世界一の××を君に
第2話
「みんな飲み物ある?」
「ビール、こっちにもちょうだい!」
腰を浮かしててきぱきと仕切る社員を横目に、私は座布団に座り気配を消す。こういうとき率先して動ける人は、たいてい仕事もできる人間だな、とのんびり場を眺めていた。
今日は料亭の大広間で、職場の歓迎会が開催されている。新年度が始まり優にニヶ月が経過しているが、うちの会社は毎年この時期に行なっていた。
「えー。我が流通管理部の役目はいわば錦食品の中枢を担っているようなもので………」
乾杯の音頭を取る課長の口上は相変わらず長い。コップを持っていつまで待てばいいのか。せっかくのビールの泡が消えてしまう。
「乾杯!」
そんな心配をしていたら、あちこちでグラスが合わさる音が響き出す。一気に騒々しくなった。ちらりとスマホの画面を見ると午後七時十五分。顔を上げ、料理を食べようとしたら不意に斜め向こうに座る男性と目が合い、反射的に思いっきり逸らした。
あ、あからさまだった?
心臓がバクバクと音を立て始め、視線どころか顔さえ戻せず、そっとうつむき気味になる。
視線の先にいたのは千島さんだった。この四月からうちに出入りしている外部出向のシステムエンジニアである彼もまた今日は歓迎される側、いわば主役だ。
席はとくに決まっていなかったけれど、今年度の新入社員は散らばりつつも真ん中寄りに座っている。
開始時間ギリギリに来て、端の方に陣取った私とはそれなりに離れているもののまさか視界に入る位置にいるなんて!
そこで思い直す。場所は関係ない。私が千島さんを意識しているのが原因だ。
ただの同僚――しかもそこまで仕事でも関わりはなかったのに。
『ずっと女性と関わるのが面倒でわざと自分を偽っていたけれど、桂木さんが女性を不幸にするばかりじゃないって言ってくれてうれしかった』
千島さんの抱えている事情をひょんなことから知って、彼が素の自分で過ごせるように協力する流れになり先週末にふたりで出かけて………。
『だから、桂木さんで証明させてほしい。女性を幸せにできるんだって』
思い出して顔が熱くなる。あ、あれはどういう意味だったんだろう?
混乱しながらも、あまりにも真剣な千島さんの表情に私は――。
『だ、大丈夫です。私、十分に幸せなので!』
とっさにそう返して、その場を去った。
あとから冷静になってみると、自意識過剰だったと恥ずかしくなる。千島さんは好きな格好で出かけるのに付き合った私に、なんらかの形でお礼したいと思っただけで………。
あれこれ考えて結論付け、一方的に気まずさを感じて今に至る。今日はこの後の予定も考えてあまり飲まないようにしよう。
取り分けられているお刺身やサラダなどを口に運び、美味しさに舌鼓を討つ。ここの料理はいつも絶品なので飲むより食べる方に集中したい。
「え、坂野、彼女できたのか?」
近くに座った女子社員たちと他愛ない話を楽しんだとき、一際大きい声に会話が止まり、そちらに注目が集まる。
「そうなんですよ。ちょうど縁があって」
はにかみながら答える坂野さんは、グラスを片手に笑った。入社して五年ほどになる中堅社員で、物腰柔らかく茶色で癖のある髪は彼の雰囲気によく合っている。
だれに対しても気さくで明るく仕事のできる彼を狙っている女子社員はそれなりにいた。
「この前、別れたばかりって言ってたのに……モテる男は違うよなー」
鬱陶しい先輩社員の絡みも彼は嫌な顔ひとつしない。
「坂野さん、もう彼女できたんだー。ショック」
おかげで私たちの話題もそちらに持っていかれる。
「相手、誰? うちではないだろうから、社外? それとも他部署?」
「まぁ、あんな優良物件が売れ残っている方が不思議だしね」
恋愛話はとくに盛り上がる。逆に私は口を挟めなくなり、聞き役に徹することにした。この隙に箸を動かして料理を食べよう。
「逆にさ、見てよ。坂野さんの隣に座っている千島さん」
けれど不意に話題に上がった名前に、私は箸を持ったまま硬直する。
「あの対比、残酷だよねー。エグい」
ちらりと視線を向けると、男性社員に質問攻めされながらも和気あいあいとしている坂野さんに対し、隣に座っている千島さんは誰かと会話が弾んでいる様子もなく、適当に料理とお酒をつまんでいる感じだ、両サイドが男性なのは、彼の意図したところなのかも。
「絶対、彼女とかいたことないよね。あの見た目とコミュ障な感じはまさに典型的なオタクっていうか……」
四月から会社に出入りしはじめた千島さんは、愛想もなくぼそぼそ喋るのに加え、その見た目も合わさってどうも近寄りがたい存在だった。パソコンに向き合っているのが基本で、会話も担当の男性社員が主で雑談もまったくない。
そんな彼について、一部の社員の間ではこうしてときどき話題にのぼったりする。内容はいつも同じだ。
「私も思った。なんかキャラクターのキーホルダーとか、それを恥ずかしげもなくいっぱいつけているし、痛すぎ」
「わかる。挨拶しても目も合わさないし、全体的に暗いし、おまけにあの髪型。アイドルとかアニメとかが生き甲斐っぽいもん」
どっと笑い合う女子社員の輪の横で、私はぎゅっと唇を噛みしめる。ズキズキと痛みだすのはどうしてなのか。
千島さんがYukiちゃんのグッズをつけているのはわざとだって知っているから? 彼の本当の姿や事情を知っているから?
