アンコールはリビングで
2. 誰も知らないメロディ
深夜一時。
ようやくクライアントが帰り、張り詰めていた現場の空気が弛緩した頃。
俺は一人、三階の非常階段の踊り場にいた。
重厚な防火扉の向こうからは、まだ別のエリアの職人たちの作業音が聞こえてくるが、ここはしんとした静寂に包まれている。
空調が届かないこの場所に澱んでいた、十一月の冷え込んだ夜の空気が、火照った頭を冷やしてくれる。
「……ふぅ」
ネクタイを緩め、冷たい無機質な壁に背中を預ける。
今日も一日、完璧に演じきった。
誰にも隙を見せず、感情を殺し、ただ正解だけを出し続ける機械のように。
(疲れた……)
ふと、口をついて出たのは溜息ではなく、メロディだった。
先週からずっと頭の中で鳴っている、未完成のサビ。
誰もいない深夜の非常階段。ここはよく音が響く。
俺は目を閉じ、誰も聞いていないことをいいことに、小さく歌い始めた。
『――言葉にできないなら、音に乗せてしまえばいい。夜明けが来る前に、この街のノイズを全部消して――』
歌詞もまだ仮のものだ。
けれど、声に出した瞬間、胸の奥に溜まっていた澱のようなものが、少しだけ軽くなる気がした。
俺の正体は、エリート社員なんかじゃない。
ただ音楽にしがみついている、ちっぽけな人間だ。
そう確認するように、俺はサビのフレーズをもう一度、少しだけ声を張って繰り返した。
その時だった。
「…………え」
背後で、重たい鉄扉が開く音がした。
心臓が跳ね上がる。
慌てて振り返ると、そこには缶コーヒーを二本持ったまま、目を見開いて立ち尽くす水沢さんの姿があった。
深夜一時。
ようやくクライアントが帰り、張り詰めていた現場の空気が弛緩した頃。
俺は一人、三階の非常階段の踊り場にいた。
重厚な防火扉の向こうからは、まだ別のエリアの職人たちの作業音が聞こえてくるが、ここはしんとした静寂に包まれている。
空調が届かないこの場所に澱んでいた、十一月の冷え込んだ夜の空気が、火照った頭を冷やしてくれる。
「……ふぅ」
ネクタイを緩め、冷たい無機質な壁に背中を預ける。
今日も一日、完璧に演じきった。
誰にも隙を見せず、感情を殺し、ただ正解だけを出し続ける機械のように。
(疲れた……)
ふと、口をついて出たのは溜息ではなく、メロディだった。
先週からずっと頭の中で鳴っている、未完成のサビ。
誰もいない深夜の非常階段。ここはよく音が響く。
俺は目を閉じ、誰も聞いていないことをいいことに、小さく歌い始めた。
『――言葉にできないなら、音に乗せてしまえばいい。夜明けが来る前に、この街のノイズを全部消して――』
歌詞もまだ仮のものだ。
けれど、声に出した瞬間、胸の奥に溜まっていた澱のようなものが、少しだけ軽くなる気がした。
俺の正体は、エリート社員なんかじゃない。
ただ音楽にしがみついている、ちっぽけな人間だ。
そう確認するように、俺はサビのフレーズをもう一度、少しだけ声を張って繰り返した。
その時だった。
「…………え」
背後で、重たい鉄扉が開く音がした。
心臓が跳ね上がる。
慌てて振り返ると、そこには缶コーヒーを二本持ったまま、目を見開いて立ち尽くす水沢さんの姿があった。