“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした――忘れたふりをしていた恋の、その続き
クリスマスイブの今日は、朝から弱い雨が降っていた。
天気予報が、夜には雪に変わると告げた。
思い出すのは、終業式後の陸とのデート。
新宿で、ご飯を食べて、新宿御苑では落ち葉で遊んで、プレゼント交換、……それから。
頭の中で、陸の声で“愛してる”が再生される。
恐ろしい勢いで頬が熱くなるのを感じ、慌てて頭を振って思考を切り替えた。
やがて、起きてきたゆめとテキストを開くが、ちっとも頭の中に入っていかない。
午後には勉強を諦めて、今日はお菓子作りにシフトチェンジすることにした。
クリスマスらしいアイシングクッキーを作ることにする。
陸とは冬休みの約束は何もなく、クリスマスイブの今日だって会うことはない。
会えないと分かっているのに、丁寧に焼いてしまう。
うまく出来た分だけ、切なさが増した。
特によく出来たものを、より分けて別に移していく。
みんな出かけてしまって、家にはまな一人。
帰りも遅いと言っていた。
なおの方は、いつも一緒にいる男子がいる。
もしかしたらゆめにも、クリスマスを一緒に過ごすような間柄の人がいるのだろうか。
だとしたらいいなぁ、なんて勝手に思ってしまった。
――好きな人に会えるクリスマスは、きっと宝物だから。
こたつの天板の上に乗せていたスマートフォンがメッセージを受信し、短く震えた。
確認すると「浅瀬 陸」の文字に心臓が跳ねた。
『浅瀬 陸:今、なにしてる……?』
『保坂 愛:今はまったりとこたつタイム中です』
『浅瀬 陸:急にごめん。今……、外に出られる?』
「……っ!」
こたつから一気に抜け出して、大慌てで部屋へと駆け上がる。
深呼吸を数回して、気持ちを落ち着けてから、改めてもう一度文字を確認した。
都合の良い見間違えではなさそう。
『保坂 愛:大丈夫です。今から支度しますね』
(陸くん……もしかして、陸くんに会えるの……?)
胸が張り裂けそうなくらい、苦しい。
――まなは知らない。
“顔がみたい”というニュアンスのメッセージの裏で、彼がどれほど葛藤し、そしてたまらず家を飛び出してきた衝動を。
クローゼットの扉を開ける。
吟味している時間も無くて一番お気に入りのものに慌てて着替えた。
濃いめの赤と黒のコントラストが、どこかお気に入りの定期入れみたいで気に入っている、洋服とコートの組み合わせ。
せっかく会えるのならと、クッキーも持って行くことにする。
先ほどより分けておいた綺麗な出来映えのものを、ラッピング用の袋に入れてワイヤーでねじった。
家を飛び出すと、細く長く降っていた雨は雪交じりのみぞれへと変化を遂げていた。
待ち合わせ場所は相模原駅構内。
彼には私の最寄り駅までしか住所を話していなかったことに、今更ながら気がついた。
(……落ち着け、私。ただ会うだけ)
駅ビルの中に入ると、傘を畳む。
改札を出てすぐのところに、見慣れた濃茶の髪があった。
目を伏せて、静かに駅ビルのほうを眺めていた。
「……陸くん」
呼ぶと、陸の表情がぱっと明るくなる。
その瞬間だけで、胸の奥が温かくなった。
「来てくれて……ありがとう」
陸の声は、どこか震えていた。
寒さのせいだけじゃない、とすぐに分かった。
まなはゆっくりと首を振る。
「ううん……こちらこそ、こんなところまで来てくれてありがとう」
陸も、緩く首を振る。
「……本当は、ここに来るのは間違っているって、何度も思ったんだ。
それでも……まなに会いたくて。
迷惑だって、わかっていたのに止められなかった」
ごめん……と落とされる彼の声が、小さく震えていた。
自分を責めるようなその言葉に、まなはたまらず陸の左手を両手で取った。
「迷惑じゃないです。
……私だって、望むべきじゃないってわかっているのに。
本当は……会いたかった。
こうしていることが、罪なら……きっと同罪です」
まなの遠慮がちな笑みに、陸も小さな笑みを浮かべた。
離れたくない。
だけど、引き留めてはいけない。
「……陸くん。
良かったら、私にあなたを送らせてくれませんか?」
「え……?」
「……最寄り駅まで送らせてください」
苦し紛れの、まななりの妥協案。
一緒にいたいけれど、彼の邪魔はしたくない。
なら、移動時間を一緒に居る時間に変える。
「そんな……まなに負担がかかること……」
「……今日だけでいいの。
今、時間があるのは私だから」
