脳内麻薬男子たちに、お大事にされてます〜スマホ依存女子の、デジタル・デトックス・デイズ〜
 GW最終日、23時30分。
 スマホの光が、自室のベッドにうつ伏せになったエマの、両目に刺さる。

 スワイプ、スワイプ、スワイプ。

 ――動画:エマと同い年の女子高生アイドルの、大食いチャレンジ。 
 ――動画:芸人さんが転んで、笑い転げる。
 ――動画:完璧な容姿のインフルエンサーの、完璧な朝食。

 本当は、どの動画も、あまり面白くも無い。
 なのに指だけが、別の意思を持つ生き物のように動き続けている。

(スマホ、止めたい)

 脳の片隅で、悲鳴。

(止めたい、止めたい、止めたい、止めたい、止めたい)

 明日は学校がある。一時間目は苦手な数学。寝てないと絶対理解できない。それに、来年は受験だ。
 今すぐ眠るのが「正しい」。
 痛いほど分かっているのに、スワイプの指が止まらない。
 だって――「正しさ」は、エマを救わない。

 吐き気がした。体が重い。
 胃袋には、詰め込んだポテトチップスとチョコレートが、溜まっている。

 どくどくどく。
 血が流れていく傷口に、スマホとお菓子が絆創膏になる。
 それで血なんか止まらないけど、他の手当てだって知らない。

 ふと、スマホ画面に、アニメ風の美少女が映し出された。

 ――AI歌手・アイナ。

「……っ」
 呼吸が止まった。
 人間には不可能な高音域。完璧なピッチ。軽々と、でも情感たっぷりに、アイナは歌い上げる。

 コメント欄が、高速で流れていく。再生数が、秒単位で数十、数百と増えていく。

『神曲』
『もう人間いらんやん』
『エマ聴いてたけど、もうアナログなギターボーカルはオワコン』

 視界が滲む。
(私なんていなくても、みんな喜んでる)
 視界の端で、アイナが冷笑した、気がした。
『さよなら、旧世代』、そう言われた気がした。

「……でも、私は嫌い」

 エマの過敏な――HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)と呼ばれる、五感が鋭い特性ゆえの――聴覚が、アイナの歌声に含まれる「冷たさ」を拾ってしまう。
 完璧な周波数。整えられすぎたビブラート。
 そこには、生物特有の『ゆらぎ』が、欠落している。
 息遣いがない。
 ただの、綺麗なデータの羅列。

(みんな、本当にこれで満足?)
 まるで世界中が洗脳されていて、自分一人だけがその輪に入れないような、底冷えする孤独。
(私の方が、いい音を知ってる。もっと、心が震えるような、熱い……)
 でも、誰も、私の音なんて聴かない。

(誰か、この音を止めて……助けて)

 言葉が喉まで出掛かって、飲み込む。
 誰に、助けを求めるのだ。両親は既に亡い。
 忙しい義兄にも、負担なんてかけられない。
 ずっと一人で、我慢してきたのだし。

(言えるわけ、ない。『お兄ちゃんが結婚するのがショックで……スマホが止められない』なんて)

 スワイプ、スワイプ、スワイプ。

 動画サイトのアルゴリズムが、アイナを再度、オススメ動画として表示させた。
 激しいロックナンバー。人間には歌えないような、息もつかせない曲。 ……だめだ。これも、ドラムが機械的すぎて、なんとも貧しい。

