名前は宝生和樹、年齢はまだ30にはなっていなかったように記憶している。とあるベンチャー企業の若き社長さんで、メディアで見たことが数回あった。そういう場所での取り上げられ方は、非常に冷静沈着な有能な若きイケメン社長、いわく完璧な男。予約が入った時には同姓同名の別人かと思ったのだけど、驚くことに本人だった。
涼し気な目元はいかにもクールな雰囲気で、通った鼻筋も薄めの唇も冷静沈着で仕事に関して自他ともに厳しいという噂を肯定しているようだ。モデルやタレント、美人女優らと噂になったことも一度や二度ではない。そんな有名人を前にして、少々緊張してしまう。
「ええと……うにちゃんはどちらに?」
「うに、は今隣の部屋で――」
と、言いかけた宝生さんの目が丸くなる。同時に、脛に温かい感触が当たった。
「ん……?」
視線を落とせば、『うに』という名前にふさわしいクリーム系の色合いの子が身体を擦りつけて来ていた。
「あなたがうにちゃんですか?」
声をかけると、猫ちゃんは小さく鳴いてまたすりすりと身体を寄せてくる。多頭飼いという話ではなかったから、この子がうにちゃんなのだろう。まん丸な顔にぺちゃっとつぶれた形の鼻、への字な形の口にずんぐりとした体型のエキゾチックショートヘアだ。
可愛い、と思えば自然と笑顔になる。
私の座っているソファによじ登ってきたうにちゃんは、そのまま私の膝の上で丸くなった。
「人懐こいんですね」
「え……あ……いや」
宝生さんはなぜかしどろもどろになる。どうしたのだろう、と見返すのだが、小さく眉を寄せた彼は口元に手を当ててなにやら考え込んでいるようだ。
気持ち良さそうに目を閉じてしまったうにちゃんはそのままにしておいて欲しいとお願いされ、私は宝生さんと話を始める。
「では、いくつか質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
初回訪問時には、お預かりするペットがいつも通りの生活を出来るよう、普段の食事や水の量、トイレについてや健康状態など多くを聞き取りしなければいけない。その中には、住人が不在時に滞在することになるペットシッターのこの家での過ごし方についての内容もある。
「私の書斎と寝室には入らないでください」
「はい」
「部屋を間違えることがないように、なにかしらの目印を下げておきます」
「ありがとうございます」
「また、必要のない私物にも触れないようにしてください」
「はい」
あれこれ触られたくない心理は理解できるし、こちらとしても高価なものを触って壊してしまったり、見当たらない時などに妙な疑いをかけられるのも嫌だ。当然不用意に触る気などない。
その他にも、この家の中で写真や動画の撮影をすること、ここに来ていることをSNSに書き込むことや口外することも禁止された。信頼にかかわってくるので、私たちがお客様のことをペラペラ話すわけもないのだけど、ちょっと名前の知られている人となると、一般人の私には想像もできないような自衛が必要になってくるのだろう。
極秘の話も多いのだろうけど、そういうものを自宅に持ち帰っているとも思えない。それはそれとして、安心してもらうため、そのようなことはしないとはっきり宣言する。守秘義務に関しては契約の中に含まれているので信じてもらうしかない。
宝生さんは元々高層マンション暮らしで――ということは、なにかの記事で読んだことがあった――でも元の住居では通勤時間にそこそこ取られてしまうことなどがネックで、諸事情によりこの戸建てに越してきたばかり。ところが、引っ越しのストレスでうにちゃんは体調を崩してしまったらしい。ある程度回復するまでは自宅からのリモートで仕事をしていたのだが、流石にそろそろ出社しなければいけない。しかし、まだ一匹で置いておくのは心配。ということで、ペットシッターを頼むことにしたそうで。
緊急連絡先を交換して、なにか他に気になることがあるか尋ねると、宝生さんは難しい顔で聞いてきた。
「大滝さんは、特別に動物から好かれやすいのですか?」
「どういう意味でしょうか」
「うには人見知りで、私以外……いえ、私にもそこまで懐いていないのです。そのように、誰かの膝の上で眠る姿はおろか、膝に座っているところを見たのも初めてなので少し驚いています」
「あら、そうなんですか?」
エキゾチックショートヘアは比較的人懐こい子が多い。てっきりうにちゃんもそのタイプかと思っていた。