言外に、もっと一緒にいたいという思いを滲ませて陸の顔をまっすぐに見つめる。
陸の喉が、小さく上下した。
「……じゃあ、八王子まで……。
さすがにそれ以上は、まなを一人で帰すのが心配すぎるから」
まながこくんと頷くと、陸がはぁぁと大きなため息をつく。
「……本当、俺、かっこ悪い。
まなに気を遣わせてばかりでごめん」
「ううん、陸くんが来てくれただけで。
私なんかのために、大事な時間使ってくれただけで十分すぎるくらい。
一緒に居させて欲しいのは……私のわがまま、です」
握る手に力を込める。
きゅっと結ばれた手に、たくさんの言葉にできない想いを乗せて。
改札の方をちらっとみると、陸が小さく頷いた。
お互い手袋を外して、手のひらを重ねた。
手袋をはめていたはずなのに、指先はひんやりとしていた。
改札を抜けると、ほどなくして電車は到着した。
物わかりがいいふりをしているだけで、本当は今だって離れたくない。
その自分の本心は、握る手の強さにだけ滲ませる。
陸を困らせる自分にだけは、なりたくなかったから。
「あ、雪!」
トンネルを抜けたあと、誰かが車内でこぼした言葉に、みんなが反応する。
窓の外に大粒の雪が吹雪いているのが見えた。
「ね、陸くん、積もるかな」
「どうだろう……ちょっと積もったら困るね」
まじめな彼の返しにクスッと笑う。
「まながやっと笑った」
「……え? 私、笑ってませんでした?」
こてん、とまなが首をかしげる。
「……笑ってはいたんだけど……なんか、無理させているなって思っていたから。
俺のせいなんだけど……ごめん……」
「……そんなこと」
陸の方からも、ぎゅぅっと手に力が込められる。
痛くはない、けれど、簡単には離れない強さ。
やがて、電車は八王子駅に滑り込んだ。
いつもの夕焼け小焼けのメロディーが、心をやさしく揺らしていく。
改札前は人で混み合っていた。
イルミネーションが煌めく北口の出口手前、邪魔にならない角で陸が立ち止まる。
左手で自身の鞄の中を探っている。
それに併せてまなも自分の鞄の中に手を入れた。
家を出る前に慌てて詰めたクッキーの袋を取り出す。
陸の手には、ラッピングされた手のひらサイズの小さな包み。
「……これ、まなに。
駅ビルで見かけたときにすごくいい匂いだったから」
繋がれた手を陸が持ち上げ、そしてまなの手の中に包みを渡す。
中を開けてみると、香り付きのハンドクリーム。
「まな、よく料理とかするから。
水仕事で手が痛まないように、使って貰えたら嬉しい」
「……うん、ありがとう。
さっそく使うね」
陸の方に渡されたのは、両手サイズのラッピングバッグ。
中にはたくさんのネコ型クッキーが詰まっている。
「うわ……やば……。
こんなん、俺が貰っていいのだろうか……」
手作りのクッキーというその価値をかみしめるように、陸がその袋を抱きしめる。
喜んで貰えたことに安心しながら、貰ったばかりのクリームを手に塗った。
ふわりと、やさしいキンモクセイの香りが漂った。
「うわ……すごくいい匂い!
手もべたべたしないし、使いやすいですね!」
まなが嬉しそうに両手を顔の前に持って行くのを、目を細めて陸が見守る。
「他にも色々と香りがあったんだけど、俺の好きなのがそれだったんだ。
……実は自分用にも同じの買ったんだけど、引く……?」
ちょっと照れたような表情で告白する彼の手を、まなは顔の前へ引き寄せた。
「あ、ほんとですね!
陸くんの手もいい匂い!」
陸の顔がかぁっと赤くなる。
引き寄せられた手がほんの少しまなの吐息に触れた、その瞬間まるで怯えるように小さく震える。
その反応が愛しくて、まなが小さく笑った、そのとき――
陸の手がまなの頬に伸び、そっと顔を上向かせた。
近づく気配に、まなが息を止める。
けれど陸は、はっとして離れ、そのまま抱きしめた。
回した腕から伝わってくる彼の鼓動が信じられないくらい速い。
それに呼応するように、まなの心臓も苦しいくらいの速さになる。
抱きしめる力は彼にしては強く、でも安心する温かさがあった。
まなも恥ずかしさを隠すようにぎゅぅっと抱きしめる腕に力を入れた。
「……ごめん」
どれくらいそうしていたのだろうか、ぽつりと頭上から言葉が降ってくる。
その言葉は、まなの心をちくりと刺した。
(……嫌だったわけじゃない。――むしろ……)
顔を上げて彼の顔を覗き込む。
すぐ目の前で睫毛をふるりと震わせながら、陸は小さく目を眇めた。
「……今、俺……。
……ほんと、ごめん……。
傷つけるつもりとかなくて!
