アンコールはリビングで
出会ってから数ヶ月が過ぎた、次の年の3月。
いつものように路上ライブ後の打ち上げで、居酒屋に入った時のことだ。

少しお酒も入り、場の空気が和んできたタイミングを見計らって、俺はジョッキの縁を指でなぞりながら切り出した。

「あの……水沢さん」

「ん? 何ですか? 早瀬さん」

「俺たち、仕事で会ってから随分経ちますけど……『水沢さん』『早瀬さん』って、なんか仕事っぽくて堅苦しくないですか?」

心臓が早鐘を打つ。こんな提案、今まで自分からしたことなんてない。

「あー……確かに? でも、元々仕事関係だし」

「仕事以外でもこうやって会ってるじゃないですか。だから……その」

俺は少し視線を逸らし、熱くなった耳を隠すように言った。

「……『凪さん』って、呼んでもいいですか?」

彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと笑った。

「ふふ、全然いいですよ! じゃあ……私は『早瀬くん』って呼ばせてもらおうかな?」

悪気なく、年下への親しみを込めてそう提案する彼女。

俺の表情が一瞬、「あ、そっちか(下の名前じゃないのか)」という落胆で固まったことになど、気づきもしないだろう。

せめて『湊くん』が良かったが……まあ、一歩前進だ。

「……『早瀬くん』、ですか。まあ……『さん』よりはマシか」

「え? 何か言いました?」

「いや? 嬉しいです、凪さん」

俺は苦笑しながらジョッキを合わせた。

名前呼びにはなった。でも、彼女との距離はまだ「姉と弟」のようなままだ。
ここからどうやって「男」として意識させるか。

俺の、長くて必死な片思いの闘いは、まだ始まったばかりだった。
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