それらも原因のひとつではあると思う。けれど一番の原因は、彼女たちが千島さんに向けた言葉は、私にもほぼ当てはまるものばかりだからだ。
「みんな、全然飲んでないじゃないか!」
背後から野太い声が聞こえ、一斉にそちらに振り向く。
「橋爪課長」
すっかり出来上がった課長が、ビール瓶とグラスを片手に不満げな面持ちで立っていた。彼は勢いよく腰を落とすとビール瓶をこちらに突き出す。
「どうした、どうした? せっかくの歓迎会なんだから遠慮せず、しっかり飲め、飲め」
普段は茶目っ気たっぷりで融通も利く部下想いのいい上司なのだが、こういう場面での彼の気遣いは正直、あまり嬉しいものではない。
「飲んでますよ、大丈夫です」
「課長、お注ぎしますよ」
慣れている女子社員たちは上手に返し、私の隣に座っていた同僚が課長のグラスにビールを注ぐ。こういうとっさの切り返しは私には真似できない。
傍観していると、グラスから口を離した課長と目が合う。
「桂木さん、飲んでるかい?」
「あ、はい」
とっさに答えると、課長は飲みかけのグラスにビールを注ぎ私に差し出してきた。
「ほら。ぐいっと一杯」
一瞬、頭が真っ白になる。だって、これって課長の飲みかけで、さらには口をつけたグラスで……。
「だ、大丈夫です!」
全力で拒否の意を伝えるべく、力強く返す。しかし課長にはまったく響かない。
「遠慮することないって。ほら。普段頑張っている部下に上司から労いだ」
そんなふうに言われると、さらにきっぱりとした断り文句が出しにくくなる。無下に断る私が悪い気さえしてきた。周りの空気、場の雰囲気。壊す勇気も、自分の意志を貫く強さも、上手く切り抜ける言葉も……私は持っていない。
「わかり――」
「俺がもらいます」
観念して受け取ろうとしたら、上から振ってきた声と共に課長の手からグラスが消えた。視線を上げると静かにビールを飲み干す男性の姿があった。
千島さん――。
驚いて目を見開いていると、空になったグラスが課長に戻される。課長は上機嫌で彼を見た。
「千島くん、いい飲みっぷりじゃないか! いや、すまない。君を差し置いて他の社員に酒を勧めて」
「無理やりお酒を勧めるのはハラスメントですよ」
千島さんはきっぱりとした口調で返した。
「大袈裟だなぁ。無理やりは勧めてないさ。お酌も強要していないし」
「いえ、課長、今のはナシですよ」
「本当。しかも飲みかけのグラスとかありえませんって」
調子を崩さない課長に、それまで黙っていた女子社員の猛攻が始まる。さすがの課長も顔から笑みが消えてたじろぎだした。
「上司から部下ってだけで断りにくいんですから」
非難轟轟の嵐に、課長は私に向き直った。
「桂木さん、ごめん。悪かったね。他のみんなも、不快にさせるつもりはなかったんだ」
課長のこういうところが憎めないというか、なんというか。それは他の社員も同じなのだろう。
「よし。とりあえず千島くん、あっちで飲もう! お酌するよ」
課長は切り替えて千島さんを促し、逃げるようにさっさとこの場を去っていく。
「桂木さん、大丈夫?」
「災難だったね。課長、本当に酔うとタチが悪いんだから」
彼らが去っていったのと同時に、女子社員たちが唇を尖らせ課長への不満を口にする。
「にしても千島さん、突然現れてびっくりしたよね」
「ああいうノリが許せなかったんじゃない? ある意味、まじめすぎてノリが悪いのも?」
「外部の人間だから課長に気を遣う必要もないし」
好き勝手推測しながらも、話題はさっさと違うものに変わっていく。
ちらりと意識を千島さんの方に向けると、千島さんは自身の席に戻っていて、課長は宣言通り彼にお酒を勧めていた。
女子社員たちも庇ってはくれたが、あのとき一番に間に入って私を助けてくれたのは他でもない千島さんだ。
時間のため一次会はお開きとなり建物の外に出る。日中より気温は下がっているものの涼しいとは言いづらく、湿り気を帯びた空気はどことなく肌にまとわりつく。
