シトラスの魔法が解けるまで

シトラスの審判

​放課後。チャイムと同時に、私は教室を飛び出した。
向かうのは、番長が待つ場所。
冴は吹奏楽部の急ぎの用事でこれない。
​心臓の音が耳の奥でうるさい。
「瀬戸、なんて言ったんだろう」
「やっぱり私のこと、嫌いなのかな」
一人ぼっちの廊下に響く独り言。
​不安で足がすくみそうになるけど、もう頼んじゃったんだから、行くしかない。
​番長……!
​角を曲がった先、約束の場所に番長が立っていた。
いつも通りの、クールで堂々とした姿。
私の顔を見ると、番長は少しだけ眉を動かし、手を振ってくれた。
​「お、藤井」
「番長……!」
​駆け寄った私の前で、番長は相変わらずクールに腕を組んで立っていた。
心臓が口から出そう。私は息を切らしながら、番長の言葉を待った。どんな結果でも受け止めなきゃ。
​「……あいつに聞いてきたぞ」
​番長が、低くて落ち着いた声で切り出した。
私はギュッと拳を握りしめる。『二度としゃべりたくない。』そんな最悪の答えを覚悟したその瞬間。
​「『別に、怒ってない』……だとさ」
​「…………へ!?」
​思わず、変な声が出た。
あんなに悩んで、あんなに夜も眠れなくて、1年以上も引きずって小説にしたのに。
「怒ってない」?
そんなわけないだろう。彼に会いたくないから、2組に行かないようにしたり。図書室に行く時間をずらしたり。私の一年間は何だった?
​「……嘘、ですよね……?」
​私は番長の顔をまじまじと見つめたまま、言葉を失っていた。
あんなに、あんなに怖かった。この一年間、私の心はあの日の後悔に縛られて、瀬戸と目が合うたびに「まだ怒っているんだ」と勝手に決めつけて、震えていたのに。
​「あいつが嘘ついてどうすんだよ、藤井」
​番長は呆れたように肩をすくめて、窓の外の校庭に視線をやった。
​「あいつ、お前の名前を出した時、キョトンとしてたぞ。『怒ってる? なんで?』って。……マジで、微塵も気にしてる様子はなかった」
​「でも、番長……。私、本当に最低なことを言ったんです。自分でも許せないくらい……」
​「いいか、藤井。あいつはあぁ見えて、怒る時は本気で怒る奴だ」
​番長は腕を組み直し、少し低い声で続けた。
​「実はさ、小学校の時、私があいつを怒らせたことがあってな。理由はもう忘れたけど……あいつ、一週間も私と口をきいてくれなかったんだぞ。今は普通に友達だけどな。あいつ本のチョイスがいいんだよな。ま、とにかくあいつが一度『怒った』ら、そんなもんじゃ済まない」
​番長が私を真っ直ぐに見据える。その強い瞳には、嘘偽りなんてなかった。
​「そのあいつが『怒ってない』って言うんだ。それは、本当にお前のことを許してる……っていうより、もう終わったこととして消化してるってことだよ。藤井、お前が一人で抱えてきたその『重荷』は、もう下ろしていいんだ」
​「…………っ」
​番長を1週間も無視するような奴が、私には「怒ってない」と言った。
番長の実体験が、私の心に深く刺さる。
あんなに重かった後悔が、番長の言葉によって、形を失ってサラサラと崩れ落ちていくような感覚がした。

​「……そっか。怒ってない、んだ」
​呟いた言葉が、冷たい廊下の空気に溶けていく。
あんなに怖かった事実は意外なほどあっさりと上書きされたけれど、胸の奥にある「気まずさ」は、しつこい霧のようにまだ晴れてはくれなかった。
​「……でも、よかったです。本当に」
​私は番長に向き直り、深く、深く頭を下げた。
​「番長、本当にありがとうございました。……自分じゃ、一生聞けなかったから」
​「おぅ。……まあ、いつまでもそんな顔してんな、藤井。お前らしくないぞ」
​番長はそう言って、私の肩をポンと一度だけ叩くと、「じゃあな」と短く言い残して歩き出した。本当にかっこいい人だなとつくづく思う。
​その背中を見送りながら、私は一人、大きく息を吐く。
まだ、瀬戸と普通に話せる自信なんてない。
廊下ですれ違えば、また反射的に目を逸らしてしまうかもしれない。
​でも、
「怒ってない」。その言葉をお守りにして、私はようやく、この長い放課後を終えることができそうだった。
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