私は特に動物に好かれる体質ではないと思うが、元々そういう血筋なのか、両親だけでなく父方母方どちらの祖父母も動物が好きで、どの家にもペットがたくさんいた。一般的な家庭でペットとして飼われることが多い動物のほとんどは飼育したことがある、と言ってもいいかもしれない。
そんな私は、ペットシッターという仕事を知って自然とそれを目指した。専門学校に通って資格を取得し、無事に就職して以降毎日やりがいを感じながら仕事をこなしていた。
ご主人の留守中、忙しい主に代わってお散歩をしたりご飯をあげたり遊んだり、それぞれの子との相性もあるから最初から心を開いてくれる子ばかりではないけれども、徐々に仲良くなってくれる過程もそれはそれで楽しい。このように、最初から懐いてくれる子も可愛い。
「うにが嫌がったらどうしようかと思っていたのですが、このように懐いている大滝さんになら、安心してお世話をお願いすることが出来ます」
「ありがとうございます」
そんな話をしていると、うにちゃんが起きて、ふらりとどこかへ行ってしまう。ある意味でベストなタイミングだった。
「実際にお世話道具が置いてある場所を確認させていただいても良いですか?」
事細かに教えてもらいはしたが、実際に見るのと見ないとでは安心度が違う。案内してもらったお世話用具置き場は整理整頓され、パッと見ただけでなにがどこにあるかわかるようになっている。ラベルも貼られているので、ケースを開けなくても中になにが入っているのかわかる。これは助かる、と思いつつ改めて確認させてもらった。その際の説明の仕方も非常に簡潔で過不足なく、頭の良い人なのだろうと感じられた。
宝生さん自身が非常に几帳面なのだろうが、家の中も全体的にとても綺麗でチリ一つ落ちていない。スタイリッシュな物の少ない部屋の割に、置いてあるものが猫柄の、しかもうにちゃんに似ている雰囲気のものが多い。若干それらの猫グッズが浮いている気はするが、本人が気に入っているのならそれでいい。
「急な仕事が入った時など、延長をお願いすることは可能でしょうか?」
それに関しては、申込みの段階で追記されていた。忙しいことは、メディアの情報を見ていても想像はできる。
「はい、延長の場合は先程の番号までご連絡ください」
「では、さっそく明日からよろしくお願いします」
「はい。宝生さんの出社前に伺いますね」
お見送りをしてくれたうにちゃんにも挨拶をして家を後にする。とりあえずは猫ちゃんに気に入ってもらえて良かった、と安堵しながら帰った。翌日、なんのトラブルもなくうにちゃんのお世話を終えた私に、息を切らせて帰ってきた宝生さんはスマホを握りしめていた。彼は、ふーっと息を吐いて呼吸を整えると、真剣な顔で口を開く。
「申し訳ありません。お伝えし損ねていましたが、うちにはペットカメラが設置してあります。通常通りの設定のままでしたので、今日一日こちらから見られるようになっていました」
「あ、大丈夫ですよ」
元々部屋を見た段階でペットカメラが設置されていることは把握している。こちらの様子を隠し撮りしようとしているならともかく、自分の大事な猫ちゃんを見守るためのものに文句があるわけもない。ペットシッターとペットの様子が気になってしまうのは当然だろう。それが初回であればなおさらだ。
「事前にお話し損ねていました。申し訳ありません」
丁寧に頭を下げる彼に、慌てて手を振る。
「いえいえ、お気になさらず。気になるのはわかりますから」
顔を上げた彼の顔は怖いくらいに真剣で、手早くスマホを操作するとペットカメラのアプリを起動させ、録画を見せてくる。
「一つよろしいでしょうか」
「はい」
なにか自分の仕事ぶりに問題があったのだろうか。あまりにも冷たい声と表情で言われて胃が痛くなってくる。その間も、うにちゃんは私の足元にまとわりついては、宝生さんの足に頭突きをしていた。
「こちらについて、詳細をご説明いただいても?」
再生された動画の中で、ソファに座っている私の横で寝ていたうにちゃんが、ころんとおなかを見せていた。手を差し出すと頭を押し付けてきたのでそっと撫でる。その後、部屋に用意されていた玩具で遊んでいるうにちゃんを見守っている私の姿が続く。
――もっとしっかり遊んであげろってこと?
懐いてくれたようではあるが、まだ会って二回目だ。距離の詰め方を間違えると嫌がられてしまう。どう説明したものか、と考えていると、ずいっと宝生さんは顔を寄せてくる。驚いて身体を引こうとするが、足元にうにちゃんがいるから動けない。
「私、うにちゃんからおなかを見せていただけたことがないのですが……?」
「はい?」
「頭を撫でさせていただけたこともありません」
――ん? うにちゃんに対して丁寧語?