 ――もう、限界だった。エマは、スマホを持った腕を、力なくベッドに落とした。

「……たす、けて……」
 誰にも届かないような、小さな声。
「助けて……お兄ちゃん……っ」

 その瞬間。
 エマの部屋のドアが、勢いよく開いた。

「ようやく、俺を呼んだな」
 ガシッ。
 万力のような力が、エマの右手首を掴み上げた。

 怜悧な美貌の白衣の青年――海外で飛び級を重ね、10代にして脳科学研究者となったレイが、満足げに口の端を歪める。
「仮想現実へ逃げるな。現実の俺だけ、見ていろ」

 *
 レイはエマの散らかった部屋を、一瞥もしない。
 ただ、エマだけを見ている。
「搬送する」
「えっ? ……わあっ!?」

 レイはエマの体を起こし、脇に手を差し入れると、軽々と持ち上げた。
「腕は俺の首に。脚を俺の腰に」
 『兄の指示は絶対』と、骨の髄までしみついたエマは、つい兄の声に従ってしまう。
 正面からの、密着抱っこ。
 アメリカ暮らしの長い兄は、昔からスキンシップを好む。触れ合う度に、エマの全身が熱を帯びている事実に、気づいているのかいないのか……。

「この体勢なら、エマの心音と呼吸を、俺が直接モニタリングできる」
「おおお重いでしょ? 歩くよ。 私、太ったの! それに」
(お兄ちゃん、結婚するくせに……!)
 エマはもう、半泣きだ。
 薄いスウェット一枚越しに、脂肪で膨らんだ自分のお腹が、レイの引き締まった腹筋に押し付けられている。
 ブヨブヨした脂肪の感触が、レイに伝わってしまう。死ぬほど恥ずかしい。
「どんな質量でも、エマは、エマだ」
 レイは耳元で囁き、階段を登り始めた。
 進むたびに、振動が伝わる。

 ドクン、ドクン、ドクン。
 向かい合わせ。
 レイの心臓の音が、エマの胸に直接響いてくる。
 自分の心音なのか、レイの心音なのか……分からなくなるほど重なり合う。2つとも、速い音。

(お兄ちゃん、あったかい……)
 恥ずかしさで爆発しそうなのに、同じくらいの安心感。
 レイの広い肩に顔を預ける。
 ――世界で一番、安全な場所にいる気がした。

 *
 屋根裏のレイの部屋は、青いLEDが煌めく近未来的な研究室になっている。
 三角屋根の形そのまんまの、斜めに迫ってくる天井。
 天窓から差し込む月光。

 レイは研究室の椅子に座った。エマを膝の上に、乗せたまま。
 エマは抗おうとしたが、再度レイの腕の中に閉じ込められた。

「お、お兄ちゃん……離して。ていうか、いつ日本に帰国したの?」
「離さない。……急に昨日、帰れることになった」
「連絡くれれば……ご飯もつくっておいたし」
「俺のための家事なんかしなくていい。昼頃から、この家にいたんだが……エマの様子がおかしいので、経過を見ていた」
 レイはエマの腰を抱いたまま、片手で空中のホログラムモニターを操作した。

「これが、直近一週間におけるエマのスクリーンタイムだ」
 一日平均、十時間。

「嘘、こんなに……」
「成績も落ちているらしいな。『スマホ依存』だろう。……スマホという電子ドラッグを見ると、脳が『何かいいこと』を期待する。その快感を体が覚え、画面を触り続ける」
「……やっぱり私、壊れているんだ。タイムロッキングコンテナも買ったし、スクリーンタイム制限もかけた。でも、……全部無駄だった」

「簡単には勝てないのが、依存だ。エマは何も悪くない」
「え? 私の意思が弱いから、スマホもお菓子も止められないんだよ? 悪いのは私だよ?」
「エマのせいではなく、遺伝子と孤独のせいだ。俺は昔、エマをあらゆる病魔から守るため、二万個以上の遺伝子を調べた……。エマは生まれつき、快楽を感じにくい遺伝子を持っていた。だから、強い刺激――スマホの光や糖――を求める」
「……そう、なのかな?……あと、孤独って?」

「孤独は依存を生む。群れから離されたマウスは、セロトニンという安らぎを司る物質が不足して――欲求物質・ドーパミンの刺激で孤独を紛らわせようとする。だから、依存症を発症しやすい。……取り急ぎ、これが今のエマだ」

