青バラの画家がわたしを守るために天国からやってきましたっ!?
青いバラの画家
ここは、きみたちがいうところの、いわゆる『天国』という場所だ。
頭の上に、丸い輪っかを乗せたタマシイたちが、暮らしているところ。
天国はとってもきれいで、住みやすく、楽しい場所だ。
だが最近、とある問題をかかえている。
人間界で、「ショーシカ」というものがすすんでいる。子どもの数が、どんどん減っているってことらしい。
そのせいで、タマシイたちがなかなか生まれ変わることができないのだ。
生まれ変わりの争奪戦は激しい。
いまだに、この天国では教科書にのっているような、歴史上の人物たちですら、人間界へ生まれ変わらず、順番待ちをしている状態。
まあ、あえて生まれ変わらずにいるものもいるようだし、時の流れに身を任せるものもいる。
ぼくなんかは、順番をゆずったり、のんびり絵を描いているうちに、時が過ぎていったという感じだ。
ああ。申し遅れたね。
ぼくの名前は、クロード・モネ。
フランスのパリで生まれ、生きていたころは光の画家などと呼ばれて、風景や花などをたくさん描いたんだ。
かういうぼくも、「歴史上の人物」というやつみたいだね。
もちろん天国でも、絵を描いている。
ぼくは今、天国図書館のどこまでも続く本棚の道を、てくてくと歩いているところだ。
本はいい。絵といっしょで、時の流れをゆったりと感じさせてくれる。
そこへ、空気を読まない図書館司書が、ぼくを呼び止めた。
「モネさん、観察官の方がお呼びです」
観察官というのは、天国の警察官みたいなもの。人間界の人々を見守る、重要な役割を持っているんだ。
司書の隣に、白いパーカーを着た小がらな男が、ニコニコと立っていた。なんだ、こいつか。
ぼくはていねいに頭をさげ、あいさつをする。すると、彼もペコリと頭をさげた。
「クロード・モネ。お久しぶりですね」
「ああ、ヘルメス。ごぶさたでした。お元気でしたか」
「ええ。観察官の仕事が、なかなかに忙しかったものですから。今日は、あなたにお話しがあって、参りました」
「ほう、いったいなんでしょう?」
ヘルメスはニコニコ顔をくずさず、パーカーのポケットを探っている。
「これからお話しするのは、あなただけではなく、多くの芸術家たちにとって、耳よりなお話だと思います」
「耳よりなお話?」
「ええ」
ヘルメスはポケットから何かをとりだし、ぼくに差し出した。
それはいたって普通の写真で、十歳ほどの少女が笑顔で映っていた。
「この子が、どうかされたのですか?」
「彼女の名前は、宇野さくら。人間界の日本の小学校に通う十一歳の女の子です」
「はあ。それで?」
「まあ、なんといいますか」
なぜか、ヘルメスは言葉をにごした。
「実は……」
「実は?」
「ちょっと大変なことになっておるんです」
「はあ?」
ぼくは、嫌な予感がしてきた。
ヘルメスは何かよからぬことを、ぼくにいおうとしている。とても面倒くさそうだ。この先を聞きたくない。
「それが、ミューズさまが……」
ああ、やっぱり。嫌な名前だ! ぼくの苦手な、高貴なるお方。
この世のなによりも美しい、芸術の神。
そして、性格に難ありの、さわがしい『騒々神』。
「かのお方が、どうかされたのですか?」
「ええ」
ヘルメスはグッと息をつまらせてから、ゆっくりといった。
「実は、ミューズさまがご自分のお力を、この宇野さくらという少女に宿らせてしまったようでして」
すぐには理解が追いつかないぼくは、どんな顔をしていいのかわからず、ほほをポリポリとかいた。
「それはまあ。まずいこと、なんでしょうね」
「当たり前でしょう! また、ミューズさまの悪い癖が出たのです! 人間界で芸術の奇跡を見たいという神の気まぐれ! それで人生を狂わされる人間がどれほどいることか! 神の力は人間には扱いきれないとあれほどいっているのに……」
ぶつぶつと神に悪態をついている、ヘルメス。
ヘルメスは自分勝手な神々に、毎日苦労をかけさせられているらしい。
彼のことをよく知らないので、少しも同情する気持ちはわかないけれど。
「まだ宇野さくらは、自分に特別な力が宿ったことに、気づいていません。さくらに宿った力はミューズさまに比べれば、とても小さな力ですが……」
ヘルメスは興奮して、息がハアハアとあがってしまっている。
「大丈夫ですか?」
「お気づかいなく! それであなたに声をかけた理由はですね……!」
ヘルメスは勢いあまってぼくの鼻先にまで近づいて、あわてて離れていった。
「その、さくらの力を狙って、よからぬ企みをくわだてる者が現れているのです」
「いったい、誰なのですか?」
「それは、まだわかっておらぬのですが……」
ヘルメスは、ぎゅ、とこぶしを作る。
下くちびるを噛みしめながら、悔しそうに吐きすてた。
「あのボッティチェリも! ミケランジェロも! フェルメールも! ミューズさまの神の気まぐれによって生まれた最高傑作の芸術家です。芸術に愛され、芸術で人々を幸せにした。ミューズさまは、素晴らしいお方なのですよ。あなたもそうだ。ミューズに愛された芸術家だ。そうでしょう、モネ?」
「は、はあ」
現世で知らぬものはない有名な芸術家たちの名をつらね、ヘルメスはすごい気迫でつめよってくる。
彼の熱意に、ぼくの温度は急激に冷めていく。
いっしょに盛りあがれるような性格だったらよかったのだろうけれど、すなおにいうよ。
あいにくぼくは、彼のことがあまり得意ではないのだ。
気のない返事をしてしまい、ヘルメスがキッと、ぼくをにらみつけてきた。
「あなたまさか、ミューズさまへの敬意を抱いていないのでは?」
「まさか」
「こちらはいつでも、天界裁判にかけられるのですよ!」
「落ちついてください、ヘルメス」
ヘルメスの目は、ギンギンと血走っている。
おお、なんという神への忠誠心だ。
さすがは神々から一番の信頼を受けている観察官なだけはある。
「ミューズさまの力なくして、ぼくは存在しておりませんよ。ミューズさまがおられたからこそ、ぼくがあるのです」
取りつくろっているように見られるかもしれないが、ぼくの本心には違いない。
ぼくは、おそるおそるヘルメスを見上げた。
どうやら彼の機嫌が今の言葉で、すっかり直ったようだ。
よかった。とても単純な男だったようだね。
「そうですよね! この世にミューズさまを尊ばない芸術家がいるはずがない。おれとしたことが、なにを当たり前のことを。ハハハ! 忘れてください」
「はは。当たり前ですよ」
笑顔が引きつりそうになるのを必死でたえる。やれやれ。
「ええと。それでですね」
まだ話は続くのか。もうすでに、肩にぐったりと疲れが乗っかりはじめている。
生きていたころ、大舞台でクソな評論家たちに、ぼくの絵を酷評されたときくらい、しんどいぞ。
