毒を盛られた令嬢は、冷酷皇帝に溺愛される

第1章 虐げられた令嬢

薄暗い小部屋で、エリアナは目を覚ました。
灰色の光が、窓の隙間から差し込んでいる。使用人たちが使う質素な寝台。毛布は薄く、冬の冷気が部屋を満たしていた。枕元に置いた水差しの水は、凍る寸前まで冷えている。
エリアナは体を起こし、窓の外を見た。
庭の向こうに、本館の豪華な建物が聳え立っている。朝日を浴びて輝く白い壁、色とりどりのステンドグラス。侯爵家の威光を示すかのような、荘厳な佇まい。あそこには、継母マルグリットと異母妹イザベラが暮らしている。暖炉が燃え、絨毯が敷かれ、豪華な食事が並ぶ世界。
エリアナの部屋は、その対極にあった。
壁には染みが浮き、床は軋む。家具は古びた机と椅子、そして寝台だけ。侯爵家の令嬢とは名ばかりで、実質は使用人以下の扱い。それが、庶子として生まれたエリアナの現実だった。
鏡台の前に座り、自分の顔を映す。
地味な茶色の髪、くすんだ灰色の瞳。顔立ちは整っているが、華やかさとは無縁だった。継母とイザベラのような、人目を引く美しさはない。エリアナは自分の容姿を、ずっとそう思ってきた。
指先が、鏡の縁をなぞる。
その瞬間、頭の中に映像が閃いた。
白い部屋。機械の音。試験管を手にした自分。いや、自分ではない。誰か別の人間。だが確かに、自分の記憶のように感じる。化学式が脳裏を駆け巡り、薬品の名前が口の中で溶ける。
エリアナは目を閉じた。
この感覚は、幼い頃から時折訪れる。夢のような、幻のような、曖昧な記憶。まるで別の人生を生きていたかのような、不思議な知識。だがそれが何を意味するのか、エリアナにはわからなかった。
鐘の音が、朝食の時間を告げる。
エリアナは立ち上がり、質素な灰色のドレスに着替えた。

食堂に向かう廊下は、長く冷たい。
使用人たちが忙しく行き交うが、誰もエリアナに挨拶はしない。目を逸らし、足早に通り過ぎていく。継母の顔色を窺っているのだ。エリアナに親切にすれば、自分たちが罰を受ける。それが、この屋敷の掟だった。
食堂の扉を開ける。
豪華なシャンデリアの下、長いテーブルが置かれている。上座には継母マルグリットが座り、その隣にイザベラ。二人の前には、焼きたてのパン、バター、ジャム、温かいスープ、果物が並んでいた。甘い香りが部屋を満たしている。
エリアナの席は、テーブルの端。
そこに置かれていたのは、冷え切った粥だけだった。
「おはようございます、お母様。イザベラ」
エリアナは丁寧に頭を下げた。
継母は冷ややかな視線を向けるだけで、返事はしない。豪華な紫のドレスを纏い、宝石を身につけたその姿は、まさに侯爵夫人そのものだった。金色の髪を優雅に結い上げ、化粧は完璧。だがその美しい顔には、温かみのかけらもない。
イザベラは、クスクスと笑った。
「まあ、お姉様。今日もお元気そうで何よりですわ」
甲高い声が、エリアナの耳に突き刺さる。
イザベラは20歳。エリアナより2つ年下だが、その美貌は誰もが認めるものだった。金色の巻き毛、青い瞳、薔薇色の頬。華やかなピンクのドレスが、その美しさを一層引き立てている。
エリアナは静かに席につき、冷えた粥をスプーンですくった。
「お姉様」
イザベラが、わざとらしく声をかける。
「王太子様との婚約は、どうかしら? 私には想像もつかないわ。あんなに素敵な殿下と、お姉様が並ぶなんて」
言葉の裏に、嘲笑が滲んでいる。
エリアナは表情を変えずに、粥を口に運んだ。味はしない。ただ冷たく、喉を通るだけ。
「イザベラ、お姉様に失礼よ」
継母が言った。だが、その口調には叱責ではなく、むしろ楽しんでいるような響きがある。
「エリアナ、身の程を知りなさい。王太子殿下との婚約は、亡き侯爵様が無理を押して取り付けたものです。貴女がその資格があるとは、誰も思っていませんよ」
冷たい言葉が、エリアナの胸に突き刺さる。
だが、エリアナは動じなかった。
感情を殺す。それが、この2年間で身につけた術だった。父が亡くなってから、エリアナの立場は一変した。唯一の味方を失い、継母とイザベラの好きなように扱われる日々。だが、エリアナは耐えてきた。いつか、この状況が変わる日を信じて。
「はい、お母様。肝に銘じます」
エリアナは静かに答え、粥を食べ続けた。
イザベラがまた笑う。継母が満足そうに紅茶を啜る。
朝食は、いつものように屈辱と共に終わった。