そのまま帰る人や二次会に行く面々で集まって盛り上がるなどそれぞれだ。
「桂木さん、二次会行く?」
「ちょっと用事があるので、ここで失礼します」
最寄り駅まで歩く集団にいつもならしれっと交じるが、私はあちこちに視線を飛ばし、ある人物を探す。
「千島さん」
店を出る際に少しタイムラグがあったので心配したが、こういうとき彼の背が高いのは助かる。歩き出していた千島さんに声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
「あの、さっきはありがとうございました」
勢いよく頭を下げてから気づく。思い返すと彼と会話するのは二人ででかけて以来だ。
「たいしたことはしていないよ」
「でも――」
素っ気ない返事にさらに続けようとしたら、ある異変に気づいた。
千島さんの顔色が心なしか悪い。
「だ、大丈夫ですか?」
千島さんは目を泳がせ、しばしの沈黙が流れる。
「あまり……よくないかも」
「ええ!?」
私が叫んだのと千島さんが口元に手を遣ったのは、ほぼ同時だった。
等間隔で並んだLEDの青い外灯が辺りを照らす中、私は自動販売機から踵を返し、公園内に駆け戻った。
「お水、どうぞ」
「ありがとう」
ベンチに座っている千島さんにペットボトルの水を差し出すと、彼は力なく受け取った。蓋を開け、彼がある程度水を飲んだタイミングで声をかける。
「気分はどうですか?」
「大分、楽になったよ」
おそらくそれは本当だろう。さっきよりも顔色も口調も落ち着いている。
「よかった」
ホッと胸を撫で下ろし、私は謝罪を口にしようとする。
「ごめん」
しかし声を発したのは千島さんの方が先だった。おかげで一瞬、言葉に詰まる。
「結局こうして桂木さんに迷惑をかけて……本末転倒というか、みっともないところを見せて……俺、どうしようもなくカッコ悪い」
「そんなことないです!」
うつむきながら自嘲的に呟く千島さんに、すぐさま強く否定した。顔を上げて目を丸くしている彼に私は訴えかける。
「千島さん、私を助けてくれたんですよね?」
困っている私を見かねて間に入っただけではなく、課長を注意してさらには矛先を引き取ってくれた。
あまりお酒が強くないにもかかわらず……。
「迷惑でもカッコ悪くもないです。あのときの千島さん、私にはヒーローでした。すごくカッコよかったです」
彼が自分を責める必要なんて、まったくない。
とはいえ少し冷静になってみると、あまりにも言葉がストレートだったのではないかと赤面を通り越して血の気が引きそうになる。
千島さんは異性に好意的に思われるのを避けたくて、見た目や振る舞いをわざと不格好にしているのに、カッコイイとか、ヒーローとか……どう考えても地雷でしかない!
「ち、違います。あ、いえ違わないんですけれど……も、元々言えば、はっきり断れなかった私が悪いんです。だから、千島さんがきっぱりと課長に意見する姿を見習いたいなって。千島さんはなにも悪くないし謝る必要なんて一ミリもありません!!」
早口で捲し立てたものの言っていることがめちゃくちゃだ。自己嫌悪で落ち込みそうになっていると、それまで暗い面持ちだった千島さんがふっと微笑んだ。
「ありがとう」
寝癖とも判別できないボサボサの髪に、お世辞にも似合っているとは言えないツーブリッジの黒縁眼鏡で彼の目、ひいては表情もいつもよく見えない。
けれど今、外灯がほんのり照らす程度の夜の公園で千島さんの嬉しそうな笑顔は、しっかりと目に映った。
「それにしたって千島さん、お酒弱いのに無理しすぎですよ」
照れくささもあり、わざとらしく話題を変える。すると千島さんは少しだけ考え込んだ。
「弱いというか、酒を飲むのがあまりにも久しぶりすぎて、自分でもこれくらいで酔っていることに驚いている」
冷静に状況を分析しているのは彼らしいが、つまりどういうことなのだろう?
