“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした――忘れたふりをしていた恋の、その続き
第10章 雪のキャンバス、並んだ足跡
―海くんレベルあげはかどってます―
窓の外は真っ白だった。
初めての北海道に、隣には陸。
まなの胸はずっとドキドキしっぱなしだ。
――そして海は、まな以上に浮かれていた。
「海、そのテンションで街歩くと転ける」
陸が兄らしく注意する姿が何だか新鮮だった。
この二人が兄弟だということは情報としては理解しているが、三人一緒にいる時間は今まではほとんど無かった。
あの同窓会の夜くらいなので、何だか改めて面白く観察してしまう。
「陸くん、すっかりこっちの人になっちゃったんだね」
まなの尊敬するような瞳の中に、ほんの少しの寂しさが混ざる。
陸は苦笑しつつ、そんなことないよと答える。
「俺もまだまだ歩くのは慣れなくて怖いし、運転なんて絶対無理だし、家の寒さは堪えるし……次の転勤は暖かい温暖な地方だといいなと思っているよ」
「でも、食べ物はおいしいし、人は温かいし、嫌いじゃない、だろ?」
海が寄り添うまなの反対側から陸に絡む。
海の言葉に、陸が目を細めて笑った。
「うん、みんないい人ばかりだよ。
初めての赴任先が環境としては厳しいけど、ここで良かったって何度も思ったよ」
「きっと陸くんが真面目に頑張っているからですよ」
まなが笑う。
陸はまた頬を赤くして、そうかな、とはにかんだ。
新千歳空港から電車に乗り、札幌へと向かう。
「そういえば、宿泊先とかは決まっているのか?
まさか、ホテル取れなくて二人同じ部屋とか言わないよな?」
陸の質問に、まなはどきりとした。
「んー……同じ部屋になるかもしれない」
海の答えも曖昧だ。
「はぁ?」
陸の語気が強くなる。
「というか、兄ちゃん泊めてくんない?
ホテルはさすがに取れなくて、まなとネカフェ行こっかって話してたところ」
「海、いきなりおうちにって……迷惑だよ。
陸くんは気にしないで……」
まなが遠慮がちに断ろうとしたところで、陸が静かに首を振る。
「迷惑じゃない。
むしろこっちに滞在中は俺の家以外に泊まらないで欲しい。
海も。
二人ともこっちに来るのにお金使っただろうし、これ以上無駄に使うことはない。
宿泊費もかからないし、俺としてもまなと居られる時間が多い方が嬉しいから……」
最後はやや小声になるのが、陸らしい。
まなは遠慮がちに頷いた。
「やった! 兄ちゃん大好きっ!」
海が陸にじゃれつき、陸が雪に足を取られて滑りかけた。
陸に案内されて到着した家は、小さな片流れ屋根のアパートの二階だった。
部屋の真ん中にはやや一人暮らしには大きめのこたつとテレビ。
「こたつだ!」
海が嬉しそうに真っ先に飛びついた。
シンプルな茶色い布団に包まれた途端に、彼の顔が蕩ける。
「……こたつ」
まなが意外そうに陸を見つめると、陸は頬を掻きながら呟く。
「……前に、まなが冬はこたつ最高って言ってたから。
うちには無かったから……密かに憧れていたんだよね」
陸がストーブをつけると、部屋がやっと暖まりだす。
北海道の家は暖かいなんて言うけれど、一人暮らしのおうちは普通に寒いんだなぁと思った。
「あ、陸くん、お手洗い借りてもいい?」
「もちろん。
玄関から一番近い扉がそうだよ」
トイレに入ると思わず息を飲んだ。
そっと置かれたさりげない芳香剤。
ほのかに香るゆず系の香りが、冬らしい。
暖かなふわふわのスリッパやトイレのカバーたちは茶色がベースなのに、黒ネコのシルエットがちょこんと付いているデザインで、それがネコ好きな陸っぽい。
過剰な装飾はないけれど、シンプルで暖かい空間。
やや縦に広くて、そこには足下用のヒーターが置いてあった。
人感センサーで人が居るときだけ温かい。
まさに、癒やしのトイレ。
トイレットペーパーもこだわっていて、ふわふわで切りやすい。
さすが、さすがです委員長――と、自身も高校三年の時は保健委員長だったにも関わらずその呼び名が飛び出しそうだった。
充実したトイレ時間を過ごした後、扉を閉めて室内へと戻る。
入れ違いに海がトイレへと立った。
室内に、意図せずにほんの二人きりの時間が出来る。
こたつに座る陸が、隣の場所の布団をそっと持ち上げる。
導かれるように、隣へと座った。
ぎゅっと、陸がまなの肩を抱いて引き寄せる。
陸の部屋というその場所だけで、心臓がどきどきしてどうにかなりそうなくらいだった。
陸からも、香水とは違うふんわりとした良い香りがした。
たぶん、柔軟剤。
今、こうしていることが信じられない。
つかの間の、沈黙。
世界が、今だけ二人きり。
トイレを流す音がして、二人はぱっと離れた。
――手だけを布団の下に残して。
その秘密のつなぎ方がいつかの体育祭を思い出して、少し懐かしかった。
海が興奮した様子で戻ってくる。
「兄ちゃん何あのトイレ!
