あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第19章|蓮の不器用な優しさが裏目

 結衣は、翌朝から“静か”になった。

 言葉を減らし、笑顔を増やし、必要以上に近づかない。
 義母の前で求められた“妻”を演じるために、蓮の前で“重くない妻”になる。

(これなら、迷惑じゃないよね)

 そう思い込むほど、胸の奥が空っぽになる。

 蓮は結衣の変化に気づいているのか、いないのか。
 朝の「行ってくる」はいつも通り短く、夜の「遅くなる」もいつも通りだった。

 その日、結衣は体調が少し悪かった。
 熱はない。
 ただ、胃のあたりが重くて、息が浅い。

 午後、ソファでうとうとしていると、スマホが震えた。

『今夜、来客がある』

 蓮からのメッセージだった。

 来客――誰だろう。
 結衣の指先が冷える。

『望月が同行する。必要なら顔を出せ』

 必要なら。
 顔を出せ。

 その言い方が、結衣の胸を鈍く殴った。

(私は“必要なときだけ”なんだ)

 妻なのに。
 同じ家なのに。

 結衣は震える手で返信した。

『分かりました』

 それ以上、何も書けなかった。
 “誰ですか”も“何時ですか”も、聞けない。

 夜。
 蓮は九時頃に帰宅した。
 珍しい早さなのに、結衣の胸は浮かない。

 玄関で、結衣はいつも通りに言う。

「お帰りなさい」

 蓮はコートを脱ぎながら、短く頷いた。

「……ただいま。準備はいいか」

「準備……?」

 結衣の声がかすれる。
 蓮は靴を揃えたまま、淡々と続ける。

「取引先の挨拶だ。形式だけでいい。座っていればいい」

 座っていればいい。
 形式だけ。
 結衣の胸の奥が、冷たくなる。

(私は……飾り)

 社内の噂と同じ言葉が、結衣の中で反響する。

 インターホンが鳴った。
 結衣が動こうとすると、蓮が先に玄関へ向かう。

「俺が出る」

 結衣は立ち尽くした。
 “妻が迎える”という役目すら、蓮は奪う。

 ドアが開く。

「失礼いたします、副社長」

 聞き慣れた声――望月玲香。
 そして、その後ろに男性が二人。取引先らしい。
 望月は完璧な笑顔で一礼し、結衣に視線を向けた。

「奥様、本日はお時間をいただきありがとうございます」

 丁寧すぎて、冷たい。

 結衣は頭を下げた。

「こちらこそ……」

 リビングに通され、名刺交換が始まる。
 結衣は言われた通り、座っているだけでいい。
 夫の隣で微笑むだけ。

 蓮は流れるように話し、望月が自然に資料を差し出す。
 息が合っている。
 言葉がなくても、視線だけで通じ合っている。

(夫婦より、夫婦みたい)

 結衣はその感覚を振り払えなかった。

 来客が帰ったのは、十時過ぎ。
 玄関の扉が閉まる音がして、やっと家の中が静かになる。

 結衣は息を吐いた。
 その瞬間、蓮が低く言った。

「……疲れたなら、もう寝ろ」

 また、それだ。
 “お疲れさま”でもなく、“ありがとう”でもなく、命令みたいな言葉。

 結衣は笑って頷いた。

「はい」

 立ち上がると、膝が少しぐらついた。
 体調の悪さが出たのかもしれない。

 蓮がそれに気づき、眉を寄せる。

「……大丈夫か」

 その言葉だけで、胸が少しだけ痛くなる。
 心配してくれている。
 でも、心配の形が“距離”のまま。

「大丈夫です」

 結衣はいつもの返事をした。
 大丈夫じゃないのに。

 蓮は結衣の腕に手を伸ばしかけて、止めた。
 指が空を掴む。
 その“触れたいのに触れない”が、結衣をさらに苦しくさせる。

「……無理するな」

 結衣は笑った。

「はい」

 結衣が寝室へ向かうと、背後で蓮の声がした。

「……明日、家を空けろ」

 結衣は立ち止まった。

「……え?」

 蓮は廊下の向こうから、淡々と言う。

「俺も遅い。……家政婦を入れる。お前は、休め」

 休め。
 その言葉は優しさのはずなのに、結衣には刃だった。

(家政婦を入れるって……私が必要ないってこと?)

 結衣は喉が詰まる。

「……私、そこまで……役に立ってませんか」

 声が震えた。
 蓮の足音が近づく。

 蓮は結衣の前で止まり、眉を寄せた。

「……違う」

 結衣は蓮を見上げた。
 “違うなら、言って”
 “何が違うのか教えて”
 目がそう訴えてしまう。

 でも、蓮は言葉を探して黙った。
 黙る時間が、結衣には“答え”になる。

 蓮がようやく、低く言った。

「……お前が倒れたら困る」

 困る。
 その言葉が、結衣の胸を刺した。

(困る、だけなんだ)

 愛してるでも、必要でもなく、困る。

 結衣は笑った。
 笑顔が痛い。

「……ご迷惑、かけたくないです」

 蓮の表情が一瞬揺れた。
 でも、結衣はもう見ないふりをした。

「おやすみなさい」

 結衣は寝室の扉を閉めた。
 鍵はかけない。
 けれど、心の方には鍵がかかってしまった。

 ベッドに座り、結衣は天井を見つめる。

(私が倒れたら困る)

 それは“優しさ”だ。
 でも、結衣が欲しかった優しさは、そういうものじゃない。

 ――そばにいてほしい。
 ――触れてほしい。
 ――私だけに、あの柔らかい声を。

 蓮の不器用な優しさは、いつも結衣を守る前に、突き放してしまう。
 結衣の中で、その誤解は“確信”に変わっていった。
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