「えっと……お酒を飲んでいなかったのは、なにか体調的な問題で?」
「いや」
私の質問に千島さんは言い淀む。ややあって彼の形のいい唇が動く。
「お酒はわりと強い方だったんだけれど、気づけばホテルで、知らない女の子が隣にいたり、家まで送るって初対面の女の子が強引についてこようとしたり、そういうことが何度かあって……」
千島さんの声のトーンがどんどん重く苦いものになっていく。
「は、犯罪に巻き込まれなくてよかったですね」
フォローになっているのか、なっていないのか自分でもわからない。しかし千島さんはふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
「おかげでアルコールはやめて、ノンアルコールだとしても、席を立つときはグラスの中身を残したままにしないことだけは肝に銘じているよ」
「もう命を狙われているレベルじゃないですか」
洒落にならない。こうして彼が無事でいてなによりだ。そこで考えを別の角度に移す。そんな経験からお酒を封じていたのに、彼は私のために身を挺してアルコールを口にしてくれたんだ。
意を決して彼の隣に腰を下ろした。
「私、千島さんの酔いが完全に醒めるまでここで付き合います! 下手に送っていこうとか、私の家に連れて帰ろうなんて真似は一切しませんから」
強い決意の元に宣言すると、千島さんは目を丸くした。
「でも、桂木さん……なんか用事があったんじゃないの?」
そこまで千島さんに知られているとは。しかしノープロブレムだ。
「大丈夫です。実は……」
私はそこでバッグからスマホを取り出した。
「Yukiちゃんが緊急特別生配信をするって告知が合って、これは素面でじっくり見るしかないと思っていたんです」
まだ配信まで少し余裕がある。生配信の画面に切り替え待機だ。
その間にファンのゼックスをチェック。みんなあれこれ予想して盛り上がっている。
【ついに顔出し!?】【ファンミの案内?】【ライブ決定のお知らせじゃない?】【ブランドの立ち上げとか?】
正直、どの可能性も捨てがたいし、事実だったら嬉しい。ニヤケながら画面をスクロールして、隣を向く。
「千島さんもよかったら一緒に見ます?」
ウキウキで尋ねて思い直す。千島さんがYukiちゃんのファンをしていたのは偽りの姿だったのだ。
「あの――」
「見ようかな」
慌てて訂正しようとしたが、千島さんは短く告げ、画面を見るためこちらとの距離を縮めてきた。
ち、近い!
とっさに そう思ったものの誘ったのは私だ。彼に他意はない。
心臓がやや早鐘を打ち出すが、生配信が始まり私の意識はあっさりそちらに奪われる。
『こんばんは。Yukiです。みんな、今夜もありがとう!』
ああああああ。神! Yukiちゃん、可愛い! このワンピースどこのだろう? すっごく似合ってる! ネイルも素敵。シンプルなのにゴールドラメがいい。今度真似しよう!
これで明日からも仕事頑張れる。
ひとりなら間違いなく全部口にして身悶えしているが、ここは外ですぐ隣には千島さんがいるので理性を総動員させて抑え込む。
Yukiちゃんはいつも通り、今日のファッションのポイントについて語り出す。あとで誰かまとめてくれているからチェックしにいこう。
自然と頬が緩んで画面に釘付けになっていると、不意に視線を感じ、広告が流れたタイミングで隣を見ると至近距離で千島さんと目が合った。
「えっ――」
「Yukiよりも桂木さんを見ている方が面白いなって」
にこりと微笑み、千島さんは悪びれもなく答えた。いつもの彼らしくないというか、なんというか。
「ち、千島さん、酔っています?」
あたふたしつつ尋ねると、千島さんの唇がゆっくりと動く。
「そうだね。酔っているのかもしれない」
そう言った瞬間、彼の頭が私の肩にもたれかかる。
「ち、千島さん!?」
重たさと温もりを同時に感じ、思わず立ち上がりそうになったのを必死で堪え、固まったまま横目に彼をうかがう。
「だ、大丈夫ですか? 吐きそうです?」
彼の心配半分、この体勢に動揺が隠せないのを隠すのが半分。それにしても千島さん、こんなにお酒が弱いのに、どうして私のためにここまでしてくれるんだろう?
『だから、桂木さんで証明させてほしい。女性を幸せにできるんだって』
そのために無理をさせている? この前、千島さんに付き合ったもののほとんど役に立たなくて、むしろ迷惑をかけてしまったのに……。
「千島さん、私――」
「ごめん」
私が口火を切ったのとほぼ同時に、千島さんが頭を上げて謝罪を口にした。どうして千島さんが謝るのか。混乱しながらも千島さんに視線を送ると、彼は気まずそうに目線を逸らした。
「桂木さんが断れないのをいいことに、甘えすぎていた。これじゃさっきの橋爪課長と同じだ」
「同じじゃないです!」
嫌悪感混じりに呟いた千島さんの言葉を私は反射的に否定した。目を丸くする千島さんに私は訴える。
「さっきも言いましたけれど千島さんを見習って……次はちゃんと断ろうって思いました。自分の気持ちをきちんと主張しようって……だから、今も迷惑だったら千島さんに言ってます」
これは本音だ。酔いが醒めるまで彼のそばにいると決めたのも、この距離の近さを戸惑いながらも受け入れていたのも私の意思だ。
「どうして?」
一瞬、心が読まれたのかと驚く。頭の中に浮かんだ疑問をまさか千島さんから尋ねられるとは。
「なんで俺は迷惑じゃないの?」
千島さんの声がやけに低く、眼鏡の奥の瞳が真っすぐに私を捉えた。おかげで彼から目が離せなくなる。
「俺が課長との間に入ったから?」
答えない私に彼が囁くようにしてさらに尋ねてくる。心臓が早鐘を打ち出し体温が上昇する。
助けてもらったから、という思いがないわけでもない。それよりも、もしかして下心があると思われている?