最高過ぎてびっくりした!
さすが“トイレの貴公子”だなって思った!」
「おいっ!」
懐かしい呼び名に陸がすぐさま反応する。
「本当、凄いトイレを見せて貰ったよ。
さすが、委員長だなって思ったよ」
まなも同調する。
「お、“トイレの女王様”のお墨付きならバッチリだね!」
まなの二つ名に、陸が吹き出す。
「ちょ……なにそれ。
まな、“トイレの女王様”って言われてたの?」
陸の肩が震える。
まなの肩も違う意味で震えた。
「ち、ちが……」
「違わない。
しかもまなが呼ばれ始めたのって二年の終わりくらいだから、実際は委員長じゃないのに言われていたんだよ?
あの頃のまなと吉田はトイレに高校生活全振りしてんのかよってくらいトイレ中心だったね」
こたつを叩きながら笑う海に、まなもちょっとムキになって返す。
「もうっ!
陸くんの守ったトイレを、学校の平和を守りたかっただけだよ!」
海が笑いながらごめんと謝る。
「兄ちゃんトイレでこの物件選んだのかってちょっと思った。
この家のトイレって、普通のトイレよりちょっと縦が広いよね。
たぶん一畳分取ってある。
普通の一人暮らしの家のトイレって0.7畳くらいが多いから」
海が住環境の分野を好んで学んでいることもあり、構造的なことには詳しいようだ。
「気に入って貰えたなら何より。
そもそも、誰も呼んだことのない家だから、完全に自己満足の世界なんだけどね」
陸の言葉に、ほっとする。
彼はこの家に彼女を呼んだことがないということだから。
「なー、まな。ちゃんとゲーム持ってきた?
一緒に遊ぼうって昨日言ってたやつ」
「あ、うん、持ってきたよ」
陸も加わって、三人でモンスターを狩って遊んでいたら、あっという間に夜ご飯の時間になった。
さっき帰りに買った海鮮丼のお弁当を三人で食べる。
あっという間に一日目の夜は更けていく。
先にお風呂を頂いて、その後海、陸の順で入る。
海がお風呂に入っている間に、ドライヤーで髪の毛を陸が乾かしてくれたのが、恥ずかしかった。
髪が粗方乾いてきたときに、ふと彼の仕事机の方が目に入った。
パソコンのディスプレイの横に鎮座しているのは、まながあげたネコのあみぐるみ。
首には、赤いリボンが巻かれていた。
弾かれたように、まなが陸の顔を見つめる。
まなの視線の先に気がついた陸が、恥ずかしそうに答えてくれた。
「まなと別れてからも、ずっとあの子が……心の支えだったんだ。
俺のせいで彼氏に会えなくなったネコちゃんに謝りつつ、一緒に片割れがいない寂しさを共有してた気がして……。
…………引く?」
目を伏せて、自信のなさそうな声で陸が聞く。
まなはゆっくりと首を横に振った。
「……引かないよ」
鞄に隠すように入れていた、ネコのあみぐるみを取り出す。
こちらは首に黄色い鉢巻が結んである。
それに気がついた陸が、静かに息を飲んだ。
「……やっと、君も彼女に会えたね」
まながそう呟くと、そうだねと肯定が入ってくる。
きっと、彼女に会わせてあげたくてこの子を旅のパートナーに選んだのだろう。
まなはネコのあみぐるみを、隣へ並べてあげた。
変わらないはずの表情が、緩んだような気がした。
結局こたつで三人雑魚寝をしてしまい、翌朝を迎えた。
まなが目覚ましにしているスマートフォンのバイブで目覚めると、すぐ隣に陸が眠っていてどきりとした。
距離があまりにも近い。
これだけは知っているのが自分だけであって欲しいと、密かに願った。
眠る彼の手に指を絡めると、陸のまぶたが動き、そして開かれる。
「……ごめんね、起こしちゃったね」