……その、大事にしたいのに……」
しどろもどろに謝る陸の真面目さが可愛くて、まなはくすりと微笑むと首を横に振った。
「陸くんは、いつだって大事にしてくれています。
……陸くんのすることで、私は傷ついたりしないよ」
「……ありがとう。
……でも、俺のこと、そんなに信用しないで……。
もっと、ちゃんと自分のこと大切にして」
その声は、拒絶ではなく”君を好きすぎて止まれなくなりそう”という臆病な青年の、切実なお願いの色を含んでいた。
冷えた空気に白く溶ける弱音。
愛しさの中に滲む、甘い痛み。
お互いの高鳴る鼓動が落ち着いたころ、二人はそっと腕をほどいた。
別れ際、ほんの一瞬だけ視線が重なる。
どちらも、言えない言葉を飲み込んだ。
名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、別れの言葉を紡いで別方向に歩き出す。
舞い落ちる雪のように、心の中に愛しさと熱を積もらせながら。
人差し指が、気が付いたら唇に触れていた。
その指先からは、ほんのりと季節外れのキンモクセイの香りがした。
◇
京王八王子駅へと向かう道の途中。
冷たい雪交じりの風が、火照る陸の頬を冷やしていく。
あの瞬間、あともうほんの少しで彼女に触れてしまっていた。
今までも何度も彼女へ引き寄せられ、そして寸前でそれを何とか耐えた。
触れていない今でも、彼女の触れた頬の柔らかさや抱きしめた身体の温もりに頭の中がいっぱいになってしまっている。
本当に触れてしまったら……きっともう、それ以外なにも考えられない。
自分と彼女を守るためと言い聞かせながら、陸はぎゅっと彼女の温もりの残るその手を握りしめた。
――冬の冷たさだけが、彼を正気に戻してくれていた。
天気予報が、夜には雪に変わると告げた。
思い出すのは、終業式後の陸とのデート。
新宿で、ご飯を食べて、新宿御苑では落ち葉で遊んで、プレゼント交換、……それから。
頭の中で、陸の声で“愛してる”が再生される。
恐ろしい勢いで頬が熱くなるのを感じ、慌てて頭を振って思考を切り替えた。
やがて、起きてきたゆめとテキストを開くが、ちっとも頭の中に入っていかない。
午後には勉強を諦めて、今日はお菓子作りにシフトチェンジすることにした。
クリスマスらしいアイシングクッキーを作ることにする。
陸とは冬休みの約束は何もなく、クリスマスイブの今日だって会うことはない。
会えないと分かっているのに、丁寧に焼いてしまう。
うまく出来た分だけ、切なさが増した。
特によく出来たものを、より分けて別に移していく。
みんな出かけてしまって、家にはまな一人。
帰りも遅いと言っていた。
なおの方は、いつも一緒にいる男子がいる。
もしかしたらゆめにも、クリスマスを一緒に過ごすような間柄の人がいるのだろうか。
だとしたらいいなぁ、なんて勝手に思ってしまった。
――好きな人に会えるクリスマスは、きっと宝物だから。
こたつの天板の上に乗せていたスマートフォンがメッセージを受信し、短く震えた。
確認すると「浅瀬 陸」の文字に心臓が跳ねた。
『浅瀬 陸:今、なにしてる……?』
『保坂 愛:今はまったりとこたつタイム中です』
『浅瀬 陸:急にごめん。今……、外に出られる?』
「……っ!」
こたつから一気に抜け出して、大慌てで部屋へと駆け上がる。
深呼吸を数回して、気持ちを落ち着けてから、改めてもう一度文字を確認した。
都合の良い見間違えではなさそう。
『保坂 愛:大丈夫です。今から支度しますね』
(陸くん……もしかして、陸くんに会えるの……?)