「あなたに、指名を与えます」
「ええ……?」
ヘルメスは気取ったふうに、胸をはった。
それにつられて、ぼくも少しだけ緊張する。
「これからあなたは、さくらのもとへ行って、彼女の警護にあたってください」
「いや、ぼくはただの芸術家なんですよ。行くなら観察官であるあなた方が適任でしょう」
「何をばかな。おれはミューズさまの警護をいい渡されているのです。たったひとりの人間など、警護などしているよゆうはないのです」
ああ、なんと。このヘルメスがいいそうなことだろうか。
絵に描いたような、人間への見下しっぷり。
りっぱな塔の上からいい渡された、アリのような気分だ。
なぜぼくは、彼がこういい返してくることを予想できなかったのだろう。
しばらく、自分を恥じるとしよう。
「わかった。行く、行きますよ」
「おお! さすが光の画家、クロード・モネ! すばらしいお返事だ! だからさくらも、あなたの絵に心を奪われたのでしょうね」
そうか。彼女がぼくのファンだから、ヘルメスはぼくに依頼してきたのか。
ぼくのファンの警護となれば、喜びいさんで承諾すると思ったのだろう。
なんと浅はかな。ぼくのファンは世界中にいるんだから、別に今さらなんとも思わないのに。
「さくらは毎日、学校であなたの睡蓮の絵を見ていますよ。寿命の短い生物だというのにねえ。もっと有効な時間の使い方があるだろうに……おっと、こんなことをいっては、芸術への冒涜だ。美しいミューズさまに、叱られてしまう」
「まず謝るのはミューズさまではなく、人間の少女にでは?」
「おや、今何かいいましたか? よく聞き取れませんでした」
「いえ、何も」
こんなことにいちいち引っかかっているほうが、時間のムダだ。
ヘルメスの人間への軽視など、いつものこと。
さっさと、用件を聞いて別れよう。
「それで、ただの芸術家のぼくがどうやって人間の少女を警護すればいいんですか? 今から訓練を受けろとでも?」
「それは、さくらのもとへ行けばわかるでしょう……ただ」
突然、ヘルメスは真剣な声になる。
「ミューズさまは強く、こうおっしゃっていました。『さくらを警護できるのは、わたくしから青いバラを送られた者だけです』と」
青いバラ。ぼくは生きているとき、睡蓮の花をたくさん描いた。
天国でもいまだに描き続けているので、学者ほどではないけれど、花には少しくわしい。
青いバラの花言葉は、奇跡。そして、神の祝福だ。
天国に初めて来たとき、ぼくはミューズさまから、青いバラを授かっていた。
何もわからないまま、ヘルメスと別れたぼくは、人間界へ行く準備をはじめた。
ああ、面倒くさい。いい人のふりをするのは、心が折れるよ。
光の画家などといわれるのも、楽ではない。
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四月。小学六年生になって、三週間がすぎた。
いよいよ、最高学年になったんだなあ。
昨日カットしたばかりのボブヘアーは、ずっとずっと憧れだった髪形だったんだ。
鏡にうつった自分を見るたびに、五年生だったころの自分よりも、さらにお姉さんになったみたいで、最高の気分。
ふふ。帰って宿題をすませたら、明日のお絵かきクラブのお話を考えようかな。
昇降口、うきうきとローファーをはいて、わたしは満面の笑みで顔をあげた。
ふと、正面のカベにはられていた、一枚の絵が目に飛びこんでくる。
「あんなところに絵なんて飾ってあったっけ……?」
モノクロの、ヘンテコな絵。どんよりとした、グレーの空に、ぶきみなものが浮かんでいる。
なんだか、ちょっと怖い。いったい誰が描いたんだろう。
たしか、このあいだ見た雑学動画で、小耳にはさんだ名前があった。
「ぽかり、いや、ぴかり……じゃなくて、ピカソ、だったっけ」
でも、ピカソってこんな絵、描いてたっけ。
あと知っているのでは、わたしの好きな画家。きれいな睡蓮を描く、モネって画家。
目の前の絵は、モネが描く絵とはだいぶフンイキが違うけれど。光と闇、表と裏ぐらい、正反対だ。
だけど、不思議な魅力がある。怖いけれど、気づいたら、ジッと見ちゃうような絵だな。
その瞬間、わたしは昇降口ではない、どこかに立っていた。
どんよりとした、グレーの空。何もない、砂の地面。生き物の気配も、ない。音のない、しずかな世界。
わたし、いったいどうしたんだっけ。下校しようとして、クツをはいて、絵を見て、それから。
「学校は、どこいっちゃったんだろう。ここ……どこ?」
「きさまが宇野さくら、か」
ふりむくと、わたしと同い年くらいの男の子が立っていた。
ぼさっとした髪、だぼだぼの白いトレーナーに、黒いサロペット。足もとは、黒いトレッキングブーツ。
右目には、眼帯をつけていた。ものもらいでも、できてるのかな。
「きみは……?」
すると男の子は、左目だけでギロリ、とわたしをにらみつけた。
サロペットの大きなポケットに手をつっこみ、中から何かを取りだす。それは、手のひらにおさまるていどの、小さな黒い棒。
「これが何かわかるか。宇野さくら」
「え? 何だろう。コンブ、かな。それとも、味のり?」
「ちがう! 本当になにも知らないんだな。さすが、おこぼれ」
おこぼれって、どういうことだろう。
男の子は、ニヤニヤとコンブみたいなものを見せつけてくる。
「これは、デッサン用のモクタンだ」
「デッサン、って聞いたことあるけど……なんだっけ?」
「おこぼれめ。デッサンとは、もののカタチを正確にとらえて描くこと。手癖で自分なりに描いたりせず、描こうとするもののことを、自分の手や目でくわしく知る。絵を描くことにおいて基本となる作業だ」
「この、コンブが?」
「コンブじゃなくて、モクタンだ! 木を燃やして、炭にしたものだ。これで、絵を描くんだ」
「こんな炭で絵を描けるの?」
「モクタンは描いたり消したりが簡単にできるうえ、明暗の表現に優れており、画材としてとてもすばらしい……って、そんなことは今はどうでもいい!」
男の子が急に近づいてきたので、むにゅ、と鼻の頭同士がぶつかった。
でも、男の子はおかまいなしに、いい放つ。
「今から、きさまの神のちからは、ワガハイにうばわれる」
「わたしの、神のちから?」
キョトンとしているわたしを置いて、男の子は犬歯を見せつけ、笑った。
「何をいっているのか、さっぱりわからないんだけど」
「わからなくてけっこう! こちらで進めるだけなのだから」
「な、なにする気?」
「神のちからをうばうだけだ。死ぬわけじゃない、安心しろ」
なにがなんだか、わからない。
頭が真っ白でいるうちに、彼はモクタンを忍者のクナイのように、指のあいだにはさみ、かまえる。
「さあ、我らがピカソのため、おとなしく神のちからをさしだすのだ!」
「ピカソッ?」
雑学動画で見た、あの……?
