アンコールはリビングで
新卒1年目の冬のボーナスをすべて注ぎ込んで仕立てた、フルオーダーの――いわゆる『ビスポーク』のスーツ。

生地からこだわり、自分の体に合わせてミリ単位で調整された、世界に一着だけの鎧。
それを纏うことで、俺は「早瀬湊」という弱い個人を隠し、完璧なデベロッパーを演じていた。

舐められないように。
傷つかないように。

そして何より、自分の中にある「音楽」という熱情を、誰にも悟られないように。

「……あー」

湊は小さく息を吐き、目を細めた。

テレビ画面の中で、CMが明け、再びスーツ姿の怜司が映し出される。
その完璧なシルエットが、記憶の奥底にしまい込んでいた「あの頃の自分」を引きずり出していく。

「……ちょっと、昔のこと思い出したわ」

彼の呟きは、リビングの空気に静かに溶けていった。

完璧な鎧を纏い、誰にも隙を見せず、戦い続けていた日々。
優秀で、合理的で、それゆえにどこか冷めていた、若きデベロッパー時代。

そして、そのさらに奥にある、音楽と孤独だけが友達だった学生時代――。

俺の中で、長く閉ざしていた記憶の蓋が、静かに開いていく。
< 120 / 332 >

この作品をシェア

pagetop