胸が張り裂けそうなくらい、苦しい。
――まなは知らない。
“顔がみたい”というニュアンスのメッセージの裏で、彼がどれほど葛藤し、そしてたまらず家を飛び出してきた衝動を。
クローゼットの扉を開ける。
吟味している時間も無くて一番お気に入りのものに慌てて着替えた。
濃いめの赤と黒のコントラストが、どこかお気に入りの定期入れみたいで気に入っている、洋服とコートの組み合わせ。
せっかく会えるのならと、クッキーも持って行くことにする。
先ほどより分けておいた綺麗な出来映えのものを、ラッピング用の袋に入れてワイヤーでねじった。
家を飛び出すと、細く長く降っていた雨は雪交じりのみぞれへと変化を遂げていた。
待ち合わせ場所は相模原駅構内。
彼には私の最寄り駅までしか住所を話していなかったことに、今更ながら気がついた。
(……落ち着け、私。ただ会うだけ)
駅ビルの中に入ると、傘を畳む。
改札を出てすぐのところに、見慣れた濃茶の髪があった。
目を伏せて、静かに駅ビルのほうを眺めていた。
「……陸くん」
呼ぶと、陸の表情がぱっと明るくなる。
その瞬間だけで、胸の奥が温かくなった。
「来てくれて……ありがとう」
陸の声は、どこか震えていた。
寒さのせいだけじゃない、とすぐに分かった。
まなはゆっくりと首を振る。
「ううん……こちらこそ、こんなところまで来てくれてありがとう」
陸も、緩く首を振る。
「……本当は、ここに来るのは間違っているって、何度も思ったんだ。
それでも……まなに会いたくて。
迷惑だって、わかっていたのに止められなかった」
ごめん……と落とされる彼の声が、小さく震えていた。
自分を責めるようなその言葉に、まなはたまらず陸の左手を両手で取った。
「迷惑じゃないです。
……私だって、望むべきじゃないってわかっているのに。
本当は……会いたかった。
こうしていることが、罪なら……きっと同罪です」
まなの遠慮がちな笑みに、陸も小さな笑みを浮かべた。
離れたくない。
だけど、引き留めてはいけない。
「……陸くん。
良かったら、私にあなたを送らせてくれませんか?」
「え……?」
「……最寄り駅まで送らせてください」
苦し紛れの、まななりの妥協案。
一緒にいたいけれど、彼の邪魔はしたくない。
なら、移動時間を一緒に居る時間に変える。
「そんな……まなに負担がかかること……」
「……今日だけでいいの。
今、時間があるのは私だから」
言外に、もっと一緒にいたいという思いを滲ませて陸の顔をまっすぐに見つめる。
陸の喉が、小さく上下した。
「……じゃあ、八王子まで……。
さすがにそれ以上は、まなを一人で帰すのが心配すぎるから」
まながこくんと頷くと、陸がはぁぁと大きなため息をつく。
「……本当、俺、かっこ悪い。
まなに気を遣わせてばかりでごめん」
「ううん、陸くんが来てくれただけで。
私なんかのために、大事な時間使ってくれただけで十分すぎるくらい。
一緒に居させて欲しいのは……私のわがまま、です」
握る手に力を込める。
きゅっと結ばれた手に、たくさんの言葉にできない想いを乗せて。
改札の方をちらっとみると、陸が小さく頷いた。
お互い手袋を外して、手のひらを重ねた。
手袋をはめていたはずなのに、指先はひんやりとしていた。
改札を抜けると、ほどなくして電車は到着した。
物わかりがいいふりをしているだけで、本当は今だって離れたくない。
その自分の本心は、握る手の強さにだけ滲ませる。
陸を困らせる自分にだけは、なりたくなかったから。
「あ、雪!」
トンネルを抜けたあと、誰かが車内でこぼした言葉に、みんなが反応する。
窓の外に大粒の雪が吹雪いているのが見えた。
「ね、陸くん、積もるかな」
「どうだろう……ちょっと積もったら困るね」
まじめな彼の返しにクスッと笑う。
「まながやっと笑った」
「……え? 私、笑ってませんでした?」
こてん、とまなが首をかしげる。
「……笑ってはいたんだけど……なんか、無理させているなって思っていたから。
俺のせいなんだけど……ごめん……」
「……そんなこと」
陸の方からも、ぎゅぅっと手に力が込められる。
痛くはない、けれど、簡単には離れない強さ。
やがて、電車は八王子駅に滑り込んだ。
いつもの夕焼け小焼けのメロディーが、心をやさしく揺らしていく。
改札前は人で混み合っていた。
イルミネーションが煌めく北口の出口手前、邪魔にならない角で陸が立ち止まる。
左手で自身の鞄の中を探っている。
それに併せてまなも自分の鞄の中に手を入れた。
家を出る前に慌てて詰めたクッキーの袋を取り出す。
陸の手には、ラッピングされた手のひらサイズの小さな包み。
「……これ、まなに。
駅ビルで見かけたときにすごくいい匂いだったから」
繋がれた手を陸が持ち上げ、そしてまなの手の中に包みを渡す。
中を開けてみると、香り付きのハンドクリーム。
「まな、よく料理とかするから。
水仕事で手が痛まないように、使って貰えたら嬉しい」
「……うん、ありがとう。
さっそく使うね」
陸の方に渡されたのは、両手サイズのラッピングバッグ。
中にはたくさんのネコ型クッキーが詰まっている。
「うわ……やば……。
こんなん、俺が貰っていいのだろうか……」
手作りのクッキーというその価値をかみしめるように、陸がその袋を抱きしめる。
喜んで貰えたことに安心しながら、貰ったばかりのクリームを手に塗った。
ふわりと、やさしいキンモクセイの香りが漂った。
「うわ……すごくいい匂い!
手もべたべたしないし、使いやすいですね!」
まなが嬉しそうに両手を顔の前に持って行くのを、目を細めて陸が見守る。
「他にも色々と香りがあったんだけど、俺の好きなのがそれだったんだ。
……実は自分用にも同じの買ったんだけど、引く……?」
ちょっと照れたような表情で告白する彼の手を、まなは顔の前へ引き寄せた。
「あ、ほんとですね!
陸くんの手もいい匂い!」
陸の顔がかぁっと赤くなる。
引き寄せられた手がほんの少しまなの吐息に触れた、その瞬間まるで怯えるように小さく震える。
その反応が愛しくて、まなが小さく笑った、そのとき――
陸の手がまなの頬に伸び、そっと顔を上向かせた。
近づく気配に、まなが息を止める。
けれど陸は、はっとして離れ、そのまま抱きしめた。
回した腕から伝わってくる彼の鼓動が信じられないくらい速い。
それに呼応するように、まなの心臓も苦しいくらいの速さになる。
抱きしめる力は彼にしては強く、でも安心する温かさがあった。
まなも恥ずかしさを隠すようにぎゅぅっと抱きしめる腕に力を入れた。
「……ごめん」
どれくらいそうしていたのだろうか、ぽつりと頭上から言葉が降ってくる。
その言葉は、まなの心をちくりと刺した。
(……嫌だったわけじゃない。――むしろ……)
顔を上げて彼の顔を覗き込む。
すぐ目の前で睫毛をふるりと震わせながら、陸は小さく目を眇めた。
「……今、俺……。
……ほんと、ごめん……。
傷つけるつもりとかなくて!
……その、大事にしたいのに……」
しどろもどろに謝る陸の真面目さが可愛くて、まなはくすりと微笑むと首を横に振った。
「陸くんは、いつだって大事にしてくれています。
……陸くんのすることで、私は傷ついたりしないよ」
「……ありがとう。
……でも、俺のこと、そんなに信用しないで……。
もっと、ちゃんと自分のこと大切にして」
その声は、拒絶ではなく”君を好きすぎて止まれなくなりそう”という臆病な青年の、切実なお願いの色を含んでいた。
冷えた空気に白く溶ける弱音。
愛しさの中に滲む、甘い痛み。
お互いの高鳴る鼓動が落ち着いたころ、二人はそっと腕をほどいた。
別れ際、ほんの一瞬だけ視線が重なる。
どちらも、言えない言葉を飲み込んだ。
名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、別れの言葉を紡いで別方向に歩き出す。
舞い落ちる雪のように、心の中に愛しさと熱を積もらせながら。
人差し指が、気が付いたら唇に触れていた。
その指先からは、ほんのりと季節外れのキンモクセイの香りがした。
◇
京王八王子駅へと向かう道の途中。
冷たい雪交じりの風が、火照る陸の頬を冷やしていく。
あの瞬間、あともうほんの少しで彼女に触れてしまっていた。
今までも何度も彼女へ引き寄せられ、そして寸前でそれを何とか耐えた。
触れていない今でも、彼女の触れた頬の柔らかさや抱きしめた身体の温もりに頭の中がいっぱいになってしまっている。
本当に触れてしまったら……きっともう、それ以外なにも考えられない。
自分と彼女を守るためと言い聞かせながら、陸はぎゅっと彼女の温もりの残るその手を握りしめた。
――冬の冷たさだけが、彼を正気に戻してくれていた。