“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした
それから、季節は春を過ぎ、梅雨へと差し掛かろうとしていた。
保健委員の仕事にも大分慣れてきて、トイレの巡回は、かなりスムーズになっていた。
次は多目的棟への移動、というところで休憩しない?と陸が提案した。
まなはこくりと頷く。
「先輩って部活動とかされてます?」
「いや、帰宅部。弟にはトイレ部ってからかわれるけど」
陸の言い方に、まなは”トイレの貴公子”の単語を思い出して吹き出した。
笑ったら悪いと思いながらも肩が震える。
「もう、笑いすぎ」
「ご、ごめんなさい!」
陸がいじけているような表情をするから、ますます笑いが止まらなかった。

「トイレネタが好きなまなに一つ質問してもいい?」
「なんですか、それ!」
「トイレットペーパーの端、三角に折るやつ。
 あれ、まなはどう思う?」
「うーん、実はあまり、好きじゃなかったりします。
 毎回入るたびに三角にする人もいますけど、他人がベタベタ触ったトイレットペーパーと思うと少し嫌で」
「だよね!?」
珍しく陸が身を乗り出して乗ってくる。
よっぽど思うことがあるのだろう、その様子にまた笑った。
「まぁ、巻き取ってしまって、その部分直接は使わないんだけど、それでも何か嫌」
「わかります、私も使わないし」
「もっと嫌なのは、男子トイレあるあるなんだけど、ビリビリに破れているやつとかね」
「それは……」
男子トイレは知らないけれど、想像はついた。
「男って、なんであんながさつなんだろうな。
 トイレの後に手を洗わないやつとかも普通にいて、正直ぞっとする」
「ひぇ……っ。男子とは絶対手を繋ぎたくない」
「もちろん俺はしっかり洗う」
陸が手を広げて見せてくる。
男性らしく、筋張っていて長い指先は爪まで綺麗に整っていた。
「先輩、爪綺麗ですね」
思わず、手を取って眺めてしまう。
少しひんやりとした指先が、かすかに震えた。
見上げてみると、陸の顔は耳まで真っ赤だった。
「と、トイレ! 次のトイレ行きましょう!」
照れ隠しのように慌てて段ボールの中からバラのトイレットペーパーをいくつか取り出して抱える。
そんなまなの様子に、陸は少し視線をそらして目が合わせられないまま、箱を持ち上げた。

多目的棟への渡り廊下を歩きながら、まなが思い出したように声を掛ける。
「そうだ、先輩。
 実は私、茶道部なんです。
 5月末に野点があるんですけど、よかったら参加されませんか?」
「藤棚の下でやるやつだね。
 見たことあるけど、俺みたいな作法知らない人間が行っても大丈夫?」
多目的棟のトイレに着き、段ボールを下ろす。
残りは大分少なくなってきて、あと少しだ。
「大丈夫です、お客様に恥をかかせるような感じじゃないですよ。
 作法はプリントに書いて渡しますし、気軽な形式なので大丈夫です」
「なら、まなの点てたお茶を出してくれるのなら、行こうかな」
「はい、待ってますね!
 お友だちとかの分も渡せますけど、何枚要ります?」
「なら、二枚。
 一人はちょっと勇気がいる……」
「ふふ、わかりました!」

定期入れを出して、そこに挟んでいたチケットを二枚取り出すと、陸に手渡した。
陸も慌てて受け取り、生徒手帳の間に挟む。
「その定期入れ、まなのアプリのアイコンのやつ」
「あ、わかりました? お気に入りなんです」
赤いレザーに黒いリボン、縁にレースのガーリーなデザイン。
「定期入れをアイコンにしている人あまり見たことないから、ちょっとまならしいって思った」
「みんなに言われます。
 でも、定期って大人になったみたいでかっこいいなって。
 内緒ですよ?」
その言い方がどこか子どもっぽくはあったけれど、まならしさだった。

陸はトイレットペーパーをいくつか抱えるとトイレへ向かう。
まなも、同じように両手に抱えて、トイレへと向かった。


5月末。
過ごしやすい気候と、爽やかな風が藤の花を揺らす。
青空に、薄紫と和傘の赤が綺麗なコントラストを描いていた。

「まな!」
声に振り向くと、典伽とたかちゃんの姿。
その後ろに見慣れた濃茶の髪の毛が見えた。
一緒に、彼より背の高い一年の男子の姿も見える。
まなの視線を追いかけて、典伽とたかちゃんが振り返る。