「さあ! モクタンのチリとなれ!」
男の子が腕をかまえ、モクタンを投げようとしたときだった。
「ピカソですか。その話、くわしく聞かせていただけませんか?」
「えっ?」
わたしはとつぜん後ろから腕を引かれ、そのまま誰かに抱きとめられた。
後ろを見あげると、きれいな顔の男の人が立っていた。
真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士だ。
「やっと、見つけましたよ。まさか、オディロンの絵のなかに入っていたとはね。きみが近くにいれば、青いバラをさずかった芸術家は、どこでも神のちからの奇跡を受けられるようですなあ」
「あの、今度は誰ですか!」
戸惑いが隠せないわたしは、彼らを交互に見つめる。
知らない空間に、知らない人たち。頭はもう、パンク寸前だった。
「ぼくの名は、クロード・モネ。宇野さくらさん。きみが好きな、睡蓮の絵を描いた画家ですよ」
ふんわりと、そよ風のようにほほえむ。この人、なんてすてきな笑い方をするんだろう。
すっかり見とれていると、チクリと突き刺さるような視線を感じた。
男の子が、刃物のようなするどい瞳でこちらをにらんでいる。
眼帯をつけているから片目だけのはずなのに、まるで四方八方から見られているみたい。
「オディロン・ルドン、久しぶりですね」
モネさんに呼ばれたとたん、男の子はぷいっとそっぽを向いてしまう。
「彼のことは?」
モネさんにたずねられ、わたしは首をふった。
「おやおや」と、モネさんが苦笑いする。
「彼は、オディロン・ルドン。彼もぼくと同じ、画家です。フランスの美しい風景や、幻想的な世界の絵をたくさん描いたんです。まあ、ちょっと不気味で不思議な絵も多く、彼だけの作風を描いた孤高の画家といわれています。しかし、同じフランスの紳士として、女性を前にして名を名のらないとは、マナーがなっていないですねえ」
「クロード・モネ! きさま、天界からヘルメスにいわれてきたようだな!」
爪が黒く塗られた人差し指をモネさんに向ける、ルドンくん。
「指先を人に向けてはいけない。ここは日本だから、日本のマナーにしたがうべきだね。それが、フランス紳士としてのスマートな……」
「うるさい!」
ルドンくんは、顔を真っ赤にして怒っている。
わたしは驚いて、肩をびくりと震わせた。
すると、モネさんが大きな手をわたしの頭の上に乗せ、よしよしとなでてくれる。
「大丈夫ですよ。ぼくが守ります」
そういうとモネさんは、わたしをスマートに自分の後ろへと誘導してくれる。
「この灰色の世界。見覚えがありますね」
モネさんは、ぐるりとあたりを見渡した。
灰色の空に、灰色の地面。何もかもがグレーで、ちょっぴり心がさみしくなる世界。
「ここは、きみが描いた作品のなかですね。たしか作品名は、『目=気球』。天国図書館で、きみの画集を拝読しましたよ。大変、すばらしいものばかりだった」
モネさんが、やわらかくほほえむ。
すると、ルドンくんは「うげえ」と顔をゆがませた。
「にこにこすんじゃねえーッ!」
ルドンくんの叫びに、灰色の空が震える。
あまりの大声に、モネさんがわたしの両耳をふさいでくれた。
「ワガハイの作品を、わかったような口ぶりで語るなッ!」
のこぎりのようなギザギザの歯を、ギシギシといわせる、ルドンくん。
あまりのかんしゃくに、わたしはモネさんを見あげた。
モネさんは、湖のほとりに咲く花のような優雅さで、ほほえみを浮かべていた。
ルドンくんとモネさんのあまりの対極さに、わたしは混乱した。
このふたり、まるで水と油だ。
ドシン ドシン ドシン……
見知らぬ灰色の世界に、不審な物音がとどろいた。
「……地震?」
「ヒャハハハハ!」
とたん、ルドンくんが嬉しそうに大笑いし出した。
「きたあ! きたぞお! ワガハイの! すばらしい作品たちがあ!」
「さくらさん。あそこです」
モネさんが指をさす。見あげるほどの大きな、灰色の崖。
そこに、おそろしく高い背丈の黄色い巨人がいた。
そろりそろり、と足をあげ、崖からはいだそうとしている。
モネさんが、再びわたしを後ろに隠そうとしてくれる。
しかし、わたしは恐怖で足がすくんでしまい、うまく立っていられなくなってしまった。
「し、しんじられない……」
あまりにもこわくて、ぽろり、と涙がこぼれた瞬間、わたしは横に抱きあげられた。
至近距離に、モネさんの涼しげな顔がある。
「大丈夫。ぼくが守りますから、安心してくださいね」
巨人が、ドスン、ドスンとおいかけてきている。
すると、巨人の後ろから、何かが飛んできているのが見えた。
風に乗って、ふわふわと不気味にゆれながら、近づいてくる。
あれは、気球だ。
しかも、バルーンの部分が目玉になって、ギョロギョロと動いている!