 レイは、改造されたスマートウォッチを、エマの腕につける。そこには、
『ドーパミンレベル:高』
『セロトニン:低』
 と表示されていた。

「……今まで一人で、よく頑張ったな。これからは、二度とエマを一人にしない」
 レイは、大きな掌を、エマの頭に乗せた。頭の上の微かな重みが、全身を温かく満たしていく。
 そして、レイは話を続ける。神経伝達物質、報酬系回路の暴走メカニズム……。
 レイの吐息がかかる距離での講義。
 ただでさえ難しい内容が、頭に入ってくるはずがない。
「ドーパミンが『快楽物質』で、セロトニンが『癒やし』……?」
「……理解が難しいか。では、体で理解しろ」

 レイが、部屋の奥に10個ほど並んだ、2mほどの巨大円筒形カプセルまで歩いた。そのうちの二つのカプセルのボタンを、押した。
「出てこい。俺の最高傑作たち」

 プシューッ。

 カプセルのドアが開いた。
 中から溢れ出す白い煙と共に、二つの人影が現れる。

「脳内物質を擬人化・具現化したフィジカルAI・ヒューマノイドだ。脳はAI。体は、培養細胞と3Dバイオプリンターを用いた」

 右側のカプセルから歩み出てきたのは、闇を溶かしたような黒いスーツを着崩した、長身の男。
 金髪に、鮮やかな赤の瞳。シャツのボタンを第二ボタンまで開け、鎖骨を露わにしている。漂ってくるのは、甘く刺激的なムスクの香り。

 男はエマに近づくと、その場に跪き、エマの手を取った。
「お初やなぁ、姫」
 低く艶のあるバリトンボイス。
 男はエマの手の甲に、熱い口づけを落とした。ぞくり、と背中を快感が昇っていく。
「ひゃっ!?」
「俺は『ドーパミン』や。期待、欲望、衝動、快楽……その全てを司る者。最高の快楽で酔わせてやるで」
 ドーパミンは妖艶に微笑み、流し目を送る。
 その仕草一つ一つが、高級店のホストのような――行ったことないけど――色気を滴らせていた。
「ちょ、え、あ……」
「顔、赤いで? 心拍数が上がって、瞳孔が開いとる。俺(ドーパミン)が出てる証拠や……可愛ええな」
 ドーパミンが、エマの顎をすくい上げる。

「独り占めですか? どーぱみん」
 透き通る声が、割って入った。
 左のカプセルから現れたのは、銀髪の美少年だった。
 純白のニットに身を包み、エメラルドグリーンの猫目をしている。
 ドーパミンとは対照的に、聖職者のような清潔感と、優しさと、可愛らしさを漂わせていた。

「僕は『セロトニン』。安らぎと幸福を司る者」
 セロトニンがエマの背後に回る。
 エマの少し乱れた髪を、細い指で梳き、整え始める。 髪に触れるタッチが、壊れ物を扱うように優しい。
 時折、髪の毛の匂いを嗅ぐように、鼻を近づける気配がして、うなじが粟立つ。
「僕が綺麗にしてあげますね。ふう、でも……夜は眠い」
「悪いな。セロトニンは、夜は分泌量が少ないからな」
「大丈夫ですー」
 セロトニンは、エマの隣に椅子を持ってきた。プラチナブロンドの頭を、エマの肩に乗せて、ウトウトし始める。

 右からは、フェロモン全開のホスト系チャラ男が、耳元で甘い言葉を囁く。
「姫、今夜は朝まで俺と遊ぼうや。退屈なんてさせへんで?」
 左からは、癒やし系美少年が、上目遣いで見つめてくる。
「駄目です。エマ様は僕と眠るんです。……温めて、僕を」

 エマはパニックになりそうだった。
 今まで、二次元キャラクターにしか恋をしたことがないのに、いきなり、実体を持った美形たちに囲まれている。

「……貴様ら」
 ゴゴゴゴ、とレイの背後に怒りのオーラが見える。
 レイの左腕にあるスマートウォッチが、警告音と共に激しく点滅していた。
『警告:心拍数180突破。アドレナリン過剰分泌』