まなが謝ると、ううん、と緩く首を振って陸が起き上がる。
「おはよう、まな。
ごめんね、ベッドにも案内せずにこたつで寝させちゃって」
「おはよう、陸くん。
さすがにベッドは使えないし、こたつ暖かいから嬉しかったよ」
絡めた手に少し力を込める。
言外に、あなたの隣で眠れて幸せ、という想いを乗せて。
それをきっと正しく拾って、陸の頬が緩んだ。
「朝ご飯、何か作ろうか。
留守にしていたから、あまり冷蔵庫に入っていないけど……ご飯炊いて味噌汁くらいなら作れるかな」
「あ、それなら私が作るよ。
泊めて貰っているわけだし、お料理は嫌じゃなかったらさせて貰えたら嬉しいな」
まなの申し出に、陸の顔が明るくほころぶ。
「いいの……?
実は、ちょっとだけ食べてみたいななんて思ってた」
「もちろん。
一応色々と学んでいるし、昔より更に上手く作れる自信あるよ」
陸が開けてくれた冷蔵庫の中を確認する。
使える材料は少ないが、それらを利用して何とかメニューを組み立てる。
だいたいが出来たところでこたつに並べた。
そのころには海も起きていて、キッチンに顔を出しては新妻だ!俺の嫁っ!とまなに絡もうとして陸に止められていた。
三人で食事を並べ、手を合わせて食べる。
食器洗いは海がしてくれ、まなは彼の洗ったお皿を拭く。
陸が二人ともありがとうと静かに後ろで感謝していた。
不思議な三人の生活が何だか楽しい。
「今日はどこか行きたいところ、希望ある?」
陸が尋ねてきたところで、海が問い返す。
「兄ちゃん、俺たち祝日までの一週間くらいいるつもりなんだけど……ここにいていいの?」
まなも、そっと陸を見つめる。
「もちろん、居てくれるのは嬉しいよ。
俺は五日から仕事だけど、その間海と観光する?」
「陸くん、本当にご迷惑じゃない……?」
「うん、俺は大丈夫。
逆に二人の方はいいのかな?
まなは、その……ご両親とか」
陸が迷惑と思っていないことを改めて確認してほっとする。
「うちの両親は大丈夫。
成人している大人だからってことと、海の名前出したら一発でおっけーって言われたよ」
まなが呟くと、なんで海?とちょっと不満げに海の方を見る。
「五年間の信頼がありますから。
まなのお父さんとは二十歳になったらお酒飲もうって約束していて、一緒に実際お酒飲んだ仲だしな!」
保坂家にすっかりなじんでいる海の様子は、まなもよく知っている。
「……俺は一度だけまなのお母さんにお会いしたことがあるけど、それっきりだもんな」
まなはいつのことだろうとちょっと首をひねる。
「……ほら、いつだったか、お姉さんがまなの傘を持って帰ってしまった雷雨の日。
学校まで迎えに来てくれたまなのお母さんが、俺まで家に送ってくれたことがあったよね」
言われて、確かに!と思い出す。
あの時陸は、遠慮して八王子駅まででいいと言っていたのだが、雷は危ないという母の言葉に押し切られて家まで送られた。
初めて見た浅瀬家の外観にドキドキしたのを思い出す。
「確かに、そう言われたら私は二人のご両親は知らないね。
海がうちに来ることは多かったけど、そっちにはお邪魔したことないもんね」
「普通の親だよ。
料理好きな母親と、海にそっくりな父親。
母はまなと同じ大学の出だったはず」
なるほど、先輩でしたか、とまなは納得する。
確かに、丁寧な卵焼き一つとっても料理に造形が深いのが頷けた。
「まなも母ちゃんと話してみたら案外盛り上がるかも?」
海が無邪気に笑うけど、まなには二人の……特に陸のお母さんと思うと緊張の方が大きい。