「ああ……っ」
苦しそうな声を上げると、宝生さんは跪いてうにちゃんに話しかける。
「うにちゃん、どうして私にはそんなに素っ気ないのですか?! 私もうにちゃんの頭を撫でたいです、吸わせていただきたいのです」
今まで私に話していた時とは全く違う甘い声。まるでお姫様に対する王子様のような仕草。宝生さんは懇願するようにうにちゃんに手を伸ばすが、すいっと避けられてしまっていた。伸ばされた彼の手をぺちっと叩いて部屋に入っていってしまう。
――……遊びたいだけでは?
さっき頭突きしていたところと言い、うにちゃんは宝生さんに懐いているように思える。親愛の表現は十分にしている。きっと、態度を誤解しているのだ。
「うにちゃんは、宝生さんのことが好きなんだと思いますよ」
余計なお世話とは思いつつ、猫の態度について説明する。じわじわと目を丸くした宝生さんは、瞳を潤ませると頬を上気させ部屋に駆け込んだ。
「うにちゃん! そういうことだったのですねっ」
「あ。」
ふぎゃっとうにちゃんの鳴き声がして、バタバタと暴れる音がする。もしかしてやらかした? と思いながらリビングを覗けば、手の甲に引っ掻き傷を作って呆然と座り込んでいる宝生さんの姿があった。
「あの……大丈夫ですか?」
「……大滝さん」
低い声で名前を呼ばれ、ゾクっと背筋が凍る。暗い目つきで私を見た彼は「うにちゃんは、私を好きなのでは……?」恨みがましげに問い掛けてきた。
「好きな人だったとしても、急に迫られたら驚きますよ」
「………………」
「人間だってそうじゃないですか」
今のは宝生さんが悪い、と暗に言えば、彼は顔を覆って深く落ち込んでしまったようだ。
しかも、かなり驚いたらしいうにちゃんが、物陰に入り込んで出て来なくなってしまった。これは困る。宝生さんも落ち込んでいるし、怪我の消毒もしなければいけないし、このままふたりきりにするのも心配だ。この世の終わり、という顔をしている宝生さんから薬箱の場所を聞き出して手当てをする。絆創膏を貼り終えて薬箱を片付け、床にへたり込んでいる宝生さんをソファに座らせ、私も隣に座る。こういう時は、うにちゃんが落ち着いて自分から出てくるまで待つしかない。下手に声をかけたらもっと警戒してしまうだろう。
「大滝さん、私、失敗してしまったのですね」
「まあ、はい、そうですね」
「……嫌われてしまったでしょうか」
「……それは、なんとも」
下手にフォローしたところで仕方がない。正直に告げると、彼はどよーんと暗い空気をまとう。冷静新着な出来る若社長というイメージとは大違いの態度に、私はどう反応していいのかわからない。
「うにちゃん……ああ、うにちゃん……」
「怒ってはいないかもしれませんし、うにちゃんが出て来てくれるのを待ちましょう。私も一緒にいますから」
「すみません」
イケメンが台無し、というくらいに落ち込んだ様子の宝生さんになんと声を掛けて良いものかわからず、一先ず今日のうにちゃんの様子について報告をする。うつろな表情で聞いていた宝生さんは、うにちゃんと遊んだ話をすると、途端に情けない顔になる。
「私も、遊んでいただきたかっただけなのに……」
「徐々に慣れていきましょう」
「大滝さんは、昨日会ったばかりだというのに、あんなに楽しそうに遊んでいたのに」
「宝生さん、うにちゃんの行動について調べなかったんですか?」
ふと気になったことを尋ねてみる。すると、勢いよく顔を上げた宝生さんは必死に訴えてくる。
「だって! うにちゃんの態度について調べて、それはあなたが嫌われている証拠です、なんて出てきたら立ち直れないじゃないですか!」
えぇぇ……と小さく声が出る。冷静沈着な完璧な男、クールなイケメンと言われている宝生和樹はどこに行った? と困惑しかない。うにちゃんに骨抜きになってメロメロになって情緒不安定になっているこんな姿、私以外に見たことのある人はいるのだろうか。
「怖くて調べられなかったんですね?」
「……はい」
「はあ……」
なんともコメントのしようがない。だが、だらだら話しているうちに、落ち着いたらしいうにちゃんが姿を見せた。いきなり動こうとする宝生さんの腕を押さえて止める。断りもなく触れてしまったことは後で謝らなければいけないが、ここでまた派手なリアクションを返せばうにちゃんがまた警戒してしまう。目線だけで、そのまま動かないで、と伝えて静かに見守る。