「俺のエマに、気安く触れるな」
「え~? 創造主(マスター)が設定したんやろ。『誰もを骨抜きにするほどの魅力』を実装しろ、て」
 ドーパミンが悪びれもせずに肩をすくめる。
「エマ様の精神安定のために、触れ合い推奨とプログラムされていて」
 セロトニンも涼しい顔だ。
「物理的接触には、俺の許可が要る!」
「嫉妬かぁ? ダっせえ兄貴やなぁ」
「……所有権の主張だ!」
 レイは顔を真っ赤にして叫ぶ。『天才脳科学者』の面影はどこへやら。

 エマは呆気にとられていたが、ふと気づく。
 今はスマホのことなんて、一ミリも思い出さなかった。
 だって、画面の先じゃなくて眼の前に、エマを大事にしてくれる相手がいる。

「……ふふ」
 エマの口から、笑みがこぼれた。
「笑った」
 三人が同時に動きを止め、エマを見る。
「……そうだ。その顔が見たかった」
 レイが、争うのをやめてエマに歩み寄る。

「エマの脳、俺が『上書き(オーバーライド)』してやろう」
「……スマホ依存症を、治すってこと? 治る、のかな?」
「当然。俺は神の失敗(バグ)さえ修正(デバッグ)する、天才脳科学者だぞ。スマホも菓子も、俺にかかれば雑魚敵だ」
 レイが、真っ直ぐにエマを見る。エマの心臓が、早鐘を打った。
「……私も、頑張る」
 エマが頷くと、レイは満足げに微笑む。
「よし。デジタル・デトックス・デイズを開始する。総員、エマを全力で愛し、支援せよ!」
「「了解!」」

 *
 翌朝。
 ベッドで微睡むエマの鼻先に、美味しそうな香りが漂ってきた。
 焼き立ての小麦の芳香。メープルシロップの甘い香り。

「おはよう、姫。五月晴れやで」
 耳元で、蕩けるような声がした。
 重いまぶたをこじ開けると、視界いっぱいに、金色の髪と、ルビーのような瞳が飛び込んでくる。
 ドーパミンだ。
 この『欲求の化身』は、エマのベッドの縁に腰掛け、銀のトレイを捧げ持っていた。

 トレイの上には、生クリームの塔がそびえ立つパンケーキタワー。とろりとかかったメープルシロップが、朝日を浴びてキラキラと輝いている。
 エマは飛び起き、まだ学校に間に合う時間であると確認して、ホッとする。
「脳を目覚めさせるには、大量の糖質(グルコース)が必要やろ?」
 ドーパミンが、フォークで切り分けたパンケーキを、エマの唇に押し当てる。
「んんんー!」
 エマは、唇を引き結び、必死に首を振った。手を伸ばして、ドーパミンの差し出したフォークを唇から離した。

「お兄ちゃんが、私が痩せるために協力してくれる。それなのに、私がそれを食べるわけにいかない」
 そう言いながらも、エマの目はパンケーキに釘付けだ。だって、めちゃくちゃ美味しそう。
「ちょっとくらい、ええやん? もっと欲張ってええんやで。それとも、スマホのがええ? ほら、通知が来てるで? その指先一つで、世界は姫を承認してくれる……」
 ドーパミンが、エマのスマホ――少しでも、スマホを魅力的と感じる回数を減らすため、表示を白黒にしている――をヒラヒラと振った。
 そこへ、カーテンが静かに開かれた。
 朝日が差し込む。
 窓枠の先に見えた青空は、初夏らしく晴れ渡っていた。