「オディロンの気球ですよ。彼が、一八七八年に描いた『目=気球』という作品。あれが、その気球です」
目玉気球の上で、ルドンくんがあぐらをかいて座っている。
あいかわらず、不機嫌全開のようで、顔が怒りで真っ赤っかだ。
「気球に、巨人って……どういうつながり?」
「あの巨人も、オディロンの作品です。『キュクロプス』という彼の作品ですよ。あの巨人の名前が、キュクロプスというのです」
モネさんはわたしを抱いたまま、わかりやすく解説してくれるんだけど。
紳士らしく、立ち止まって、ていねいに教えてくれるうえに、後ろをふりむいて、気球や巨人を見ながら教えてくれるもんだから。
お、追いつかれそう!
「も、モネさん! は、はやく逃げよう!」
「おや、申し訳ない。急ぎましょう」
モネさんが走ってくれるけれど、縮まった距離はなかなか開きそうにない。
ルドンくんも必死の形相で追いかけてくる。
うう、もうダメ。踏みつぶされちゃう!
「うーん。戦うのは苦手なんですが、仕方ないですね」
モネさんが、わたしをそっとおろした。
そして、鮮やかな青のジャケットをひらりとはらう。ふところから、ハケのようなものを取り出し、くるんと回した。
「も、モネさん! それで戦うのッ?」
「これは、ヒラハケ。下ぬりのときに使う道具です。絵を描くまえの真っ白なキャンバスに、下ぬりをしておくと、絵の具がよく浸透して色がきれいに出るんですよねー」
「いや、そんなんでどうやって戦うのッ」
「こんな道具でも、ぼくはスマートに勝ちますよ」
巨人の大きな足が、わたしたちの目の前に落ちてくる。
地面の振動によろめくわたしを、モネさんが支えてくれた。
巨人の大きな足が、わたしたちをふみつぶそうと、グググッとあがっていく。
「そいつをよこせ! クロード!」
「いやです」
さっと、ヒラハケをかまえるモネさん。それを横にふり、きれいな一線を描く。
するとそこから、ぷくぷくとまるい水の玉があふれだしてきた。
水の玉は、またたくまにあたりに広がり、雨のように地面に降り注ぐ。大きな水たまりができはじめた。
巨人が、ジャブン、と水たまりに足をとられる。
ヨロヨロとよろめき、後ろへバランスをくずしていく。
「え、ちょ、おい!」
ルドンくんは、あせりながらもモクタンを巨人に向け、何か指示を出そうとしている。
ぐらり、と巨人が倒れていく。気球のほうへ。モクタンをかまえ、呆然としている、ルドンくんのほうへ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょッ!」
巨人をよけようと、モクタンをふりまわす、ルドンくん。
ドスーーーーーンッ!
けっきょく、巨人は地面にうつぶせに倒れてしまった。
ルドンくんの気球もそれに巻きこまれ、巨人の下敷きに。
やわらかい目玉気球に救われ、ルドンくんはなんとか無傷だったみたい。
目玉気球からはいだしたルドンくんは、イライラマックスだ。
「クロード! きさまッ! 何だ、今のは!」
「ぼくの愛する花たちですよ」
よく見ると、巨人が足を取られた水たまりに、きれいな睡蓮がいくつも、ぷかぷかと浮かんでいる。
倒れた巨人の足首にも、ぐるぐると何かが巻きついている。睡蓮のクキだ。
巨人はこれのせいで、バランスをくずし、倒れてしまったんだ。
「宇野さくらの、神のちからを使ったな!」
「ええ、そうですが。それが何か?」
名前を呼ばれるけれど、わたしはあいかわらず、なんのことかわかっていない。
わたしは何もしてないんだけどなあ。
「ぐぬぬぬぬ!」
ルドンくんは、くやしそうに地面をドスドスとふみつけている。
モネさんのせいで、思うようにいかず、そうとう頭にきているみたい。
ルドンくんが復活した気球の上に、飛び乗った。
「気球! モネのヒラハケをうち落とせ!」
すると、気球の下に、ぶら下がっている皿のようなところが、ぐるぐる回り出した。
フリスビーみたいに飛ばして、ヒラハケをうち落とす気だ!
