アンコールはリビングで

7 濡れたワイシャツと、静かなる帰宅

1. 佐伯怜司への変身

木曜日の午前9時。都内某所のドラマ撮影スタジオ。
早瀬湊は、スタジオ入り口の重い扉を開けた。

「おはようございます! 本日もよろしくお願いします!」

よく通る爽やかな声。
そこにいるのは、家で毛玉スウェットを着て「もち麦やだー」と駄々をこねる29歳の男ではない。

清潔感あふれる笑顔を装備した、国民的俳優・早瀬湊だ。

「おはようございます、早瀬さん!」

「今日も肌艶いいですねぇ!」

スタッフたちの挨拶に一人一人丁寧に会釈を返しながら、彼は楽屋へと向かう。

放送開始を間近に控えた主演ドラマ『嘘つきAIと恋のバグ』。
ヒロイン・栗原舞花(くりはら まいか)役は、今をときめく若手実力派女優、新谷咲希(しんたに さき)。

撮影は順調に進み、今日は物語のターニングポイントとなる重要なシーンの収録だ。

楽屋に入り、衣装の高級スーツに着替える。
ヘアメイクを終え、鏡の前に一人残った彼は、テーブルに両手をついて、じっと自分の瞳を見つめた。

呼吸を整える。

早瀬湊という個性を消し去り、合理的で冷徹なIT社長の人格を呼び起こす。

「……よし、いくか」

短く、静かに呟いた瞬間、彼の瞳から温度が消えた。

鏡の中にいたのは、もう湊ではない。
佐伯怜司(さえき れいじ)――感情をバグと切り捨てる、孤独な天才社長だ。

「……時間だ」

彼は怜司の顔つきで立ち上がり、スタジオへと向かった。
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