「……ドーパミン。朝から刺激が強すぎます」
 セロトニンが窓辺に立っていた。
 純白のエプロン姿。銀髪が朝の光を浴びて、天使の輪のように輝いている。
「エマ様、もう少しお休みになっていても、大丈夫ですよ?」
「だめ。その『あと1分』が『あと1時間』になるバグを、私は抱えてるの。……頑張るって、約束したし」
「エマ様は、努力家ですね。では、こちらを。カモミールとラベンダーのお茶です」
 セロトニンが、湯気を立てるマグカップを差し出した。
 ドーパミンの情熱的な紅とは対照的な、静謐な緑の瞳がエマを覗き込む。
「自律神経を整えましょう」
 セロトニンが微笑む。ふわりと、日向で干した布団のような、清潔で安心する香りがした。

 エマがスマートウォッチを見ると、
『ドーパミンレベル:計測中、変動あり』
『セロトニン:高』

「……二人とも、そこまでだ。ドーパミンが過剰になれば、『攻め』の依存……刺激や興奮への依存が。セロトニンが過剰になれば、『守り』の依存……現状維持や安心感への耽溺が生じる。俺という理性がいなければ、お前たちはエマをダメにする」
 レイは不機嫌そうに、ドーパミンのパンケーキを取り上げる。
「エマ。リビングで、低糖質の食事を終えてから、学校へ行きなさい」

 *
 放課後、屋根裏ラボ。
「まずは、スマホを捨てなさい」
 レイは、エマから取り上げたスマホを、鉛色の金庫へと放り込む。
 厚い扉が閉められ、ダイヤル錠が回される。
「あっ……!」
 エマの手が、虚空を掴んだ。
 スマホがない。
 たったそれだけのことなのに、世界から切り離されたような、強烈な不安が襲ってくる。
(通知、来てないかな。誰かからメッセージ来てるかも。昨日の動画の続き、視たい。確認しなきゃ。確認しなきゃ)
 焦燥感。息が浅くなる。
「……返して。心配で死にそう」
「死なない。人類はずっと、スマホなしで生存してきた。とは言え……今のエマには、スマホ使用以外でドーパミンを出す『代替行動』が必要だな。……ドーパミン!」
 レイが、呼ぶ。
 ――だが、返事がない。

 見れば、部屋の隅でドーパミンが、自分のスマホを連打していた。
「なんでや! さっきの『寝起きイケメン画像』、まだ『いいね』が1件しかついてへん! 俺の計算では、今頃バズってるはずやのに」
「ドーパミンまで、スマホに依存してどうする。さすがに、オンラインカジノは止めただろうな?」
「……承認とスリルへの欲求は、俺のアイデンティティや。退屈やと死ぬ」
「コードを書き換えて、よりエマの教育に良いアイデンティティにリセットしよう」
「えろう、すんません!」
 ドーパミンは慌てて、スマホをズボンのポケットにねじ込む。

「スマホの代替行動は、何でも良いが……特にダンスが、スマホ依存者の思考力を改善したという論文がある。それに、エマは昔から『音』に救われてきたからな」
「リズム運動と、他者との触れ合いが大事って論文やな? 了解!」

「……エマ、これを着てダンスしてきなさい。俺はまだ仕事があるが、いずれ一緒に踊ろう」
 レイが、目が覚めるような真紅のミニドレスを、エマに差し出した。
 背中が大きく開いた、体のラインを拾うデザイン。
「そ、そんな急に! むむむ無理だよ。私、六十キロあるんだよ? こんなの着たら、ボンレスハムだよ」
「――俺はどんなエマでも可愛いと思うが」
 レイは、ドレスをテーブルに置いた。
「今のエマは、本当にエマが、なりたい姿か?」
「……違う」
 エマは、ドレスに手を伸ばした。艶やかな手触りを、両手で大事に持った。
 今の体型では、きっと似合わない。これを着て鏡を見るのが、怖い。
 けれどもう、『このドレスが似合わない自分』のままで、いたくなかった。
「私のリズムを、取り戻したい」