それを的確に理解して、陸も頷いた。
「俺も……まなのお父さんやお母さんと話そうと思ったら……絶対緊張して変になる自信があるよ……」
「えー。二人ともいい人だよ?」
海が無邪気にいう分、陸がうなだれる。
「お前がそう言うほど、俺はプレッシャーだ……」
二人の姿を見て、まなはふと既視感を覚えた。
陸の心が、手に取るように分かる。
――ああ、この人も、自分を“ハズレ”だと思っているんだ。
「陸くんは、誰がなんと言ったって、かっこいいよ。
私は、陸くんが好き」
はっきりと言い切ったまなの言葉に、陸がみるみる赤く染まる。
「あー、はいはい。
そういうのは二人きりのデートの時にしなよ。
今日は俺、兄ちゃんの家でゲームしてるからさ。
夜ご飯だけ、札幌の美味しいラーメンとか食べにいこうよ。
俺調べておくから、二人は今から楽しんでおいで」
海がこたつの中からひらりと手を振る。
今度は二人ともの顔が赤く染まる。
「海……せっかく北海道まできたのに、それでいいのか?」
陸が遠慮して尋ねるが、いいのいいのと軽く答える。
「俺の一番の目的は、まなが幸せなこと。
兄ちゃんが幸せだともっと嬉しい。
俺は五日の月曜日からまなと北海道を楽しむから、兄ちゃんは遠慮せずに今を楽しみなよ。
高校時代、遠慮ばっかしてぶっ壊れたんだから、もうそういうのナシ。
まなと自分を幸せにしてあげて」
海の言葉が、じんと胸に響く。
何度も彼に好きだと告白されているからこそ、軽く見える彼の言葉には見た目以上の重さがある。
「……ああ、ありがとう、海。
お前がいなかったら、俺たちの今はなかった」
まなも、陸の言葉に頷く。
「まぁたまたー。
兄ちゃんは、俺がいなくてもちゃんとまなを一人で幸せにできるよ。
だから、もう少し自分を信じようぜ?」
ばちん、と綺麗なウィンクをする海に、ふっと空気が和らぐ。
もう一度だけ陸がお礼をいうと、二人で出かける準備をして、ゆっくりと家の玄関を出た。
初めての北海道に、隣には陸。
まなの胸はずっとドキドキしっぱなしだ。
――そして海は、まな以上に浮かれていた。
「海、そのテンションで街歩くと転ける」
陸が兄らしく注意する姿が何だか新鮮だった。
この二人が兄弟だということは情報としては理解しているが、三人一緒にいる時間は今まではほとんど無かった。
あの同窓会の夜くらいなので、何だか改めて面白く観察してしまう。
「陸くん、すっかりこっちの人になっちゃったんだね」
まなの尊敬するような瞳の中に、ほんの少しの寂しさが混ざる。
陸は苦笑しつつ、そんなことないよと答える。
「俺もまだまだ歩くのは慣れなくて怖いし、運転なんて絶対無理だし、家の寒さは堪えるし……次の転勤は暖かい温暖な地方だといいなと思っているよ」
「でも、食べ物はおいしいし、人は温かいし、嫌いじゃない、だろ?」
海が寄り添うまなの反対側から陸に絡む。
海の言葉に、陸が目を細めて笑った。
「うん、みんないい人ばかりだよ。
初めての赴任先が環境としては厳しいけど、ここで良かったって何度も思ったよ」
「きっと陸くんが真面目に頑張っているからですよ」
まなが笑う。
陸はまた頬を赤くして、そうかな、とはにかんだ。
新千歳空港から電車に乗り、札幌へと向かう。
「そういえば、宿泊先とかは決まっているのか?
まさか、ホテル取れなくて二人同じ部屋とか言わないよな?」
陸の質問に、まなはどきりとした。
「んー……同じ部屋になるかもしれない」
海の答えも曖昧だ。
「はぁ?」
陸の語気が強くなる。
「というか、兄ちゃん泊めてくんない?
