あなたの隣にいたのは、私じゃなかった
第21章|あなたの隣にいたのは、私じゃなかった
家に帰る途中、結衣は息の仕方を忘れた。
望月の声が、まだ耳の奥で響いている。
――副社長は、私が支えます。
――奥様は、静かにお過ごしください。
――邪魔にならないことも、奥様の役目。
言葉は丁寧だった。
丁寧で、正しくて、残酷だった。
(……私は、邪魔)
その結論に、自分が一番早く頷いてしまったのが悔しい。
でも、否定する材料がない。
家に入ると、空気が冷たかった。
誰もいない家の静けさが、結衣の心をそのまま映す。
キッチンのカウンターには、家政婦の名刺が置かれていた。
手配はもう進んでいる。
結衣の知らないところで、結衣の“役割”は切り替えられていく。
結衣は名刺を指先で押さえ、そっと戻した。
怒る気力も、泣く気力もなかった。
その夜、蓮は遅く帰ってきた。
結衣は玄関で迎えた。
迎えるのが妻だから、というより、迎えないと“何も始まらない”気がしたから。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
蓮はネクタイを緩めながら、結衣を見た。
視線が合う。
その一秒に、結衣は無意識に期待してしまう。
(言ってくれる?)
(違うって言ってくれる?)
でも蓮は、いつも通りだった。
「……明日、家政婦が来る。お前は休め」
結衣は小さく頷いた。
頷くしかなかった。
「はい」
その返事が、あまりに静かだったのかもしれない。
蓮の眉が僅かに寄った。
「……怒ってるのか」
結衣は首を振った。
怒っていない。
怒るほど、自分に自信がない。
「怒ってません」
嘘じゃない。
ただ、もう疲れてしまっただけだ。
蓮は靴を揃え、廊下へ向かいかけて足を止めた。
「……結衣」
名前を呼ばれて、胸が痛む。
“妻”として呼ばれることすら、今は怖い。
「はい」
蓮は何か言いかけた。
口が少し動く。
でも、言葉は落ちてこない。
結衣はその沈黙を見て、悟ってしまった。
(言えないんだ)
猫のことも。
小春のことも。
望月のことも。
会食のことも。
――私にだけは。
結衣は笑ってしまった。
泣く代わりに。
「……蓮さん」
蓮が結衣を見る。
結衣は、できるだけ穏やかな声を選んだ。
責めない声。
壊さない声。
「あなたの隣にいる人って……私じゃなくても、いいんですよね」
空気が止まった。
蓮の目が大きくなる。
驚きと、焦りと、何か言いたいのに言えない色が混じる。
「……何を言ってる」
結衣は首を振った。
「……何も言ってません。私が勝手に、そう思っただけです」
そう言ってしまえば、結衣の負けだ。
でも、もう勝ち負けじゃない。
結衣は“終わらせ方”を探していた。
結衣はゆっくり、続けた。
「会社では、望月さんが支えていて」
「外では……誰かが隣にいて」
「猫には、あなたの優しい声が届いていて」
言葉が、喉を擦る。
自分で言っているのに、胸が痛い。
「……私は、ここにいても、いなくても」
声が震えた。
結衣は深呼吸でそれを押さえた。
「あなたの世界は、回ってしまう」
蓮が一歩近づいた。
「……結衣、待て」
その“待て”が、結衣には遅すぎた。
(待て、じゃなくて)
(最初から、抱きしめてほしかった)
結衣は視線を逸らし、静かに言った。
「……私、これ以上、あなたの邪魔になりたくないです」
蓮の表情が揺れる。
でも結衣はそれを見るのが怖くて、目を上げられない。
――望月の一言が、結衣の中で決定打だった。
妻の席が、最初から空いていたことを、認めるしかなくなった。
結衣は小さく頭を下げた。
「おやすみなさい」
寝室へ向かう足は、驚くほど軽かった。
軽いのに、胸の中は重い。
扉の前で、結衣は立ち止まった。
握りしめた指先が震えている。
(……出ていこう)
まだ離婚届は書いていない。
まだ何も終わっていない。
でも、結衣の中では決着がついてしまった。
――あなたの隣にいたのは、私じゃなかった。
結衣は扉を閉め、静かな部屋の中で、涙をひとつだけ落とした。
声は出さない。
これ以上、誰の邪魔にもならないように。