「モネさん!」
わたしは飛び出しそうになるけれど、モネさんの手がすっと前に出てきて止められた。
「オディロン。ひと筆、遅かったね。ぼくはもう『描き終わったよ』」
モネさんがヒラハケをかかげ、横に一線、ひらりと描く。毛先から、たくさんの光がパアッとあふれだす。
一気に、この灰色の空間を明るく照らしてくれる。
「ワガハイの世界がッ!」
ルドンくんが、絶叫する。
それは、きらきらとまぶしい光だった。
初日の出を、至近距離で見ているのはないのかと思うほどの激しい光。
「『印象・日の出』。ぼくの描いた美しい朝日をいっしょに拝みましょう」
「まぶしい……目を開けていられない! と、閉じなければ……」
ルドンくんが、眼帯をしていないほうの目を強くおさえている。
あれ。目玉気球のようすが変だ。高度が落ちていってる。ぎょろぎょろとしていた目が、今にも閉じそうだ。
「しまった! 目を閉じるな!」
目玉気球のまぶたが、完全に閉じた。
視界をうしなったらしい気球は、一気に地面へと落下していく。
「わあああああ!」
再び、地面に落ちてしまったルドンくん。
今度こそ、ケガとかしちゃったんじゃないかな。わたしは、あわててかけよった。
「大丈夫ですよ。ここは、オディロンの絵のなかなんですから。絵を描いた本人が、ケガをすることはまずありません」
モネさんが、いった。
それは視界のはしに、しゃらんと映った。青くてきれいな、見たこともない花。バラだ。
赤いものなら知っているけれど、青いバラなんて初めて見た。
気づくと、わたしは昇降口に戻っていた。夢みたいな体験をしたのに、夢じゃないと思える。
だって、モネさんの手のぬくもりが、まだ手のなかに残っていたから。
頭の上に、丸い輪っかを乗せたタマシイたちが、暮らしているところ。
天国はとってもきれいで、住みやすく、楽しい場所だ。
だが最近、とある問題をかかえている。
人間界で、「ショーシカ」というものがすすんでいる。子どもの数が、どんどん減っているってことらしい。
そのせいで、タマシイたちがなかなか生まれ変わることができないのだ。
生まれ変わりの争奪戦は激しい。
いまだに、この天国では教科書にのっているような、歴史上の人物たちですら、人間界へ生まれ変わらず、順番待ちをしている状態。
まあ、あえて生まれ変わらずにいるものもいるようだし、時の流れに身を任せるものもいる。
ぼくなんかは、順番をゆずったり、のんびり絵を描いているうちに、時が過ぎていったという感じだ。
ああ。申し遅れたね。
ぼくの名前は、クロード・モネ。
フランスのパリで生まれ、生きていたころは光の画家などと呼ばれて、風景や花などをたくさん描いたんだ。
かういうぼくも、「歴史上の人物」というやつみたいだね。
もちろん天国でも、絵を描いている。
ぼくは今、天国図書館のどこまでも続く本棚の道を、てくてくと歩いているところだ。
本はいい。絵といっしょで、時の流れをゆったりと感じさせてくれる。
そこへ、空気を読まない図書館司書が、ぼくを呼び止めた。
「モネさん、観察官の方がお呼びです」
観察官というのは、天国の警察官みたいなもの。人間界の人々を見守る、重要な役割を持っているんだ。
司書の隣に、白いパーカーを着た小がらな男が、ニコニコと立っていた。なんだ、こいつか。
ぼくはていねいに頭をさげ、あいさつをする。すると、彼もペコリと頭をさげた。
「クロード・モネ。お久しぶりですね」
「ああ、ヘルメス。ごぶさたでした。お元気でしたか」
「ええ。観察官の仕事が、なかなかに忙しかったものですから。今日は、あなたにお話しがあって、参りました」
「ほう、いったいなんでしょう?」
ヘルメスはニコニコ顔をくずさず、パーカーのポケットを探っている。
「これからお話しするのは、あなただけではなく、多くの芸術家たちにとって、耳よりなお話だと思います」
「耳よりなお話?」
「ええ」
ヘルメスはポケットから何かをとりだし、ぼくに差し出した。
それはいたって普通の写真で、十歳ほどの少女が笑顔で映っていた。
「この子が、どうかされたのですか?」
「彼女の名前は、宇野さくら。人間界の日本の小学校に通う十一歳の女の子です」
「はあ。それで?」
「まあ、なんといいますか」
なぜか、ヘルメスは言葉をにごした。
「実は……」
「実は?」
「ちょっと大変なことになっておるんです」
「はあ?」
ぼくは、嫌な予感がしてきた。
ヘルメスは何かよからぬことを、ぼくにいおうとしている。とても面倒くさそうだ。この先を聞きたくない。
「それが、ミューズさまが……」
ああ、やっぱり。嫌な名前だ! ぼくの苦手な、高貴なるお方。
この世のなによりも美しい、芸術の神。
そして、性格に難ありの、さわがしい『騒々神』。
「かのお方が、どうかされたのですか?」
「ええ」
ヘルメスはグッと息をつまらせてから、ゆっくりといった。
「実は、ミューズさまがご自分のお力を、この宇野さくらという少女に宿らせてしまったようでして」
すぐには理解が追いつかないぼくは、どんな顔をしていいのかわからず、ほほをポリポリとかいた。
「それはまあ。まずいこと、なんでしょうね」
「当たり前でしょう! また、ミューズさまの悪い癖が出たのです! 人間界で芸術の奇跡を見たいという神の気まぐれ! それで人生を狂わされる人間がどれほどいることか! 神の力は人間には扱いきれないとあれほどいっているのに……」
ぶつぶつと神に悪態をついている、ヘルメス。
ヘルメスは自分勝手な神々に、毎日苦労をかけさせられているらしい。
彼のことをよく知らないので、少しも同情する気持ちはわかないけれど。
「まだ宇野さくらは、自分に特別な力が宿ったことに、気づいていません。さくらに宿った力はミューズさまに比べれば、とても小さな力ですが……」
ヘルメスは興奮して、息がハアハアとあがってしまっている。
「大丈夫ですか?」
「お気づかいなく! それであなたに声をかけた理由はですね……!」
ヘルメスは勢いあまってぼくの鼻先にまで近づいて、あわてて離れていった。
「その、さくらの力を狙って、よからぬ企みをくわだてる者が現れているのです」
「いったい、誰なのですか?」
「それは、まだわかっておらぬのですが……」
ヘルメスは、ぎゅ、とこぶしを作る。
下くちびるを噛みしめながら、悔しそうに吐きすてた。
「あのボッティチェリも! ミケランジェロも! フェルメールも! ミューズさまの神の気まぐれによって生まれた最高傑作の芸術家です。芸術に愛され、芸術で人々を幸せにした。ミューズさまは、素晴らしいお方なのですよ。あなたもそうだ。ミューズに愛された芸術家だ。そうでしょう、モネ?」
「は、はあ」
現世で知らぬものはない有名な芸術家たちの名をつらね、ヘルメスはすごい気迫でつめよってくる。
彼の熱意に、ぼくの温度は急激に冷めていく。
いっしょに盛りあがれるような性格だったらよかったのだろうけれど、すなおにいうよ。
あいにくぼくは、彼のことがあまり得意ではないのだ。
気のない返事をしてしまい、ヘルメスがキッと、ぼくをにらみつけてきた。
「あなたまさか、ミューズさまへの敬意を抱いていないのでは?」
「まさか」
「こちらはいつでも、天界裁判にかけられるのですよ!」
「落ちついてください、ヘルメス」
ヘルメスの目は、ギンギンと血走っている。
おお、なんという神への忠誠心だ。
さすがは神々から一番の信頼を受けている観察官なだけはある。
「ミューズさまの力なくして、ぼくは存在しておりませんよ。ミューズさまがおられたからこそ、ぼくがあるのです」