ホテルはさすがに取れなくて、まなとネカフェ行こっかって話してたところ」
「海、いきなりおうちにって……迷惑だよ。
陸くんは気にしないで……」
まなが遠慮がちに断ろうとしたところで、陸が静かに首を振る。
「迷惑じゃない。
むしろこっちに滞在中は俺の家以外に泊まらないで欲しい。
海も。
二人ともこっちに来るのにお金使っただろうし、これ以上無駄に使うことはない。
宿泊費もかからないし、俺としてもまなと居られる時間が多い方が嬉しいから……」
最後はやや小声になるのが、陸らしい。
まなは遠慮がちに頷いた。
「やった! 兄ちゃん大好きっ!」
海が陸にじゃれつき、陸が雪に足を取られて滑りかけた。
陸に案内されて到着した家は、小さな片流れ屋根のアパートの二階だった。
部屋の真ん中にはやや一人暮らしには大きめのこたつとテレビ。
「こたつだ!」
海が嬉しそうに真っ先に飛びついた。
シンプルな茶色い布団に包まれた途端に、彼の顔が蕩ける。
「……こたつ」
まなが意外そうに陸を見つめると、陸は頬を掻きながら呟く。
「……前に、まなが冬はこたつ最高って言ってたから。
うちには無かったから……密かに憧れていたんだよね」
陸がストーブをつけると、部屋がやっと暖まりだす。
北海道の家は暖かいなんて言うけれど、一人暮らしのおうちは普通に寒いんだなぁと思った。
「あ、陸くん、お手洗い借りてもいい?」
「もちろん。
玄関から一番近い扉がそうだよ」
トイレに入ると思わず息を飲んだ。
そっと置かれたさりげない芳香剤。
ほのかに香るゆず系の香りが、冬らしい。
暖かなふわふわのスリッパやトイレのカバーたちは茶色がベースなのに、黒ネコのシルエットがちょこんと付いているデザインで、それがネコ好きな陸っぽい。
過剰な装飾はないけれど、シンプルで暖かい空間。
やや縦に広くて、そこには足下用のヒーターが置いてあった。
人感センサーで人が居るときだけ温かい。
まさに、癒やしのトイレ。
トイレットペーパーもこだわっていて、ふわふわで切りやすい。
さすが、さすがです委員長――と、自身も高校三年の時は保健委員長だったにも関わらずその呼び名が飛び出しそうだった。
充実したトイレ時間を過ごした後、扉を閉めて室内へと戻る。
入れ違いに海がトイレへと立った。
室内に、意図せずにほんの二人きりの時間が出来る。
こたつに座る陸が、隣の場所の布団をそっと持ち上げる。
導かれるように、隣へと座った。
ぎゅっと、陸がまなの肩を抱いて引き寄せる。
陸の部屋というその場所だけで、心臓がどきどきしてどうにかなりそうなくらいだった。
陸からも、香水とは違うふんわりとした良い香りがした。
たぶん、柔軟剤。
今、こうしていることが信じられない。
つかの間の、沈黙。
世界が、今だけ二人きり。
トイレを流す音がして、二人はぱっと離れた。
――手だけを布団の下に残して。
その秘密のつなぎ方がいつかの体育祭を思い出して、少し懐かしかった。
海が興奮した様子で戻ってくる。
「兄ちゃん何あのトイレ!
最高過ぎてびっくりした!
さすが“トイレの貴公子”だなって思った!」
「おいっ!」
懐かしい呼び名に陸がすぐさま反応する。
「本当、凄いトイレを見せて貰ったよ。
さすが、委員長だなって思ったよ」
まなも同調する。
「お、“トイレの女王様”のお墨付きならバッチリだね!」
まなの二つ名に、陸が吹き出す。
「ちょ……なにそれ。
まな、“トイレの女王様”って言われてたの?」
陸の肩が震える。
まなの肩も違う意味で震えた。
「ち、ちが……」
「違わない。
しかもまなが呼ばれ始めたのって二年の終わりくらいだから、実際は委員長じゃないのに言われていたんだよ?
あの頃のまなと吉田はトイレに高校生活全振りしてんのかよってくらいトイレ中心だったね」
こたつを叩きながら笑う海に、まなもちょっとムキになって返す。
「もうっ!