「ち、千島さんは……友人だからです!」
半ば叫ぶようにして答え、場所と時間を思い出し慌てて口を噤んだ。そして声のトーンを落として言い訳めいた口調で続ける。
「お互いに素の姿を知っているわけですし。困っているときはお互いさまと言いますか……」
声にしながら自分に言い聞かせている部分もあった。千島さんを見ると、彼は目を見開いて固まっていた。
もしかして友人なんて図々しかった? 彼は女性に苦手意識があるのに。なにかフォローを入れようとしたら、突然、千島さんが噴き出した。
その様子に今度は私が面食らう。
口元を押さえ、笑いだす千島さんの姿が意外で、いつも職場では無愛想な彼からは想像できない。千島さんって笑うとこんな感じなんだ。
「桂木さんっておもしろいよね」
笑みをこぼしながら千島さんが漏らした。どういう意味で捉えていいのかわからず反応に困る。千島さんはわざと癖をつけている前髪を掻き上げた。
「ありがとう。桂木さんの同僚から友人に昇進できて光栄だよ」
あ、そうだ。職場では無口で冷たい印象だったけれど、本当の千島さんはおしゃべり上手でこうして茶目っ気混じりにお世辞も言う人だった。
この前、ふたりで出かけたときのことを思いだす。今、彼が素に近い状態でいるのだと思うと、なんだか胸が温かくなる。
「大袈裟ですよ、仕事じゃないんですから」
気を取り直して、Yukiちゃんの動画に集中しようとする。
いつもはなにを差し置いてもYukiちゃんを優先するのに、つい千島さんと話し込んでいた。
一応、千島さんにも見えるようにスマホを持ち直す。いつも通りYukiちゃんのおすすめのコスメや食べ物などを近況と共にゆるゆると語っている。
「桂木さん」
「なんでしょう?」
今度は千島さんの方を向かずに返す。彼の呼び掛けもそれくらい軽いものだったから。
「桂木さんにとって同僚から友人に昇進できたのなら、俺の頑張り次第ではさらに特別な存在になれる?」
「え?」
動画を見ながらだった私は、千島さんがなにを言ったのかよく聞こえなかった。思わず聞き返すと、彼が真剣な顔でこちらを見ていた。
この表情を私は知っている。たしか彼に――
『ここで、いつも応援してくれるみんなに大事なお知らせがあります。今月いっぱいで、私Yukiはすべての活動を無期限で休止します』
私のすべての意識はスマホ画面に釘付けになる。
今、なんて――。
『この決断をするのにすごく悩みました。けれど、一度立ち止まって、これからのことを考えたいなという結論になったんです』
「嘘……」
画面を自分の方に引き寄せ、ボリュームを最大にする。空耳でもエイプリルフールでもドッキリでもなければ、のっとりでもない。これは現実?
Yukiちゃんが、活動休止? 無期限って……もう見られないし、会えないかもしれないってこと――?
「桂木さん?」
千島さんの声がどこか遠い世界からのものに聞こえる。実際、目の前が真っ暗だ。
推しが、神が――この世からいなくなる?
誰か、誰か嘘だと言ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。
「ビール、こっちにもちょうだい!」
腰を浮かしててきぱきと仕切る社員を横目に、私は座布団に座り気配を消す。こういうとき率先して動ける人は、たいてい仕事もできる人間だな、とのんびり場を眺めていた。
今日は料亭の大広間で、職場の歓迎会が開催されている。新年度が始まり優にニヶ月が経過しているが、うちの会社は毎年この時期に行なっていた。
「えー。我が流通管理部の役目はいわば錦食品の中枢を担っているようなもので………」
乾杯の音頭を取る課長の口上は相変わらず長い。コップを持っていつまで待てばいいのか。せっかくのビールの泡が消えてしまう。
「乾杯!」
そんな心配をしていたら、あちこちでグラスが合わさる音が響き出す。一気に騒々しくなった。ちらりとスマホの画面を見ると午後七時十五分。顔を上げ、料理を食べようとしたら不意に斜め向こうに座る男性と目が合い、反射的に思いっきり逸らした。
あ、あからさまだった?
心臓がバクバクと音を立て始め、視線どころか顔さえ戻せず、そっとうつむき気味になる。
視線の先にいたのは千島さんだった。この四月からうちに出入りしている外部出向のシステムエンジニアである彼もまた今日は歓迎される側、いわば主役だ。
席はとくに決まっていなかったけれど、今年度の新入社員は散らばりつつも真ん中寄りに座っている。
開始時間ギリギリに来て、端の方に陣取った私とはそれなりに離れているもののまさか視界に入る位置にいるなんて!