取りつくろっているように見られるかもしれないが、ぼくの本心には違いない。
ぼくは、おそるおそるヘルメスを見上げた。
どうやら彼の機嫌が今の言葉で、すっかり直ったようだ。
よかった。とても単純な男だったようだね。
「そうですよね! この世にミューズさまを尊ばない芸術家がいるはずがない。おれとしたことが、なにを当たり前のことを。ハハハ! 忘れてください」
「はは。当たり前ですよ」
笑顔が引きつりそうになるのを必死でたえる。やれやれ。
「ええと。それでですね」
まだ話は続くのか。もうすでに、肩にぐったりと疲れが乗っかりはじめている。
生きていたころ、大舞台でクソな評論家たちに、ぼくの絵を酷評されたときくらい、しんどいぞ。
「あなたに、指名を与えます」
「ええ……?」
ヘルメスは気取ったふうに、胸をはった。
それにつられて、ぼくも少しだけ緊張する。
「これからあなたは、さくらのもとへ行って、彼女の警護にあたってください」
「いや、ぼくはただの芸術家なんですよ。行くなら観察官であるあなた方が適任でしょう」
「何をばかな。おれはミューズさまの警護をいい渡されているのです。たったひとりの人間など、警護などしているよゆうはないのです」
ああ、なんと。このヘルメスがいいそうなことだろうか。
絵に描いたような、人間への見下しっぷり。
りっぱな塔の上からいい渡された、アリのような気分だ。
なぜぼくは、彼がこういい返してくることを予想できなかったのだろう。
しばらく、自分を恥じるとしよう。
「わかった。行く、行きますよ」
「おお! さすが光の画家、クロード・モネ! すばらしいお返事だ! だからさくらも、あなたの絵に心を奪われたのでしょうね」
そうか。彼女がぼくのファンだから、ヘルメスはぼくに依頼してきたのか。
ぼくのファンの警護となれば、喜びいさんで承諾すると思ったのだろう。
なんと浅はかな。ぼくのファンは世界中にいるんだから、別に今さらなんとも思わないのに。
「さくらは毎日、学校であなたの睡蓮の絵を見ていますよ。寿命の短い生物だというのにねえ。もっと有効な時間の使い方があるだろうに……おっと、こんなことをいっては、芸術への冒涜だ。美しいミューズさまに、叱られてしまう」
「まず謝るのはミューズさまではなく、人間の少女にでは?」
「おや、今何かいいましたか? よく聞き取れませんでした」
「いえ、何も」
こんなことにいちいち引っかかっているほうが、時間のムダだ。
ヘルメスの人間への軽視など、いつものこと。
さっさと、用件を聞いて別れよう。
「それで、ただの芸術家のぼくがどうやって人間の少女を警護すればいいんですか? 今から訓練を受けろとでも?」
「それは、さくらのもとへ行けばわかるでしょう……ただ」
突然、ヘルメスは真剣な声になる。
「ミューズさまは強く、こうおっしゃっていました。『さくらを警護できるのは、わたくしから青いバラを送られた者だけです』と」
青いバラ。ぼくは生きているとき、睡蓮の花をたくさん描いた。
天国でもいまだに描き続けているので、学者ほどではないけれど、花には少しくわしい。
青いバラの花言葉は、奇跡。そして、神の祝福だ。
天国に初めて来たとき、ぼくはミューズさまから、青いバラを授かっていた。
何もわからないまま、ヘルメスと別れたぼくは、人間界へ行く準備をはじめた。
ああ、面倒くさい。いい人のふりをするのは、心が折れるよ。
光の画家などといわれるのも、楽ではない。
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四月。小学六年生になって、三週間がすぎた。
いよいよ、最高学年になったんだなあ。
昨日カットしたばかりのボブヘアーは、ずっとずっと憧れだった髪形だったんだ。
鏡にうつった自分を見るたびに、五年生だったころの自分よりも、さらにお姉さんになったみたいで、最高の気分。
ふふ。帰って宿題をすませたら、明日のお絵かきクラブのお話を考えようかな。
昇降口、うきうきとローファーをはいて、わたしは満面の笑みで顔をあげた。
ふと、正面のカベにはられていた、一枚の絵が目に飛びこんでくる。
「あんなところに絵なんて飾ってあったっけ……?」
モノクロの、ヘンテコな絵。どんよりとした、グレーの空に、ぶきみなものが浮かんでいる。
なんだか、ちょっと怖い。いったい誰が描いたんだろう。
たしか、このあいだ見た雑学動画で、小耳にはさんだ名前があった。
「ぽかり、いや、ぴかり……じゃなくて、ピカソ、だったっけ」
でも、ピカソってこんな絵、描いてたっけ。
あと知っているのでは、わたしの好きな画家。きれいな睡蓮を描く、モネって画家。
目の前の絵は、モネが描く絵とはだいぶフンイキが違うけれど。光と闇、表と裏ぐらい、正反対だ。
だけど、不思議な魅力がある。怖いけれど、気づいたら、ジッと見ちゃうような絵だな。
その瞬間、わたしは昇降口ではない、どこかに立っていた。
どんよりとした、グレーの空。何もない、砂の地面。生き物の気配も、ない。音のない、しずかな世界。
わたし、いったいどうしたんだっけ。下校しようとして、クツをはいて、絵を見て、それから。
「学校は、どこいっちゃったんだろう。ここ……どこ?」
「きさまが宇野さくら、か」
ふりむくと、わたしと同い年くらいの男の子が立っていた。
ぼさっとした髪、だぼだぼの白いトレーナーに、黒いサロペット。足もとは、黒いトレッキングブーツ。
右目には、眼帯をつけていた。ものもらいでも、できてるのかな。
「きみは……?」
すると男の子は、左目だけでギロリ、とわたしをにらみつけた。
サロペットの大きなポケットに手をつっこみ、中から何かを取りだす。それは、手のひらにおさまるていどの、小さな黒い棒。
「これが何かわかるか。宇野さくら」
「え? 何だろう。コンブ、かな。それとも、味のり?」
「ちがう! 本当になにも知らないんだな。さすが、おこぼれ」
おこぼれって、どういうことだろう。
男の子は、ニヤニヤとコンブみたいなものを見せつけてくる。
「これは、デッサン用のモクタンだ」
「デッサン、って聞いたことあるけど……なんだっけ?」
「おこぼれめ。デッサンとは、もののカタチを正確にとらえて描くこと。手癖で自分なりに描いたりせず、描こうとするもののことを、自分の手や目でくわしく知る。絵を描くことにおいて基本となる作業だ」
「この、コンブが?」
「コンブじゃなくて、モクタンだ! 木を燃やして、炭にしたものだ。これで、絵を描くんだ」
「こんな炭で絵を描けるの?」
「モクタンは描いたり消したりが簡単にできるうえ、明暗の表現に優れており、画材としてとてもすばらしい……って、そんなことは今はどうでもいい!」
男の子が急に近づいてきたので、むにゅ、と鼻の頭同士がぶつかった。
でも、男の子はおかまいなしに、いい放つ。
「今から、きさまの神のちからは、ワガハイにうばわれる」
「わたしの、神のちから?」
キョトンとしているわたしを置いて、男の子は犬歯を見せつけ、笑った。
「何をいっているのか、さっぱりわからないんだけど」
「わからなくてけっこう! こちらで進めるだけなのだから」
「な、なにする気?」
「神のちからをうばうだけだ。死ぬわけじゃない、安心しろ」
なにがなんだか、わからない。
頭が真っ白でいるうちに、彼はモクタンを忍者のクナイのように、指のあいだにはさみ、かまえる。
「さあ、我らがピカソのため、おとなしく神のちからをさしだすのだ!」
「ピカソッ?」
雑学動画で見た、あの……?
