あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第18章|結衣の遠回しな確認


 義母の言葉は、家に帰っても消えなかった。

 ――妻なら、夫を満たしなさい。
 ――支えなさい。
 ――噂を立てられたら、家の恥。

 結衣はキッチンに立ち、包丁を握りながら、同じ場所を切り続けていた。
 気づけば、薄くなりすぎた人参がまな板に散らばっている。

(私、何してるんだろう)

 食卓を整えること。
 部屋を整えること。
 笑顔を整えること。

 それで“妻”になれるなら、結衣はもう十分すぎるほどやってきた。
 なのに、蓮の心だけがどこにもいない。

 鍵の音がしたのは、十時を少し回った頃だった。

 結衣は深呼吸をして、玄関へ向かった。
 今日は――逃げないと決めていた。

「お帰りなさい」

「……ただいま」

 蓮はコートを脱ぎ、ネクタイを緩める。
 疲れているのが分かる。
 それでも結衣は、言葉を飲み込まないと決めた。

(遠回しでもいいから)

 食卓に座った蓮の前に、結衣は湯気の立つ味噌汁を置いた。
 蓮は短く言う。

「……ありがとう」

 その“ありがとう”が、今日はやけに遠い。

 結衣も席に座り、箸を取った。
 食べられる気はしないのに、形だけでも“夫婦”をやらなければと思う。

 沈黙が落ちる。
 蓮は淡々と食べる。
 結衣の胸だけがうるさい。

 結衣は、箸を置いた。

「……蓮さん」

 蓮が顔を上げる。
 その瞳は冷たくない。
 でも、近くもない。

「……どうした」

 結衣は笑ってしまいそうになるのを堪えた。
 笑ったら、また逃げるから。

「……お仕事、忙しいんですね」

 言ってしまった瞬間、自分が情けなくなる。
 本当は“忙しい”かどうかなんて聞きたいわけじゃない。

(誰といるの)
(私のことはどう思ってるの)
(猫のところの女の人は誰)

 全部、言えない。
 だから“忙しいんですね”になる。

 蓮は、ほんの少しだけ眉を寄せた。

「……ああ」

 たった一文字。

 結衣の胸が、ひゅっと縮む。

(それだけ?)

 結衣は勇気を絞った。
 もう少しだけ踏み込む。
 でも、踏み込みすぎない。
 壊れないギリギリを選ぶ。

「……最近、会食も多いみたいで」

 蓮の箸が一瞬止まった。

「……予定が詰まってる」

 また、“事実”だけ。

 結衣は喉が熱くなる。

(私、聞き方を間違えてるのかな)
(もっと上手に言えば、あなたは話してくれる?)

 結衣は唇を噛んだ。
 義母の声が蘇る。

――妻なら、夫を満たしなさい。

 結衣は、言い方を変えた。
 できるだけ、優しく。

「……無理、しないでくださいね」

 その言葉は、本心だった。
 でも同時に、最後の確認だった。

(私を、必要としてる?)

 蓮は結衣を見た。
 ほんの少しだけ、目が揺れる。
 言いたいことがある顔。
 でも――。

「……大丈夫だ」

 大丈夫。
 その言葉が、結衣の心を一番深く切った。

(大丈夫なんだ)

 私が心配しなくても。
 私が待たなくても。
 私が隣にいなくても。

 結衣は笑った。
 また、癖が出る。
 泣く代わりに笑う癖。

「……そうですか」

 蓮は皿を見つめたまま、低く言った。

「……お前は、考えすぎる」

 考えすぎ。
 その一言で、結衣の胸の中の痛みが全部“結衣の問題”にされてしまう。

(私が悪いの?)

 結衣は息を吸って、もう一度だけ言った。
 今度は、遠回しじゃなく“核心”に近い言葉を、薄く包んで。

「……私、邪魔ですか?」

 空気が止まった。

 蓮の目が結衣に向く。
 驚いたように。
 困ったように。
 そして――何より、言葉を失ったように。

 結衣はその沈黙を見てしまう。

(……答えられない)

 その沈黙は、結衣にとって“肯定”だった。
 邪魔じゃないなら、すぐ否定してくれるはずなのに。

 蓮は、ようやく口を開いた。

「……そんなわけない」

 否定。
 なのに、遅すぎる。
 遅すぎて、温度がない。

 結衣は涙が出そうになって、視線を落とした。

「……じゃあ、私、何ですか」

 言ってしまった。
 
 でも結衣の中では、もう限界が来ていた。

 蓮の指が、わずかに強張る。

「……結衣」

 名前だけ。
 説明はない。
 抱きしめもしない。
 触れもしない。

 結衣は立ち上がった。
 椅子が小さく鳴る。
 その音がやけに大きかった。

「……ごめんなさい。変なことを言いました」

 謝るな、と言われる前に謝ってしまう。
 それが結衣の癖で、弱さで、最後の防御だった。

 蓮は立ち上がりかけて、止まった。

「……待て」

 結衣の肩が震えた。
 “待て”じゃなく、“来い”が欲しかった。
 “抱きしめる”が欲しかった。

 結衣は背中を向けたまま、かすれた声で言った。

「……私、もう少し静かにしますね」

 それは“努力”の形をした諦めだった。
 蓮はそれ以上、何も言わなかった。

 結衣が寝室の扉を閉めると、家の中がさらに静かになった。

 布団の中で、結衣は天井を見つめた。

(隠してる)

 忙しい、会食、大丈夫。
 言葉が薄すぎて、逆に“隠してる”に見える。

 結衣は目を閉じた。
 涙が頬を伝うのを止められなかった。

 ――夫は、私にだけ優しくない。

 その結論が、もう揺らがないところまで沈んでいく。
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