そこで思い直す。場所は関係ない。私が千島さんを意識しているのが原因だ。
ただの同僚――しかもそこまで仕事でも関わりはなかったのに。
『ずっと女性と関わるのが面倒でわざと自分を偽っていたけれど、桂木さんが女性を不幸にするばかりじゃないって言ってくれてうれしかった』
千島さんの抱えている事情をひょんなことから知って、彼が素の自分で過ごせるように協力する流れになり先週末にふたりで出かけて………。
『だから、桂木さんで証明させてほしい。女性を幸せにできるんだって』
思い出して顔が熱くなる。あ、あれはどういう意味だったんだろう?
混乱しながらも、あまりにも真剣な千島さんの表情に私は――。
『だ、大丈夫です。私、十分に幸せなので!』
とっさにそう返して、その場を去った。
あとから冷静になってみると、自意識過剰だったと恥ずかしくなる。千島さんは好きな格好で出かけるのに付き合った私に、なんらかの形でお礼したいと思っただけで………。
あれこれ考えて結論付け、一方的に気まずさを感じて今に至る。今日はこの後の予定も考えてあまり飲まないようにしよう。
取り分けられているお刺身やサラダなどを口に運び、美味しさに舌鼓を討つ。ここの料理はいつも絶品なので飲むより食べる方に集中したい。
「え、坂野、彼女できたのか?」
近くに座った女子社員たちと他愛ない話を楽しんだとき、一際大きい声に会話が止まり、そちらに注目が集まる。
「そうなんですよ。ちょうど縁があって」
はにかみながら答える坂野さんは、グラスを片手に笑った。入社して五年ほどになる中堅社員で、物腰柔らかく茶色で癖のある髪は彼の雰囲気によく合っている。
だれに対しても気さくで明るく仕事のできる彼を狙っている女子社員はそれなりにいた。
「この前、別れたばかりって言ってたのに……モテる男は違うよなー」
鬱陶しい先輩社員の絡みも彼は嫌な顔ひとつしない。
「坂野さん、もう彼女できたんだー。ショック」
おかげで私たちの話題もそちらに持っていかれる。
「相手、誰? うちではないだろうから、社外? それとも他部署?」
「まぁ、あんな優良物件が売れ残っている方が不思議だしね」
恋愛話はとくに盛り上がる。逆に私は口を挟めなくなり、聞き役に徹することにした。この隙に箸を動かして料理を食べよう。
「逆にさ、見てよ。坂野さんの隣に座っている千島さん」
けれど不意に話題に上がった名前に、私は箸を持ったまま硬直する。
「あの対比、残酷だよねー。エグい」
ちらりと視線を向けると、男性社員に質問攻めされながらも和気あいあいとしている坂野さんに対し、隣に座っている千島さんは誰かと会話が弾んでいる様子もなく、適当に料理とお酒をつまんでいる感じだ、両サイドが男性なのは、彼の意図したところなのかも。
「絶対、彼女とかいたことないよね。あの見た目とコミュ障な感じはまさに典型的なオタクっていうか……」
四月から会社に出入りしはじめた千島さんは、愛想もなくぼそぼそ喋るのに加え、その見た目も合わさってどうも近寄りがたい存在だった。パソコンに向き合っているのが基本で、会話も担当の男性社員が主で雑談もまったくない。
そんな彼について、一部の社員の間ではこうしてときどき話題にのぼったりする。内容はいつも同じだ。
「私も思った。なんかキャラクターのキーホルダーとか、それを恥ずかしげもなくいっぱいつけているし、痛すぎ」
「わかる。挨拶しても目も合わさないし、全体的に暗いし、おまけにあの髪型。アイドルとかアニメとかが生き甲斐っぽいもん」
どっと笑い合う女子社員の輪の横で、私はぎゅっと唇を噛みしめる。ズキズキと痛みだすのはどうしてなのか。
千島さんがYukiちゃんのグッズをつけているのはわざとだって知っているから? 彼の本当の姿や事情を知っているから?
