シトラスの魔法が解けるまで
シトラスの境界
翌朝。教室に入って真っ先に目に入ったのは、瀬戸の椅子の向きだった。
いつもなら、彼は椅子をくるりと私の方へ向けて、座るのを待っているかのように話しかけてくれるのに。その日の彼の椅子は、頑なに前を向いたまま、一度もこちらを向くことはなかった。
(……謝らなきゃ。謝らなきゃいけないのに)
喉まで出かかった言葉が、冷たい空気で凍りつく。
一度だけ、勇気を振り絞って声をかけようとしたけれど、彼は「何?」と聞き返しただけだった。あの日の冬空と同じくらい冷たい瞳。その一言で、私の心は完全にシャットアウトされてしまった。
その日から何日かたち、もう冬も終わりそうだな。
そんな現実逃避のようなことを考えながら、美術部の課題の画用紙とにらめっこしていた、その時。
「花梨さん、やっぱ綺麗だよな」
!?
耳に飛び込んできた名前に、心臓が跳ねた。「花梨」って言った?
焦って隣の瀬戸の方を見ると、そこには瀬戸と同じテニス部の中井くんがいた。花梨の名前を出したのは、彼らしい。
「名前出すな! って言ってんだろ!」
瀬戸が焦ったように中井くんを制止する。
……どこか、照れてる?
自分はあんなに冷たく突き放されたのに、その名前一つで表情を変える彼を見て、また胸の奥がチリチリと焼ける。ほぼ振られたに等しいくせに、そんな彼を「可愛らしい」と思ってしまう自分が一番、馬鹿げている。
「なになに? 花梨ちゃんの話ー?」
瀬戸の、私の逆隣の席に座る里紗が身を乗り出してきた。
「え、里紗も花梨のこと知ってるの……?」
衝撃だった。
幼馴染の私だけが、何も知らなかったんだ。
どうして? なんで私には教えてくれなかったの? 仲良しの里紗まで知っている名前を、私は今日初めて聞いた。
私は黙って画用紙を見つめ直した。
心の中に、黒いインクでメモをする。
(あとで、里紗に聞いてみよう。……絶対に)
瀬戸が席を立つのを待って、私は心臓の鼓動を抑えながら里紗の席へ向かった。
「……ねえ……里紗」
「ん? なあに、莉奈。改まって」
里紗はいつも通り、明るい笑顔で振り向いた。
「さっき中井くんが言ってた……『花梨』さんって、誰のこと? 瀬戸の……好きな人なの?」
私の問いかけに、里紗の表情がパッと明るくなった。
「あぁ、花梨ちゃんね! それはさ、――」
里紗が答えを口にしようとした、その時。
「おい、佐々木」
背後から、低くて鋭い声が響いた。
戻ってきた瀬戸だった。彼はいつになく険しい表情で、里紗を真っ直ぐに見据えている。
「あ、瀬戸」
「それ以上、喋るなよ」
「えー、でも莉奈が気にしてるし……」
「いいから。……こいつには、まだ教えなくていい」
瀬戸の言葉に、里紗がピリッとした空気を感じ取ったのか、口をギュッと結んだ。
「……ごめん、莉奈。瀬戸がこう言うなら、私からは言えないや」
瀬戸は私と目を合わせようともせず、自分の席の椅子をガタンと鳴らして座った。
相変わらず、彼からはシトラスの香りがしている。あんなに大好きだった匂い。でも今のその香りは、私と彼を隔てる高い壁の匂いにしか感じられなかった。
(……なんで? どうして私にだけ教えてくれないの?)
「教えなくていい」という瀬戸の言葉が、昨日の「関係ないだろ」という拒絶に重なって、胸の奥がズキズキと痛む。
「花梨」という存在が、私と彼の間に埋められない溝を作っていく。
いつもなら、彼は椅子をくるりと私の方へ向けて、座るのを待っているかのように話しかけてくれるのに。その日の彼の椅子は、頑なに前を向いたまま、一度もこちらを向くことはなかった。
(……謝らなきゃ。謝らなきゃいけないのに)
喉まで出かかった言葉が、冷たい空気で凍りつく。
一度だけ、勇気を振り絞って声をかけようとしたけれど、彼は「何?」と聞き返しただけだった。あの日の冬空と同じくらい冷たい瞳。その一言で、私の心は完全にシャットアウトされてしまった。
その日から何日かたち、もう冬も終わりそうだな。
そんな現実逃避のようなことを考えながら、美術部の課題の画用紙とにらめっこしていた、その時。
「花梨さん、やっぱ綺麗だよな」
!?
耳に飛び込んできた名前に、心臓が跳ねた。「花梨」って言った?
焦って隣の瀬戸の方を見ると、そこには瀬戸と同じテニス部の中井くんがいた。花梨の名前を出したのは、彼らしい。
「名前出すな! って言ってんだろ!」
瀬戸が焦ったように中井くんを制止する。
……どこか、照れてる?
自分はあんなに冷たく突き放されたのに、その名前一つで表情を変える彼を見て、また胸の奥がチリチリと焼ける。ほぼ振られたに等しいくせに、そんな彼を「可愛らしい」と思ってしまう自分が一番、馬鹿げている。
「なになに? 花梨ちゃんの話ー?」
瀬戸の、私の逆隣の席に座る里紗が身を乗り出してきた。
「え、里紗も花梨のこと知ってるの……?」
衝撃だった。
幼馴染の私だけが、何も知らなかったんだ。
どうして? なんで私には教えてくれなかったの? 仲良しの里紗まで知っている名前を、私は今日初めて聞いた。
私は黙って画用紙を見つめ直した。
心の中に、黒いインクでメモをする。
(あとで、里紗に聞いてみよう。……絶対に)
瀬戸が席を立つのを待って、私は心臓の鼓動を抑えながら里紗の席へ向かった。
「……ねえ……里紗」
「ん? なあに、莉奈。改まって」
里紗はいつも通り、明るい笑顔で振り向いた。
「さっき中井くんが言ってた……『花梨』さんって、誰のこと? 瀬戸の……好きな人なの?」
私の問いかけに、里紗の表情がパッと明るくなった。
「あぁ、花梨ちゃんね! それはさ、――」
里紗が答えを口にしようとした、その時。
「おい、佐々木」
背後から、低くて鋭い声が響いた。
戻ってきた瀬戸だった。彼はいつになく険しい表情で、里紗を真っ直ぐに見据えている。
「あ、瀬戸」
「それ以上、喋るなよ」
「えー、でも莉奈が気にしてるし……」
「いいから。……こいつには、まだ教えなくていい」
瀬戸の言葉に、里紗がピリッとした空気を感じ取ったのか、口をギュッと結んだ。
「……ごめん、莉奈。瀬戸がこう言うなら、私からは言えないや」
瀬戸は私と目を合わせようともせず、自分の席の椅子をガタンと鳴らして座った。
相変わらず、彼からはシトラスの香りがしている。あんなに大好きだった匂い。でも今のその香りは、私と彼を隔てる高い壁の匂いにしか感じられなかった。
(……なんで? どうして私にだけ教えてくれないの?)
「教えなくていい」という瀬戸の言葉が、昨日の「関係ないだろ」という拒絶に重なって、胸の奥がズキズキと痛む。
「花梨」という存在が、私と彼の間に埋められない溝を作っていく。