少し警戒するように宝生さんを見たうにちゃんは、ゆっくりとこちらに近付いてくると私の膝に乗ってくる。隣りで、宝生さんの目が見開かれるのが視界の隅に映る。
――うぅん、そんな顔をされても。
どうしてあなたが、という責めるような目線を向けられても困る。ぐりぐりと頭を撫でるように言ってくるうにちゃんの要望に応えると、また宝生さんからの視線が突き刺さる。
「うにちゃん、もういい?」
もう大丈夫だろうと思ってうにちゃんに尋ねると、帰らないでというように膝の上で寝出してしまう。
「私、帰らなきゃいけないんだけど」
困った。宝生さんも、ふたりきりにしないで欲しいというような目で見てくる。でも、もう延長時間もとうに過ぎている。電車がなくなるという時間でもないが、そろそろ帰りたい。
「また来るから、ね?」
訴えを理解してくれたのか、うにちゃんは膝から降りてくれる。ホッとして荷物をまとめ、改めてお暇の挨拶をする。玄関先まで私を見送りに出てきた頃には、宝生さんは冷静さを取り戻しており、声も低く落ち着いたものになっている。
「うちには、大滝さんが専属できてくださるんですよね」
「はい、そのようなシステムになっています」
「また明日もよろしくお願いします」
「はい、ではまた明日」
先程までとはまるで別人のような鉄仮面のような表情と冷たい声で挨拶を交わした彼は、あちらから玄関ドアを閉めた。その途端「うにちゃぁん、驚かせてしまったのですね、本当にごめんなさい。許していただけますか?」と甘ったるい声が小さく聞こえてきた。
――あーあー……あんまり距離詰めないでくださいねえ?
半分呆れながら私はその場を立ち去った。
それからもほぼ連日のように依頼があり、初対面時よりももっとうにちゃんと仲良くなれていた。宝生さんはそれがよほど羨ましいらしく、しかし自分では驚かせてしまうだけだと、私たちが遊んでいる動画をコレクションしても良いかと聞いてきた。見ているだけで面白いのか? と思ったのだが
「私一人では見られないうにちゃんの貴重な姿を見られるのは、この動画の中だけなので」
とバカ真面目に言う。しかも、自分のいない所で見られるのは嫌だろうと気遣って? くれて、仕事終わりに私の隣で身悶えしながら、メロメロになりつつ今日のうにちゃんの様子についての報告を聞く、というのがお決まりになってしまった。
しかも、うにちゃんが私を気に入ってくれているという事実が彼の中での私の好感度を上昇させているらしく、最近では私に対しての表情も柔らかくて、口調も穏やかになってきている。
「大滝さんがここに住んでくれたなら、一晩中、いや一日中うにちゃんの愛らしい姿を見ることが出来るのに」
最近ではそんなことまで呟いている次第。
同居なんて出来ませんよ、と笑って躱していた私なのだけど、今、目の前で燃えている自分のアパートを前に呆然としていた。
「え……なに?」
何が起きているのか呑み込めずに、呆然と立ち尽くす。危ないから下がってという声にハッとするが、身体が動かない。
――もっと早く帰っていたら、巻き込まれていたかもしれない。
――いや、もっと早く帰れていたら、大事な物を持ち出せたかも。
ぐるぐると頭の中を取りとめもない思考が巡る。
「……さん、大滝さん!」
ぐいっと腕を引かれて振り返ると、心配そうな宝生さんの顔。
ああそうだ、今日はうにちゃんが離れてくれなくて遅くなってしまったから、うにちゃんと一緒にドライブがてら近くまで送ってくれたんだったっけ。
そんなことを思い出して、へらりと笑う。
「大丈夫ですか? 火傷は?」
「だいじょ、ぶです、けど……」
「驚きました。家に戻ろうとしたら消防車数台と擦れ違って、大滝さんの帰って行かれた方向に走っていくので、心配になって」
「あ、ありがとうございます」
ぺこ、と頭を下げると宝生さんが肩を抱いてきた。
「この状況では、ご自宅で寝ることは出来ないでしょう。どなたかに無事を伝えて、今晩は家にいらしてください」
「いえ、そんなご迷惑をかけるわけには」
「是非いらしてください。あなたになにかあったら、うにちゃんも悲しみます」
――ああ、この人の人生の基準はうにちゃんなんだ。
必ずしも私を気にかけてくれているわけではない。そう思うと、妙に肩の力が抜けた。
「すみません、一晩だけお願いします」
もう何も考えられなくてぼうっとした状態で頭を下げた私は、その同居生活が数ヶ月に及ぶことになるとは、想像もしていなかったのだった。