 *
 地下の重厚な防音扉を開けた瞬間。
 熱気。
 爆音のラテンビート。
 華やかなレーザー光線が、ドレスを着たエマの全身を、直撃した。

 サルサクラブ――ラテン音楽に合わせて、男女がダンスを踊るのを目的とした社交場のことらしい――『エル・ドラド』。
 ミラーボールが撒き散らす光の粒が、フロアで踊る男女の汗ばんだ肌を照らし出している。日本人も外国人もいる。いかにもダンサーという体型の人もいれば、エマよりさらに太めの男女もいる。
 皆、溌剌として、楽しそう。
 入口で手の甲にスタンプを押された。『未成年なのでお酒を注文できず、22時以降は店内にいられない』という意味らしい。ついでにエマは、大きすぎる音を耳栓で半分くらい遮った。

「今日のシンデレラは、22時には魔法が解けるんや。せやけど、それまでは王子様とダンスできるで」
「私、運動神経皆無だよ……」
「関係あらへん。必要なのはリズムを感じるハートと、俺に身を委ねる度胸だけや」

 ドーパミンが上着を脱ぎ捨てる。
 金髪をかき上げる仕草が、スポットライトを浴びて、映画のワンシーンのように決まっていた。
 フロアにいた女性たちの熱視線が、ドーパミンに集中する。
『あの人、カッコいい』
『モデル?』
 そんな囁きが漏れ聞こえてくる。
 でも、ドーパミンのルビーのような瞳は、エマだけを捕らえていた。

「ええか、姫。まずは『基本動作(ベーシック)』だけ覚えろ。あとは、どうにかなるもんや」
 ドーパミンがエマと向き合い、手を取る。
「右足を一歩後ろへ……そう、ええ子や」
 エマは言われるがままに足を動かす。単純な反復動作。これくらいなら、ついていける。その後、ドーパミンは簡単なステップをいくつか教えてくれた。
「これがラテンダンスの心臓や。あとは、俺に身を任せればええ」
 ドラムが激しいリズムを刻み始めた。
 高速のラテンビート。

「いくで!」
 ドーパミンの腕が、強引にエマをリードする。
 さっき習った単純なステップが、リードによって、ダンスへと昇華される。
 右へ、左へ。鋭いターン。
 ヒールが床をぎこちなく叩く。息が上がる。動かしすぎた手足が痛む。
「どうした姫! この程度か。いつか兄貴と踊るんやろ!?」
「まだまだ! 私はお兄ちゃんのためなら、何でもする!」
(お兄ちゃんが……私のことは大丈夫って、安心して。好きな人と、幸せになる、ためなら)
 エマは必死で、ドーパミンのステップに食らいつく。
 肺が焼けるように熱い。

「なあ姫、気づいとるか? 今、スマホのこと、考えてないやろ」
 耳元で囁かれた言葉に、エマはハッとした。
「本当だ。いつもなら三分おきにチェックしないと不安なのに」
「それが『ダンス』の効能や」
 ドーパミンは、エマをリードしつつ話す。
「スマホを見てる時、姫の脳は、ただ流れてくる情報を浴びとるだけ。せやから思考力が衰えていくんや」
「うっ、図星……!」
「せやけど今、姫は音楽を聴き、俺の動きを見て、体のバランスを取っとる。習ったばかりのステップを踏むには、脳が『フル稼働』して、音と動きを統合させな。その時、スマホなんて『ノイズ』が入る隙間、ない。……ダンスは、姫の脳を『現実(リアル)』に強制的に接続させる、最強のツールなんや」
「うん、分かる気がする」