陸くんの守ったトイレを、学校の平和を守りたかっただけだよ!」
海が笑いながらごめんと謝る。
「兄ちゃんトイレでこの物件選んだのかってちょっと思った。
この家のトイレって、普通のトイレよりちょっと縦が広いよね。
たぶん一畳分取ってある。
普通の一人暮らしの家のトイレって0.7畳くらいが多いから」
海が住環境の分野を好んで学んでいることもあり、構造的なことには詳しいようだ。
「気に入って貰えたなら何より。
そもそも、誰も呼んだことのない家だから、完全に自己満足の世界なんだけどね」
陸の言葉に、ほっとする。
彼はこの家に彼女を呼んだことがないということだから。
「なー、まな。ちゃんとゲーム持ってきた?
一緒に遊ぼうって昨日言ってたやつ」
「あ、うん、持ってきたよ」
陸も加わって、三人でモンスターを狩って遊んでいたら、あっという間に夜ご飯の時間になった。
さっき帰りに買った海鮮丼のお弁当を三人で食べる。
あっという間に一日目の夜は更けていく。
先にお風呂を頂いて、その後海、陸の順で入る。
海がお風呂に入っている間に、ドライヤーで髪の毛を陸が乾かしてくれたのが、恥ずかしかった。
髪が粗方乾いてきたときに、ふと彼の仕事机の方が目に入った。
パソコンのディスプレイの横に鎮座しているのは、まながあげたネコのあみぐるみ。
首には、赤いリボンが巻かれていた。
弾かれたように、まなが陸の顔を見つめる。
まなの視線の先に気がついた陸が、恥ずかしそうに答えてくれた。
「まなと別れてからも、ずっとあの子が……心の支えだったんだ。
俺のせいで彼氏に会えなくなったネコちゃんに謝りつつ、一緒に片割れがいない寂しさを共有してた気がして……。
…………引く?」
目を伏せて、自信のなさそうな声で陸が聞く。
まなはゆっくりと首を横に振った。
「……引かないよ」
鞄に隠すように入れていた、ネコのあみぐるみを取り出す。
こちらは首に黄色い鉢巻が結んである。
それに気がついた陸が、静かに息を飲んだ。
「……やっと、君も彼女に会えたね」
まながそう呟くと、そうだねと肯定が入ってくる。
きっと、彼女に会わせてあげたくてこの子を旅のパートナーに選んだのだろう。
まなはネコのあみぐるみを、隣へ並べてあげた。
変わらないはずの表情が、緩んだような気がした。
結局こたつで三人雑魚寝をしてしまい、翌朝を迎えた。
まなが目覚ましにしているスマートフォンのバイブで目覚めると、すぐ隣に陸が眠っていてどきりとした。
距離があまりにも近い。
これだけは知っているのが自分だけであって欲しいと、密かに願った。
眠る彼の手に指を絡めると、陸のまぶたが動き、そして開かれる。
「……ごめんね、起こしちゃったね」
まなが謝ると、ううん、と緩く首を振って陸が起き上がる。
「おはよう、まな。
ごめんね、ベッドにも案内せずにこたつで寝させちゃって」
「おはよう、陸くん。
さすがにベッドは使えないし、こたつ暖かいから嬉しかったよ」
絡めた手に少し力を込める。
言外に、あなたの隣で眠れて幸せ、という想いを乗せて。
それをきっと正しく拾って、陸の頬が緩んだ。
「朝ご飯、何か作ろうか。
留守にしていたから、あまり冷蔵庫に入っていないけど……ご飯炊いて味噌汁くらいなら作れるかな」
「あ、それなら私が作るよ。
泊めて貰っているわけだし、お料理は嫌じゃなかったらさせて貰えたら嬉しいな」
まなの申し出に、陸の顔が明るくほころぶ。
「いいの……?
実は、ちょっとだけ食べてみたいななんて思ってた」
「もちろん。
一応色々と学んでいるし、昔より更に上手く作れる自信あるよ」
陸が開けてくれた冷蔵庫の中を確認する。
使える材料は少ないが、それらを利用して何とかメニューを組み立てる。
だいたいが出来たところでこたつに並べた。
そのころには海も起きていて、キッチンに顔を出しては新妻だ!俺の嫁っ!とまなに絡もうとして陸に止められていた。
三人で食事を並べ、手を合わせて食べる。
食器洗いは海がしてくれ、まなは彼の洗ったお皿を拭く。
陸が二人ともありがとうと静かに後ろで感謝していた。
不思議な三人の生活が何だか楽しい。
「今日はどこか行きたいところ、希望ある?」
陸が尋ねてきたところで、海が問い返す。
「兄ちゃん、俺たち祝日までの一週間くらいいるつもりなんだけど……ここにいていいの?」
まなも、そっと陸を見つめる。
「もちろん、居てくれるのは嬉しいよ。
俺は五日から仕事だけど、その間海と観光する?」
「陸くん、本当にご迷惑じゃない……?」
「うん、俺は大丈夫。
逆に二人の方はいいのかな?