それらも原因のひとつではあると思う。けれど一番の原因は、彼女たちが千島さんに向けた言葉は、私にもほぼ当てはまるものばかりだからだ。
「みんな、全然飲んでないじゃないか!」
背後から野太い声が聞こえ、一斉にそちらに振り向く。
「橋爪課長」
すっかり出来上がった課長が、ビール瓶とグラスを片手に不満げな面持ちで立っていた。彼は勢いよく腰を落とすとビール瓶をこちらに突き出す。
「どうした、どうした? せっかくの歓迎会なんだから遠慮せず、しっかり飲め、飲め」
普段は茶目っ気たっぷりで融通も利く部下想いのいい上司なのだが、こういう場面での彼の気遣いは正直、あまり嬉しいものではない。
「飲んでますよ、大丈夫です」
「課長、お注ぎしますよ」
慣れている女子社員たちは上手に返し、私の隣に座っていた同僚が課長のグラスにビールを注ぐ。こういうとっさの切り返しは私には真似できない。
傍観していると、グラスから口を離した課長と目が合う。
「桂木さん、飲んでるかい?」
「あ、はい」
とっさに答えると、課長は飲みかけのグラスにビールを注ぎ私に差し出してきた。
「ほら。ぐいっと一杯」
一瞬、頭が真っ白になる。だって、これって課長の飲みかけで、さらには口をつけたグラスで……。
「だ、大丈夫です!」
全力で拒否の意を伝えるべく、力強く返す。しかし課長にはまったく響かない。
「遠慮することないって。ほら。普段頑張っている部下に上司から労いだ」
そんなふうに言われると、さらにきっぱりとした断り文句が出しにくくなる。無下に断る私が悪い気さえしてきた。周りの空気、場の雰囲気。壊す勇気も、自分の意志を貫く強さも、上手く切り抜ける言葉も……私は持っていない。
「わかり――」
「俺がもらいます」
観念して受け取ろうとしたら、上から振ってきた声と共に課長の手からグラスが消えた。視線を上げると静かにビールを飲み干す男性の姿があった。
千島さん――。
驚いて目を見開いていると、空になったグラスが課長に戻される。課長は上機嫌で彼を見た。
「千島くん、いい飲みっぷりじゃないか! いや、すまない。君を差し置いて他の社員に酒を勧めて」
「無理やりお酒を勧めるのはハラスメントですよ」
千島さんはきっぱりとした口調で返した。
「大袈裟だなぁ。無理やりは勧めてないさ。お酌も強要していないし」
「いえ、課長、今のはナシですよ」
「本当。しかも飲みかけのグラスとかありえませんって」
調子を崩さない課長に、それまで黙っていた女子社員の猛攻が始まる。さすがの課長も顔から笑みが消えてたじろぎだした。
「上司から部下ってだけで断りにくいんですから」
非難轟轟の嵐に、課長は私に向き直った。
「桂木さん、ごめん。悪かったね。他のみんなも、不快にさせるつもりはなかったんだ」
課長のこういうところが憎めないというか、なんというか。それは他の社員も同じなのだろう。
「よし。とりあえず千島くん、あっちで飲もう! お酌するよ」
課長は切り替えて千島さんを促し、逃げるようにさっさとこの場を去っていく。
「桂木さん、大丈夫?」
「災難だったね。課長、本当に酔うとタチが悪いんだから」
彼らが去っていったのと同時に、女子社員たちが唇を尖らせ課長への不満を口にする。
「にしても千島さん、突然現れてびっくりしたよね」
「ああいうノリが許せなかったんじゃない? ある意味、まじめすぎてノリが悪いのも?」
「外部の人間だから課長に気を遣う必要もないし」
好き勝手推測しながらも、話題はさっさと違うものに変わっていく。
ちらりと意識を千島さんの方に向けると、千島さんは自身の席に戻っていて、課長は宣言通り彼にお酒を勧めていた。
女子社員たちも庇ってはくれたが、あのとき一番に間に入って私を助けてくれたのは他でもない千島さんだ。
時間のため一次会はお開きとなり建物の外に出る。日中より気温は下がっているものの涼しいとは言いづらく、湿り気を帯びた空気はどことなく肌にまとわりつく。
そのまま帰る人や二次会に行く面々で集まって盛り上がるなどそれぞれだ。
「桂木さん、二次会行く?」
「ちょっと用事があるので、ここで失礼します」
最寄り駅まで歩く集団にいつもならしれっと交じるが、私はあちこちに視線を飛ばし、ある人物を探す。
「千島さん」
店を出る際に少しタイムラグがあったので心配したが、こういうとき彼の背が高いのは助かる。歩き出していた千島さんに声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
「あの、さっきはありがとうございました」
勢いよく頭を下げてから気づく。思い返すと彼と会話するのは二人ででかけて以来だ。
「たいしたことはしていないよ」
「でも――」
素っ気ない返事にさらに続けようとしたら、ある異変に気づいた。
千島さんの顔色が心なしか悪い。
「だ、大丈夫ですか?」
千島さんは目を泳がせ、しばしの沈黙が流れる。
「あまり……よくないかも」
「ええ!?」
私が叫んだのと千島さんが口元に手を遣ったのは、ほぼ同時だった。
等間隔で並んだLEDの青い外灯が辺りを照らす中、私は自動販売機から踵を返し、公園内に駆け戻った。
「お水、どうぞ」
「ありがとう」
ベンチに座っている千島さんにペットボトルの水を差し出すと、彼は力なく受け取った。蓋を開け、彼がある程度水を飲んだタイミングで声をかける。
「気分はどうですか?」
「大分、楽になったよ」
おそらくそれは本当だろう。さっきよりも顔色も口調も落ち着いている。
「よかった」
ホッと胸を撫で下ろし、私は謝罪を口にしようとする。
「ごめん」
しかし声を発したのは千島さんの方が先だった。おかげで一瞬、言葉に詰まる。
「結局こうして桂木さんに迷惑をかけて……本末転倒というか、みっともないところを見せて……俺、どうしようもなくカッコ悪い」
「そんなことないです!」
うつむきながら自嘲的に呟く千島さんに、すぐさま強く否定した。顔を上げて目を丸くしている彼に私は訴えかける。
「千島さん、私を助けてくれたんですよね?」
困っている私を見かねて間に入っただけではなく、課長を注意してさらには矛先を引き取ってくれた。
あまりお酒が強くないにもかかわらず……。
「迷惑でもカッコ悪くもないです。あのときの千島さん、私にはヒーローでした。すごくカッコよかったです」
彼が自分を責める必要なんて、まったくない。
とはいえ少し冷静になってみると、あまりにも言葉がストレートだったのではないかと赤面を通り越して血の気が引きそうになる。
千島さんは異性に好意的に思われるのを避けたくて、見た目や振る舞いをわざと不格好にしているのに、カッコイイとか、ヒーローとか……どう考えても地雷でしかない!