「改めて、ご招待ありがとう。
 連れてこれたのががさつな弟だけでごめん」
「心配するなって! ちゃんとやるから!」
べしべしと兄をはたく弟の姿に、皆が笑う。
仲の良い兄弟なんだろうな、とそのやりとりで伝わってきた。
その言葉通り、弟は意外としっかりとした作法でお茶を飲む。
まなは、その弟よりも陸の姿のほうから目が離せなかった。
自分の点てたお茶を、丁寧な所作で味わってくれている。
誰よりも魅力的に見えてしまうその姿に、まなの胸が高鳴る。
まなの視線に気が付いたのか、一瞬だけ、目が合った。
ふわっとやさしく微笑まれ、更に鼓動が跳ねあがる。
なんとなく、気が付いてしまった。

――私、彼に惹かれ始めている。


六月に入ると、本格的な梅雨空の日が続いた。
トイレットペーパーの補充が終わっても、梅雨の雨は止む気配を見せなかった。
それどころか、雷鳴まで聞こえてくる。
まなは陸と並んで昇降口まで来た時に、傘立てに自分の傘がないことに気が付いた。
「嘘……でしょ」
しっかりと目印も名前もあるのに……と思った瞬間、アプリの着信音が鳴った。

『Nao:傘借りるねっ!ありがとう助かった!』

「…………」
まながスマートフォンを見ながら動かなくなっているのを見て、心配そうに陸が声を掛ける。
「何か、あったの?」
「……先輩」
まなが涙目で陸を見上げる。

「傘、姉が……持って帰っちゃいました」

外では、とうとう轟音と共に稲妻が鋭く走り抜けた。
ザァーっと激しく雨がコンクリートを叩きつける。
数メートル先さえ見えない激しい雨に、陸は取り出したばかりの靴をもう一度持ち上げる。

「天気が落ち着くまで、少し教室で時間潰していこうか。
 少し落ち着いたら、傘、一緒に入っていこう」
「ごめんなさい……ご迷惑をおかけして」
涙目のまま、まなが頭を下げようとする。
その様子を、陸はちいさく首を振って止めた。
「迷惑じゃないよ。
 まなともう少し話したいと思っていたんだ」
陸が控えめに笑う。
まなには、それが自分に気を遣わせないためのやさしさから出た言葉であることはわかっていた。
それでも、嬉しかった。

陸に連れてこられたのは、三年生の教室だった。
入るのはもちろん初めて。
同じ作りの教室なのに、どこか違って見えた。
窓際の席に、陸が座る。
まなはその前の席に「お邪魔します」と小さく呟いてから座った。
窓の外は雨が激しく降っている。
時々稲妻と轟音が響く中、それでも陸と二人というだけで心強かった。
まなが鞄からいくつかの飴とお菓子を取り出した。
机の上には、陸が買ってくれたホットコーヒーの缶も並ぶ。
「それでは先輩、いただきます」
「うん、いただきます」
缶をそっと握る。
指先がじんわりと温まり、心がほどけていく。
コーヒーのぬくもりが、肌寒さを拭っていった。
「先輩、コアラのお菓子食べます?」
まなが箱を開けて差し出す。
陸の広げた手のひらに、何匹かのコアラを象ったチョコレート菓子が転がり落ちた。
「懐かしいね。
 つい、このお菓子食べるときにはコアラの絵を確認してしまわない?」
「しますします。
 あ、あった!」
まなは自分の手のひらから、眉毛が付いたコアラの絵のお菓子を陸の手のひらに乗せる。
「え、いいよ! まなのお菓子なのに」
「受験のお守りです。
 幸せの眉毛コアラ、しっかり噛みしめて食べて合格してください」
「……いや、なんかそれ言い方がかわいそう」
困った表情の陸が可愛くて、まなは笑ってしまう。
一緒にいればいるほど、彼に惹かれる理由ができていく。
「さぁ、気にせず受験の糧にしてください」
それでも少し戸惑う様子の陸に、まながつまんで口元へ運ぶ。
「ほら、先輩」
陸の顔が赤く染まり、目が泳ぐ。
覚悟を決めてしまえば、まなも恥ずかしいけれどこのくらいはできる、なんて考えていたのが伝わってしまったのだろう。
まなの手を陸がつかんで、つまんでいたコアラを自分の口へと入れた。
その予想外の出来事に、まなが固まる。
「これで、たぶん、受かる……と思う」
カリッとお菓子を咀嚼しながら、陸の顔は、首元まで真っ赤だった。