まなは、その……ご両親とか」
陸が迷惑と思っていないことを改めて確認してほっとする。
「うちの両親は大丈夫。
成人している大人だからってことと、海の名前出したら一発でおっけーって言われたよ」
まなが呟くと、なんで海?とちょっと不満げに海の方を見る。
「五年間の信頼がありますから。
まなのお父さんとは二十歳になったらお酒飲もうって約束していて、一緒に実際お酒飲んだ仲だしな!」
保坂家にすっかりなじんでいる海の様子は、まなもよく知っている。
「……俺は一度だけまなのお母さんにお会いしたことがあるけど、それっきりだもんな」
まなはいつのことだろうとちょっと首をひねる。
「……ほら、いつだったか、お姉さんがまなの傘を持って帰ってしまった雷雨の日。
学校まで迎えに来てくれたまなのお母さんが、俺まで家に送ってくれたことがあったよね」
言われて、確かに!と思い出す。
あの時陸は、遠慮して八王子駅まででいいと言っていたのだが、雷は危ないという母の言葉に押し切られて家まで送られた。
初めて見た浅瀬家の外観にドキドキしたのを思い出す。
「確かに、そう言われたら私は二人のご両親は知らないね。
海がうちに来ることは多かったけど、そっちにはお邪魔したことないもんね」
「普通の親だよ。
料理好きな母親と、海にそっくりな父親。
母はまなと同じ大学の出だったはず」
なるほど、先輩でしたか、とまなは納得する。
確かに、丁寧な卵焼き一つとっても料理に造形が深いのが頷けた。
「まなも母ちゃんと話してみたら案外盛り上がるかも?」
海が無邪気に笑うけど、まなには二人の……特に陸のお母さんと思うと緊張の方が大きい。
それを的確に理解して、陸も頷いた。
「俺も……まなのお父さんやお母さんと話そうと思ったら……絶対緊張して変になる自信があるよ……」
「えー。二人ともいい人だよ?」
海が無邪気にいう分、陸がうなだれる。
「お前がそう言うほど、俺はプレッシャーだ……」
二人の姿を見て、まなはふと既視感を覚えた。
陸の心が、手に取るように分かる。
――ああ、この人も、自分を“ハズレ”だと思っているんだ。
「陸くんは、誰がなんと言ったって、かっこいいよ。
私は、陸くんが好き」
はっきりと言い切ったまなの言葉に、陸がみるみる赤く染まる。
「あー、はいはい。
そういうのは二人きりのデートの時にしなよ。
今日は俺、兄ちゃんの家でゲームしてるからさ。
夜ご飯だけ、札幌の美味しいラーメンとか食べにいこうよ。
俺調べておくから、二人は今から楽しんでおいで」
海がこたつの中からひらりと手を振る。
今度は二人ともの顔が赤く染まる。
「海……せっかく北海道まできたのに、それでいいのか?」
陸が遠慮して尋ねるが、いいのいいのと軽く答える。
「俺の一番の目的は、まなが幸せなこと。
兄ちゃんが幸せだともっと嬉しい。
俺は五日の月曜日からまなと北海道を楽しむから、兄ちゃんは遠慮せずに今を楽しみなよ。
高校時代、遠慮ばっかしてぶっ壊れたんだから、もうそういうのナシ。
まなと自分を幸せにしてあげて」
海の言葉が、じんと胸に響く。
何度も彼に好きだと告白されているからこそ、軽く見える彼の言葉には見た目以上の重さがある。
「……ああ、ありがとう、海。
お前がいなかったら、俺たちの今はなかった」
まなも、陸の言葉に頷く。
「まぁたまたー。
兄ちゃんは、俺がいなくてもちゃんとまなを一人で幸せにできるよ。
だから、もう少し自分を信じようぜ?」
ばちん、と綺麗なウィンクをする海に、ふっと空気が和らぐ。
もう一度だけ陸がお礼をいうと、二人で出かける準備をして、ゆっくりと家の玄関を出た。