「さあ! モクタンのチリとなれ!」
男の子が腕をかまえ、モクタンを投げようとしたときだった。
「ピカソですか。その話、くわしく聞かせていただけませんか?」
「えっ?」
わたしはとつぜん後ろから腕を引かれ、そのまま誰かに抱きとめられた。
後ろを見あげると、きれいな顔の男の人が立っていた。
真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士だ。
「やっと、見つけましたよ。まさか、オディロンの絵のなかに入っていたとはね。きみが近くにいれば、青いバラをさずかった芸術家は、どこでも神のちからの奇跡を受けられるようですなあ」
「あの、今度は誰ですか!」
戸惑いが隠せないわたしは、彼らを交互に見つめる。
知らない空間に、知らない人たち。頭はもう、パンク寸前だった。
「ぼくの名は、クロード・モネ。宇野さくらさん。きみが好きな、睡蓮の絵を描いた画家ですよ」
ふんわりと、そよ風のようにほほえむ。この人、なんてすてきな笑い方をするんだろう。
すっかり見とれていると、チクリと突き刺さるような視線を感じた。
男の子が、刃物のようなするどい瞳でこちらをにらんでいる。
眼帯をつけているから片目だけのはずなのに、まるで四方八方から見られているみたい。
「オディロン・ルドン、久しぶりですね」
モネさんに呼ばれたとたん、男の子はぷいっとそっぽを向いてしまう。
「彼のことは?」
モネさんにたずねられ、わたしは首をふった。
「おやおや」と、モネさんが苦笑いする。
「彼は、オディロン・ルドン。彼もぼくと同じ、画家です。フランスの美しい風景や、幻想的な世界の絵をたくさん描いたんです。まあ、ちょっと不気味で不思議な絵も多く、彼だけの作風を描いた孤高の画家といわれています。しかし、同じフランスの紳士として、女性を前にして名を名のらないとは、マナーがなっていないですねえ」
「クロード・モネ! きさま、天界からヘルメスにいわれてきたようだな!」
爪が黒く塗られた人差し指をモネさんに向ける、ルドンくん。
「指先を人に向けてはいけない。ここは日本だから、日本のマナーにしたがうべきだね。それが、フランス紳士としてのスマートな……」
「うるさい!」
ルドンくんは、顔を真っ赤にして怒っている。
わたしは驚いて、肩をびくりと震わせた。
すると、モネさんが大きな手をわたしの頭の上に乗せ、よしよしとなでてくれる。
「大丈夫ですよ。ぼくが守ります」
そういうとモネさんは、わたしをスマートに自分の後ろへと誘導してくれる。
「この灰色の世界。見覚えがありますね」
モネさんは、ぐるりとあたりを見渡した。
灰色の空に、灰色の地面。何もかもがグレーで、ちょっぴり心がさみしくなる世界。
「ここは、きみが描いた作品のなかですね。たしか作品名は、『目=気球』。天国図書館で、きみの画集を拝読しましたよ。大変、すばらしいものばかりだった」
モネさんが、やわらかくほほえむ。
すると、ルドンくんは「うげえ」と顔をゆがませた。
「にこにこすんじゃねえーッ!」
ルドンくんの叫びに、灰色の空が震える。
あまりの大声に、モネさんがわたしの両耳をふさいでくれた。
「ワガハイの作品を、わかったような口ぶりで語るなッ!」
のこぎりのようなギザギザの歯を、ギシギシといわせる、ルドンくん。
あまりのかんしゃくに、わたしはモネさんを見あげた。
モネさんは、湖のほとりに咲く花のような優雅さで、ほほえみを浮かべていた。
ルドンくんとモネさんのあまりの対極さに、わたしは混乱した。
このふたり、まるで水と油だ。
ドシン ドシン ドシン……
見知らぬ灰色の世界に、不審な物音がとどろいた。
「……地震?」
「ヒャハハハハ!」
とたん、ルドンくんが嬉しそうに大笑いし出した。
「きたあ! きたぞお! ワガハイの! すばらしい作品たちがあ!」
「さくらさん。あそこです」
モネさんが指をさす。見あげるほどの大きな、灰色の崖。
そこに、おそろしく高い背丈の黄色い巨人がいた。
そろりそろり、と足をあげ、崖からはいだそうとしている。
モネさんが、再びわたしを後ろに隠そうとしてくれる。
しかし、わたしは恐怖で足がすくんでしまい、うまく立っていられなくなってしまった。
「し、しんじられない……」
あまりにもこわくて、ぽろり、と涙がこぼれた瞬間、わたしは横に抱きあげられた。
至近距離に、モネさんの涼しげな顔がある。
「大丈夫。ぼくが守りますから、安心してくださいね」
巨人が、ドスン、ドスンとおいかけてきている。
すると、巨人の後ろから、何かが飛んできているのが見えた。
風に乗って、ふわふわと不気味にゆれながら、近づいてくる。
あれは、気球だ。
しかも、バルーンの部分が目玉になって、ギョロギョロと動いている!