 サルサクラブの熱気、重低音の振動。体が、軽い。
 エマとドーパミンは、同時にターン、と強く床を踏み鳴らす。完全なシンクロが、心地良い。

(この高揚感を、そのまま曲にしたら……? ラテンのビートをベースに置いて、サビで一気に転調させて……)
 電撃が走った。 AIには作れないリズム。計算式では弾き出せない、生身の『グルーヴ』!
(きっとバズる……もう一度、私の曲を聴いてもらえる!)
 ――けれど、次の瞬間。
(それで、もし……ダメだったら? 何度もトライしたじゃない。次こそは、次こそはって。でも……勝てなかった。思い知った、じゃない)
 エマの足が止まりかける。
「せっかくリズム、取れてたやんか……考え事?」
 ドーパミンが、エマを強く引き寄せた。ドーパミンの体は、熱いほどだった。
「今は、過去も未来も関係ないで。今、この瞬間の快楽だけを貪れ」

「……うん!」
 ドーパミンが、エマにスピンをさせる。
 くるくるくる、高速回転。
 遠心力でスカートが花のように開く。
 景色が溶ける。
(あ、すごい)
 悩みが全部、遠心力で吹き飛ばされていくみたい。
 ステップを踏むたびに、ドクン、ドクンと送り出される熱い血が、脳の隅々まで駆け巡る。
 ずっと頭にかかっていた灰色の霧が、晴れていく。
「見え……る!」
 世界が、鮮やかだ。ミラーボールの煌めきが、目に痛いほど。たまらなく、楽しい。
(私、生きてる! 指先だけじゃない、全身で!)
「ええ顔するようになったやんか、姫! ラスト、派手に決めるで!」
 曲がクライマックスへ向かう。
 ドーパミンの腕に強い力がこもった。最後の決めポーズ――男性が女性を支え、女性が背中を反らせる――への合図。

 その時だった。
(……え?)
 エマの鋭い聴覚が、異常を捉えた。
 さっきまで定期的なリズムを刻んでいたドーパミンの心臓の音が、一拍、不自然に飛んだのを。
「ドーパミン?」
 ドーパミンの右足が、力が入らないかのように、カクンと折れた。
「しまっ……」
 ドーパミンの体が、右足から崩れ落ちていく。
(危ない!)
 エマは、大きく踏み出した。 倒れそうになるドーパミンの体重を、自分の体全体で受け止める。 彼の背中に腕を回し、グッと引き寄せ――
 ダンッ!!
 強烈な足音と共に、二人の動きが止まった。
 エマが、真正面から、ドーパミンを抱きとめる形。端からは、情熱的に抱き合う、フィニッシュ・ポーズに見えた。
『あの二人すげえ、映画みたい!』
 囁く声が聞こえた。

 しかし、次の瞬間。
 ――それまでドーパミンの体を支えていた、ドーパミンの左足までもが、膝折れした。エマは支えきれず、ドーパミンは膝をつく。
「……最高の夜すぎて……出し尽くしてもうた」
 ドーパミンが笑おうとして――顔が強張る。
 その時、クラブの扉が開き、血相を変えたレイが飛び込んできた。
「無動(アキネジア)か!!」
< 1 / 1 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

「呪いではなく、特性です」ーーASD氷帝の孤独を癒やしたら、自由区の女王への溺愛が止まらないーー
mako1234/著

総文字数/24,994

ファンタジー10ページ

第6回ベリーズカフェファンタジー小説大賞エントリー中
表紙を見る 表紙を閉じる
辺境へ追放され、10年かけて自治区として発展させた、総監リリアン。 ある日、リリアンの元へ帝国から「氷帝」カイゼルが査察に現れる。 カイゼルの「呪い」とされた、「人の気持ちが分からない」という特性について、リリアンだけが前世の日本の「自閉症スペクトラム症(ASD)」という知識で、理解できた。 長年の孤独を癒やされたカイゼルは、リリアンへ強引な求婚を開始。 自治区を「臨時首都」としてまでリリアンとの結婚を望む皇帝に対し、リリアンに10年来の初恋を捧げる補佐官アッシュが激しく対立。 そんな中、アッシュが実は隣国の王子であったことが発覚し――。 ※ このお話の前日談(追放~井戸掘りシーン)も執筆しており、手元にあります。ご希望あれば、コメント頂ければアップします。遠慮なくお教えください。

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop