“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした――忘れたふりをしていた恋の、その続き
第8章 それでも人は恋をする

―このデータは一度クリアしました―

終わったはずの恋は、日常の隙間から何度でも顔を出す。
二年に上がってからも、まなは保健委員を自分から選んでいた。
隔週のはずだったトイレ巡回は、いつの間にか毎週になっていた。
陸が去年零していた、毎年新年度は緊張すると言っていた言葉を思い出してしまう。
まさか、本当にボイコットする委員が複数出るとは思わなかった。
今年度のペアである吉田が保健倉庫の鍵を開ける。
段ボールを確認した彼の顔色がさっと変わった。

――倉庫には、ペーパーの在庫がほとんど無かった。

その日なんとか数個残してペーパー補充の仕事が完了すると、まなは三年の保健委員長の元へと急いだ。

「お。三つ子ちゃんどーしたの?」
女子数人を侍らせた委員長が、ひらひらと手のひらを振るようにして軽い挨拶をする。
「……トイレットペーパーがまた在庫不足のようです。
 少なくとも、明日の分は足りません」
淡々と、まなが話す。
吉田が視線から庇うように、まなを背に隠して半歩前へと出た。
「先輩、明日ぺーパーが無くなってしまったらそのあとどうすればよいか、考えておられますか?」
凛とした声が委員長へと突き刺さる。
委員長は気まずげに視線を落とした。
「……明日には届くよ」
「……“届く”じゃなくて、“届かせる”んですよ」
まなと吉田は、同じため息を落とした。


事件は起こるべくして起こったと言える。

二年の二学期、夏休み明けの学校。
一年生と三年生のペアの子が、どうしようと半泣きになりながらまなと吉田の下へと走り込んできた。

「……トイレットペーパーが、全くないの。
 明日、どうしよう……」
ふる、と震えると、先輩がとうとう泣き出す。
まなは肩を支えながら、先輩のせいでは……と慰めを口にする。
委員長への怒りが吹き上がってきたところで、吉田が冷静な声で養護教諭に報告をと告げた。

四人で保健室へと向かう。
養護教諭は案の定、深いため息をついて、自分の責任だと四人に頭を下げた。

陸ならこんな失敗はしなかったのに、という気持ちがまなの胸の中によぎる。
同じように思ったのか、一年生を除く三人が同じような表情になる。
陸は責任感も強く、そしてみんなが気がつかないようなフォローまでしっかりとしてくれていた。
誰かに感謝させるためではなく、自分の仕事に誇りを持って誰かが困らないように先を見通して。

改めて、本人のいないところで、その事実はまなの胸に沁みていく。

急いで発注をかけたが、最短で届いても明日の昼。
今回のピンチを知った他の保健委員も加わって、手分けをしてドラッグストアへと向かう。
明日一日分を補うために、保健委員が走る。
養護教諭は疲れた表情で、状況を確認した。

(もう、委員長だけには任せておけない)

両手を握りしめながら、密かに決意する。
陸が守ってきたトイレを――学校の平和を、守りたい。

「吉田くん、今日はありがとう」
「……まなちゃん、一人で無理はしないで」
隣を歩く吉田に声を掛けると、彼はまなの顔を見つめ、そして遠慮がちな声音で告げた。
まるで、言葉にはしないけれどまなの決意をすべて見透かされているかのようだった。
「オレも、ちゃんとフォローするから。
 あいつには、もう任せておけない」
やっぱり吉田もそう感じていたんだ、と目を伏せる。
彼を巻き込んでしまって良いものか一瞬逡巡したが、トイレは女子トイレだけでは終わらない。
力仕事も意外と多い保健委員には男子の力も必要だった。

吉田が右手を差し出す。
まなはそこに手を重ねて、静かに、でもしっかりと握手をした。
「よろしくね……頑張ろう」

いつもの二つ名さえ付かなかった、今年度の保健委員長にまなが見切りをつけた瞬間だった。


いつしか、委員会の実務はまなが中心になっていた。

「まな、すっかり保健委員会が板についちゃって……」
典伽がからかうというよりは、事実をただ話すような声で言う。
お弁当を広げながら、まなは体育祭に向けての保健委員の割り振りを考える。
海だけでなく吉田もお弁当のグループに加わり、真剣な顔をして話し合っていた。
「まなちゃん、無理しないでね。
 まなちゃんが保健委員長だって誤認しちゃってる人も出ているらしいよ」
たかちゃんがおっとりとした口調で、でも心配そうに眉根を寄せて言う。
「あー、聞いた聞いた。
 本来の保健委員長じゃなくて、まなの方が”トイレの女王様”とか呼ばれているとか」
典伽の言葉に、まなが苦笑いを浮かべる。
「それ……言わないでよ。
 トイレ巡回中に、私の傍でわざと聞こえるように言われたりして、ちょっと堪える……」
その言葉に、海がぽんぽんと慰めるようにまなの頭を撫でた。
「兄ちゃんも同じこと言ってた。
 一部、わざと言うやついるんだよな」
陸の話題に、まなの身体が固くなる。
こんな風に反応してしまって、まだ好きだと心が叫んでいるようだとまなは思う。
でも、陸を拒絶したのは自分の方だ。
だから、身体を縮こまらせながらも、心の傷を時間が癒してくれるのをそっと待つ。
海はそれに気が付きながらも、敢えて触れないように、陸のことをタブー視せずに話してくれた気がした。


机の上に置かれた、今年度の赤い鉢巻を指で撫でる。
去年の黄色い鉢巻は、捨てることもできずに、お揃いのハートを抱えたネコの首に結んである。

(ネコちゃん、私のせいで彼女に会えなくなったね……ごめんね……)

体育祭の準備が進むたびに、去年を思い出し胸が重たくなった。
ネコに結んだ鉢巻の端の、”浅瀬陸”の名前を見つめる。

手放すことなど、できない。
でも、もう”前”に進まなきゃいけない。

(……また、誰かの隣に立てるように、なれるのかな)

深呼吸をすると、息が軽くなった気がした。

――吉田から告白されたのは、ちょうどそんなタイミングだった。

吉田は周りに付き合っていることを隠さなかった。
それがどこか、陸との付き合いと違って軽やかだった。
トイレ係で愛を育んだといじってくる人も中にはいたが、「いいでしょ」と吉田が返すたびに段々とからかう声もなくなった。

あの時の自分たちにできなかった乗り越え方をしていく吉田が、まなには眩しかった。


体育祭のクラス対抗リレーの選手を決めるとき、圧倒的な支持を得て海と吉田が選出された。
まなは記憶にあまり残っていなかったが、去年A組を圧倒的勝利に導いたのが海だったらしい。
そういえばなおのクラスに陸上部で足の速い男子がいたっけ……と遠い昔のことのように思い出す。
海が選ばれると自動的に吉田も選ばれた。
「そういえば去年も、A組が圧勝する中、託人くん徒競走一番だったね」
まなが吉田――託人に笑いかけると、彼は照れたようにはにかみ、覚えていてくれて嬉しいと笑った。
その笑みに、まなの心臓がちいさく跳ねた。

今はまだ、どこかで陸のことを思い出してしまうけれど。
いつか、きっと、託人のことだけで心が一杯になれるんじゃないか――そんな風に、まなは思った。


十一月三日――文化の日。
去年と同じく、文化祭が行われたこの日、まなは朝から大忙しだった。
昨年は先輩たちがしてくれていたことを、今年度は自分たちが中心となって動く。
袱紗をスカートの左腰に挟むと、すっと背筋を伸ばしてお茶席へ出た。

去年より滑らかになった所作のまま、お手前を終えて視線を上げた。
背の高い海はいつでも目立っているのですぐに気がつく。
その隣には綺麗な黒髪の託人。
濃茶の髪は見えなかった。
せっかく来てくれた彼氏よりも陸を探してしまっていた事実に、まなは自己嫌悪に似たため息をついた。
それでも、託人と目を合わせたまなは、小さく手を振りながら笑いかけてくれる彼の姿に、心が春の日だまりのような温度になっていくのを感じる。

(こういう時間も、悪くない……そう思うのに)

ちょうど今日が陸の誕生日だからだろう。
今日は陸の事ばかり思い出してしまう。

(今の恋を、大切にしたい)

意識してしっかりと呼吸を整える。
お茶の香ばしい香りが胸いっぱいに満ちていく。

それでもどこか、心の奥でクリアされないまま、放っておかれた恋心の存在を静かに思い出してしまっていた。


お手前が終わると、託人と並んで祭りの喧噪の中を歩いて行く。
たくさんの食べ物を手に持って、託人が向かったのは何の因果か例の非常階段だった。
「意外とここ人来ないんだね。
 落ち着いて食べられそうでラッキーだったね」
あの時みたいに最上段まで登ったりはしていないけれど、同じ場所ということで嫌でも去年のことが思い出される。
胸に切ないような甘いようななんとも言えない気持ちがよぎる。
それに呼応するかのように、腹部もじわっと重たい痛み。