(き、気のせいかな……一瞬だけ、指が……唇に触れたような……)

元は自分が仕掛けたのに、思わぬ反撃を食らった。
本人にもダメージは絶大のようだが。
稲妻が、また走った。
遅れて鳴り響く雷鳴よりも、鼓動の方がずっとうるさい。
「まな」
陸のまっすぐな目がこちらを見ていた。
何か決意を固めたような、そんな目で。
「俺……」
陸が何かを言おうとした、そのタイミングで机の上に置いていたまなのスマートフォンからバイブの音が響き渡り、着信を伝える。

『着信:お母さん』

「電話、出て大丈夫だよ」
陸に促されて、通話ボタンをタップする。

『もしもし、まな!? あんた大丈夫??』
母の心配そうな声に、ちょっと驚きつつも、どうしたの?と返す。
『どうしたもこうしたも、玄関にまなの傘はあるのに、まながいない。
 だからなおを問い詰めたら、勝手にあなたの傘を借りてきたって言うじゃない!?
 なおはしっかり叱っておいたから。
 まなはどこにいるの?』
「まだ学校。委員会活動のあと、先輩が傘に入れてくれるって。
 でも、雷まで鳴ってきちゃったから、収まるまで教室にいたの」
『今もう車で、学校まで迎えに行っているところだから待ってなさい。
 その先輩も送っていくから、待っていてもらうのよ?
 雷は危ないからね?』
「わかった、伝えておくね」

通話を切ると、会話が少し聞こえていたのか、陸が申し訳ないし自分で帰るよ、と告げる。
だが、母の言っていたように雷雨の中帰るのは危ない。
それに、中間テストも近いのに、雨に濡れて風邪でも引いたら一大事である。
まなは首を振ってそれを断った。
「先輩、何か言いかけていませんでした?」
「あ……いや……」
陸が手を握ったり開いたりしながら、少し戸惑いがちに、だが、しっかりとした意思を持った声音で告げた。

「”陸”って、呼んで欲しいなって……そう言おうと思ったんだ」

「え……?」

予想外の言葉に、まなが目をまるくして陸を見る。
心臓が、早鐘のようで、倒れそう。
陸は、目を逸らさなかった。
「俺はまなのこと、まなって呼んでいるのに。
 まなはずっと、”先輩”って呼ぶから……。
 本当は、名前で呼んでくれたらいいのになって思ってた」
「……いいの?」
「……いいに決まってる」
陸が、一つ息を吸って、それから、もう一度はっきりと伝えた。

「まなには、名前で呼ばれたい」
まなも、深呼吸をした。
どきどきがうるさくて、呼吸の仕方を忘れそうだったから。

「……り、陸くん」

小さいけど、はっきりとその名前を口にしたとき、陸が本当に嬉しそうに笑って、「ありがとう」と言った。
きっと、もう手遅れだ。
惹かれているどころじゃない。

(私は、陸くんのことが、好きなんだ……)


一学期の間、空や花を見るたび「陸くんに送りたい」が増えた。
でも、入力しては消した。
相手は受験生だし、彼も用事のある時にしか連絡はしてこない。
送りたい言葉だけが、心の中に未送信で積もっていく。

一学期最後の委員会活動が終わり、終業式の日。
体育館の中で、クラスメイトと話す彼を見かけた。
三年生と一年生の本来の距離は、こんなにも遠かったんだと、じわりと胸にもやが広がった。

――夏休みの間、陸くんに会えない。

直接話していると、あんなにも近くに彼を感じるのに。
今は「お疲れ様でした」の一言すら送れないメッセージの相手。
その事実が、そっと胸を締め付けていた。
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