「オディロンの気球ですよ。彼が、一八七八年に描いた『目=気球』という作品。あれが、その気球です」
目玉気球の上で、ルドンくんがあぐらをかいて座っている。
あいかわらず、不機嫌全開のようで、顔が怒りで真っ赤っかだ。
「気球に、巨人って……どういうつながり?」
「あの巨人も、オディロンの作品です。『キュクロプス』という彼の作品ですよ。あの巨人の名前が、キュクロプスというのです」
モネさんはわたしを抱いたまま、わかりやすく解説してくれるんだけど。
紳士らしく、立ち止まって、ていねいに教えてくれるうえに、後ろをふりむいて、気球や巨人を見ながら教えてくれるもんだから。
お、追いつかれそう!
「も、モネさん! は、はやく逃げよう!」
「おや、申し訳ない。急ぎましょう」
モネさんが走ってくれるけれど、縮まった距離はなかなか開きそうにない。
ルドンくんも必死の形相で追いかけてくる。
うう、もうダメ。踏みつぶされちゃう!
「うーん。戦うのは苦手なんですが、仕方ないですね」
モネさんが、わたしをそっとおろした。
そして、鮮やかな青のジャケットをひらりとはらう。ふところから、ハケのようなものを取り出し、くるんと回した。
「も、モネさん! それで戦うのッ?」
「これは、ヒラハケ。下ぬりのときに使う道具です。絵を描くまえの真っ白なキャンバスに、下ぬりをしておくと、絵の具がよく浸透して色がきれいに出るんですよねー」
「いや、そんなんでどうやって戦うのッ」
「こんな道具でも、ぼくはスマートに勝ちますよ」
巨人の大きな足が、わたしたちの目の前に落ちてくる。
地面の振動によろめくわたしを、モネさんが支えてくれた。
巨人の大きな足が、わたしたちをふみつぶそうと、グググッとあがっていく。
「そいつをよこせ! クロード!」
「いやです」
さっと、ヒラハケをかまえるモネさん。それを横にふり、きれいな一線を描く。
するとそこから、ぷくぷくとまるい水の玉があふれだしてきた。
水の玉は、またたくまにあたりに広がり、雨のように地面に降り注ぐ。大きな水たまりができはじめた。
巨人が、ジャブン、と水たまりに足をとられる。
ヨロヨロとよろめき、後ろへバランスをくずしていく。
「え、ちょ、おい!」
ルドンくんは、あせりながらもモクタンを巨人に向け、何か指示を出そうとしている。
ぐらり、と巨人が倒れていく。気球のほうへ。モクタンをかまえ、呆然としている、ルドンくんのほうへ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょッ!」
巨人をよけようと、モクタンをふりまわす、ルドンくん。
ドスーーーーーンッ!
けっきょく、巨人は地面にうつぶせに倒れてしまった。
ルドンくんの気球もそれに巻きこまれ、巨人の下敷きに。
やわらかい目玉気球に救われ、ルドンくんはなんとか無傷だったみたい。
目玉気球からはいだしたルドンくんは、イライラマックスだ。
「クロード! きさまッ! 何だ、今のは!」
「ぼくの愛する花たちですよ」
よく見ると、巨人が足を取られた水たまりに、きれいな睡蓮がいくつも、ぷかぷかと浮かんでいる。
倒れた巨人の足首にも、ぐるぐると何かが巻きついている。睡蓮のクキだ。
巨人はこれのせいで、バランスをくずし、倒れてしまったんだ。
「宇野さくらの、神のちからを使ったな!」
「ええ、そうですが。それが何か?」
名前を呼ばれるけれど、わたしはあいかわらず、なんのことかわかっていない。
わたしは何もしてないんだけどなあ。
「ぐぬぬぬぬ!」
ルドンくんは、くやしそうに地面をドスドスとふみつけている。
モネさんのせいで、思うようにいかず、そうとう頭にきているみたい。
ルドンくんが復活した気球の上に、飛び乗った。
「気球! モネのヒラハケをうち落とせ!」
すると、気球の下に、ぶら下がっている皿のようなところが、ぐるぐる回り出した。
フリスビーみたいに飛ばして、ヒラハケをうち落とす気だ!
「モネさん!」
わたしは飛び出しそうになるけれど、モネさんの手がすっと前に出てきて止められた。
「オディロン。ひと筆、遅かったね。ぼくはもう『描き終わったよ』」
モネさんがヒラハケをかかげ、横に一線、ひらりと描く。毛先から、たくさんの光がパアッとあふれだす。
一気に、この灰色の空間を明るく照らしてくれる。
「ワガハイの世界がッ!」
ルドンくんが、絶叫する。
それは、きらきらとまぶしい光だった。
初日の出を、至近距離で見ているのはないのかと思うほどの激しい光。
「『印象・日の出』。ぼくの描いた美しい朝日をいっしょに拝みましょう」
「まぶしい……目を開けていられない! と、閉じなければ……」
ルドンくんが、眼帯をしていないほうの目を強くおさえている。
あれ。目玉気球のようすが変だ。高度が落ちていってる。ぎょろぎょろとしていた目が、今にも閉じそうだ。
「しまった! 目を閉じるな!」
目玉気球のまぶたが、完全に閉じた。
視界をうしなったらしい気球は、一気に地面へと落下していく。
「わあああああ!」
再び、地面に落ちてしまったルドンくん。
今度こそ、ケガとかしちゃったんじゃないかな。わたしは、あわててかけよった。
「大丈夫ですよ。ここは、オディロンの絵のなかなんですから。絵を描いた本人が、ケガをすることはまずありません」
モネさんが、いった。
それは視界のはしに、しゃらんと映った。青くてきれいな、見たこともない花。バラだ。
赤いものなら知っているけれど、青いバラなんて初めて見た。
気づくと、わたしは昇降口に戻っていた。夢みたいな体験をしたのに、夢じゃないと思える。
だって、モネさんの手のぬくもりが、まだ手のなかに残っていたから。


