優しい雨が降る夜は
「ちょっと待って」

後ろから聞こえてきた声に振り返ると、カフェの出口から、ブラウンのスプリングコートを着た背の高い男性が駆け寄って来た。

「これ、落ちてたんだけど、君のじゃないかな?」

そう言って差し出されたのは、文庫本に挟んであるお気に入りの栞だった。

切り絵をモチーフにしたその栞は、美術館のショップで購入したもので、そこでしか手に入らない。

「あ! はい、そうです」
「やっぱり。周りで本を読んでたのは、君くらいだったから」

受け取った美月は、男性に頭を下げた。

「ありがとうございます。大切にしている栞なんです。本を閉じた時に落としたんですね。本当にありがとうございました」
「いや、無事に返せて良かった。それじゃ」

コートの襟を立てて雨の中に駆け出した男性に、今度は美月が声をかける。

「あの!」
「ん? なに」

振り返った男性に駆け寄り、美月は腕を伸ばして頭の上に傘をかざした。

「傘、お持ちではないのですね。お送りします。どちらまで行かれますか?」
「いや、いいよ。すぐそこのオフィスビルだから」
「でも、せっかく買ったのに濡れてしまいますよ?」

そう言って美月は、男性が手にしていたカフェの紙袋に目をやる。
おそらくテイクアウトしたものが入っているのだろう。

「大丈夫、走ればそんなに濡れないから。じゃあ」

また背を向ける男性に、美月は再び声をかけた。

「あの! では早足でいいので、歩いていただけませんか?」
「は?」

ポカンとする男性の横に並んで歩き出すと、つられて歩き始めた男性がクスッと笑う。

「君、面白いね」
「え?」
「いや、違うな。さり気ない心配りが出来る人だ。言葉遣いって、気遣いだから」
「言葉遣いは、気遣い……」

その言葉を頭の中で繰り返していると、ふいに男性が美月の手から傘を受け取り、美月の方に傾けて差す。

「ごめん、俺のせいで肩が濡れたな」
「いえ、大丈夫です」

自分より20cmほど背が高い男性の頭上に傘をかざしていたせいで、美月の右肩は雨に当たってしまっていた。

すると男性は、左手に持っていたカフェの紙袋を美月に差し出す。

「ちょっと持っててくれる?」
「え? はい」

男性は美月に紙袋を渡すと、傘を左手に持ち替え、右手をポケットに入れてハンカチを取り出した。

左手で傘を指したまま右腕を美月の背中に回し、ハンカチで美月の右肩の雨粒を拭く。

「あ……、ありがとうございます」
「いや、俺こそありがとう。実は内ポケットにタブレットを入れていてね。おかげで濡れずに済んだ」

オフィスビルの前まで来ると、男性は立ち止まって美月に傘を返した。

受け取った美月が預かっていた紙袋を差し出すと、男性は笑ってサラリと言う。

「それ、あげる。せめてものお礼。じゃあ」
「えっ、あの!」

男性はビルのエントランスに入ると、IDカードをかざしてゲートを通り過ぎてから、美月を振り返った。

「知らない人から食べ物を受け取ったらだめだよ。俺以外からは」

もう一度クスッと笑うと、じゃあ、と男性は軽く手を挙げてから去って行った。
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