屋敷の裏手に、小さな薬草園がある。
かつて父が大切にしていた場所。だが今は荒れ果て、雑草が生い茂っている。誰も手入れをしない、忘れられた庭。
エリアナは、ここに通っていた。
籠を手に、薬草の間を歩く。カモミール、ラベンダー、セージ。それぞれの香りが、エリアナの心を少しだけ癒す。膝をつき、丁寧に葉を摘む。土の感触が、手のひらに伝わる。
ふと、頭の中に知識が流れ込んできた。
カモミールは鎮静作用。ラベンダーは消毒。セージは抗菌。それだけではない。化学式が浮かび、分子構造が見える。これとこれを組み合わせれば、解毒剤になる。この比率で煎じれば、効果が最大化する。
エリアナの手が、自然に動く。
薬草を選び、組み合わせ、調合する。まるで何年も前からやっていたかのように。だがエリアナは、薬学など学んだことがない。この知識は、どこから来るのか。
「この知識は、どこから……?」
エリアナは呟いた。
答えは、ない。
ただ、夢のように曖昧な記憶の中に、白い部屋と薬品の匂いが残っているだけ。
籠に薬草を入れ、エリアナは立ち上がった。
庭の奥に、小さな墓石がある。
父の墓。
エリアナは墓前に膝をつき、手を合わせた。
「お父様」
風が、エリアナの髪を撫でる。
「私は、何者なのでしょう。この知識は、この記憶は、一体何なのですか」
静寂だけが、答える。
父は、もういない。2年前、突然の病で亡くなった。エリアナを愛してくれた、唯一の家族。その死から、エリアナの地獄が始まった。
「お父様、どうか見守っていてください」
エリアナは立ち上がり、薬草園を後にした。

午後、突然の呼び出しがあった。
「エリアナ様、応接間にお越しください」
使用人が、慌てた様子で告げる。
エリアナは胸騒ぎを覚えながらも、応接間へ向かった。
扉を開けると、そこには4人の人物がいた。
上座に座る王太子アレク。金色の髪、端正な顔立ち、王族らしい威厳。その隣には継母マルグリットとイザベラ。そして、執事が一人。
全員が、エリアナを見ていた。
「エリアナ、入りなさい」
継母が冷たく言う。
エリアナは部屋に入り、扉を閉めた。心臓が、早鐘を打つ。
王太子アレクが口を開いた。
「エリアナ嬢、単刀直入に言おう。私は、君との婚約を破棄する」
冷淡な声が、部屋に響く。
「新たな婚約者は、イザベラ嬢だ」
エリアナの体が、固まった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
エリアナは、どうにか声を絞り出した。
アレクは、まるで面倒そうに答える。
「君には華がない。王太子妃として、ふさわしくないと判断した」
その言葉に、悪意はない。ただ事実を述べているだけ。それが、余計に残酷だった。
イザベラが、勝ち誇ったように微笑む。
継母は、満足そうに紅茶を啜る。
エリアナは、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。だが、表情は変えない。感情を殺す。それしか、エリアナにはできなかった。
「……承知しました」
エリアナの声は、平静を保っていた。
アレクは頷き、立ち上がる。
「では、これにて」
王太子は、イザベラに手を差し伸べた。イザベラは嬉しそうにその手を取り、二人は部屋を出て行く。
エリアナは、その背中を見送った。
継母が、冷たく言う。
「エリアナ、これが貴女の現実よ。身の程を知ることね」
そして、継母もまた部屋を出て行った。
一人残されたエリアナは、その場に立ち尽くした。
拳が、震えていた。
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