よぎった陸の陰を誤魔化すように、託人の顔をじっと見つめた。
陸とは違い、身長も高く、肩幅もあって、男性的。
「どうしたの……?
 そんなに見つめられると……ちょっと照れる」
「……っ!」
託人の軽口に、まなの頬が赤く染まる。
座った二人の間にあったまなの手を、託人の手が包み込む。
筋張っていて大きくて、カサっとした手。
「……手、荒れてる?」
「ん? 気になったならごめん。
 うち母子家庭だから自分でも食器洗ったりとか洗濯干したりとか家事することあって」
なんてことないように言うけれど、彼の目の奥が優しい。
きっとお母さんを大切にして、進んで昔からお手伝いをしているような子だったんだろう。
まなは鞄からハンドクリームを出すと手にやさしく塗ってあげる。
陸から貰ったあのハンドクリームと同じ物を、気がついたら愛用してしまっていた。
「いい匂いだけど……キンモクセイかぁ……」
託人が香りを確認しながら、苦笑いを浮かべる。
まなは不思議そうに自分の手にも塗り込みながら首を傾げた。
「あまり好きじゃない?」
「……いや、“キンモクセイの香り”って、トイレの香りの象徴だからさ」
託人の言葉に、まなの目が丸くなる。
「え? そうなの?」
「うん、知らない人も今は多いかもしれないけど。
 俺の母親くらいの世代だと、子どもの頃のトイレの芳香剤はキンモクセイ一択だったらしいよ。
 “トイレ係”と名高い俺たちが付けているといじられるよな……なんて」
「知らなかった……」
きっと、これをくれた陸も知らなかったはずだ。

「もしかして、浅瀬先輩が……?」
唐突な陸の名前にどきりとして、まなは肩を揺らす。
「なんで……」
気まずそうに目線を階段の外の銀杏の木へと向ける。
託人が苦笑しつつ、
「まなちゃんの表情が少しやさしいものに変わったから。
 先輩のこと思い出しているのかなって思ったんだ」と答えた。
まなは明確には答えずに、ただ、弱く微笑んだ。
今の彼氏に、不誠実な態度を取りたくないという気持ちが、彼女の行動をぎこちなくする。

「……そんな困った顔しないで。
 僕は、ありのままのまなちゃんが好きだから。
 先輩のことを大事にしているまなちゃんごと、大切だよ」
握られた手に力が込められ、そっと託人が近づいてくる気配を感じた。
一瞬感じたキスの気配は、頭の上に落とされた。

思わず、その部分を手のひらで触れた。

「焦らないで、オレたちはオレたちのペースで行こう」
託人の優しさに、ふわりと心が解けていく。

二人で仲良く分け合いながら、楽しく食事を終える。
遠くから聞こえてくる文化祭の喧噪が、どこか心地よい。

「ステージの方も見に行く?」
立ち上がろうとしたときに、さりげなく手が差し出される。
託人の手を握って立ち上がろうとしたその瞬間、どろりとした嫌な感触がした。

まなの顔から血の気が引いた。
忙しかったからか予定より少し早い。

「ちょ、ちょっと先にお手洗いに行ってくるね……」
急にソワソワしだした彼女の様子に託人はなんとなく察してくれたようで、そっと頷く。

まながトイレから戻ってくると、いつの間に取ってきたのか片手にジャージの上を持っていた。
その上着をまなに渡してくれる。
「よかったら腰に巻いて。
 たぶん、“隠して”くれるから」
その言葉にスカートを汚してしまっていたことを察する。
はっきりと言葉にしないでさりげなく守ってくれる託人のスタイルが、今のまなにはありがたかった。
それでも、恥ずかしさから少し頬が赤く染まる。
「……ありがとう。
 ……その、……託人くんがいてくれて、良かった」
まなが少し目線を外しながら、たどたどしくお礼を伝えると、ふふっと軽く託人が笑う気配がした。
「少しでもまなちゃんにそう思って貰えたのなら、良かった。
 これ、良かったら使って。
 母があるとないとでは違うからって、もしもの時に渡してやれっていくつか持たされてるの。
 いったいどこの男子高生が女子のそんなフォローするんだよっていっつも言い合っていたんだけどさ、今初めて役に立った」
渡されたのは貼るタイプのカイロ。
確かに、男子高生が女子の生理痛までフォローする場面は色々と限定的だ。
けれど、母に逆らえずに結局持ち歩いている託人はいい子なんだろうなと、しみじみ思う。

誰かが困ったら放っておけない。
そんな彼の気持ちこそが、“本当のやさしさ”なのだと。

「無理はしないでいいからね。
 まなちゃんが今したいこと、教えて」
「ふふ、もう大丈夫だよ。
 カイロのお陰かも。
 ステージの方見に行くんだったよね」
託人の制服の裾を掴んで、引っ張ってみる。
彼は心から安心したように笑うと、まなに合わせた歩みで寄り添った。

体育館からは、ハンドベルのクリスマスソングが聞こえてきていた。
その澄んだ音が、心を浄化していくようで心地よい。

「まだ十一月って思っていたけど、試験とか終わったらあっという間にクリスマスだよなぁ……」
「う……試験……。
 二年の二学期の試験って、本当に大事だよね……」
模試の結果を思い出しながら、苦手科目は早めに始めないとと頭の中で段取りを組む。

「……ねぇ、無事に試験終わったら。
 オレと、デートしませんか?」
隣を見ると、頬を少し赤くしてちょっと視線を外している託人の姿。
その姿がかわいくて、まなは笑いながら「はい」と答えた。
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