「ち、違います。あ、いえ違わないんですけれど……も、元々言えば、はっきり断れなかった私が悪いんです。だから、千島さんがきっぱりと課長に意見する姿を見習いたいなって。千島さんはなにも悪くないし謝る必要なんて一ミリもありません!!」
早口で捲し立てたものの言っていることがめちゃくちゃだ。自己嫌悪で落ち込みそうになっていると、それまで暗い面持ちだった千島さんがふっと微笑んだ。
「ありがとう」
寝癖とも判別できないボサボサの髪に、お世辞にも似合っているとは言えないツーブリッジの黒縁眼鏡で彼の目、ひいては表情もいつもよく見えない。
けれど今、外灯がほんのり照らす程度の夜の公園で千島さんの嬉しそうな笑顔は、しっかりと目に映った。
「それにしたって千島さん、お酒弱いのに無理しすぎですよ」
照れくささもあり、わざとらしく話題を変える。すると千島さんは少しだけ考え込んだ。
「弱いというか、酒を飲むのがあまりにも久しぶりすぎて、自分でもこれくらいで酔っていることに驚いている」
冷静に状況を分析しているのは彼らしいが、つまりどういうことなのだろう?
「えっと……お酒を飲んでいなかったのは、なにか体調的な問題で?」
「いや」
私の質問に千島さんは言い淀む。ややあって彼の形のいい唇が動く。
「お酒はわりと強い方だったんだけれど、気づけばホテルで、知らない女の子が隣にいたり、家まで送るって初対面の女の子が強引についてこようとしたり、そういうことが何度かあって……」
千島さんの声のトーンがどんどん重く苦いものになっていく。
「は、犯罪に巻き込まれなくてよかったですね」
フォローになっているのか、なっていないのか自分でもわからない。しかし千島さんはふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
「おかげでアルコールはやめて、ノンアルコールだとしても、席を立つときはグラスの中身を残したままにしないことだけは肝に銘じているよ」
「もう命を狙われているレベルじゃないですか」
洒落にならない。こうして彼が無事でいてなによりだ。そこで考えを別の角度に移す。そんな経験からお酒を封じていたのに、彼は私のために身を挺してアルコールを口にしてくれたんだ。
意を決して彼の隣に腰を下ろした。
「私、千島さんの酔いが完全に醒めるまでここで付き合います! 下手に送っていこうとか、私の家に連れて帰ろうなんて真似は一切しませんから」
強い決意の元に宣言すると、千島さんは目を丸くした。
「でも、桂木さん……なんか用事があったんじゃないの?」
そこまで千島さんに知られているとは。しかしノープロブレムだ。
「大丈夫です。実は……」
私はそこでバッグからスマホを取り出した。
「Yukiちゃんが緊急特別生配信をするって告知が合って、これは素面でじっくり見るしかないと思っていたんです」
まだ配信まで少し余裕がある。生配信の画面に切り替え待機だ。
その間にファンのゼックスをチェック。みんなあれこれ予想して盛り上がっている。
【ついに顔出し!?】【ファンミの案内?】【ライブ決定のお知らせじゃない?】【ブランドの立ち上げとか?】
正直、どの可能性も捨てがたいし、事実だったら嬉しい。ニヤケながら画面をスクロールして、隣を向く。
「千島さんもよかったら一緒に見ます?」
ウキウキで尋ねて思い直す。千島さんがYukiちゃんのファンをしていたのは偽りの姿だったのだ。
「あの――」
「見ようかな」
慌てて訂正しようとしたが、千島さんは短く告げ、画面を見るためこちらとの距離を縮めてきた。
ち、近い!
とっさに そう思ったものの誘ったのは私だ。彼に他意はない。
心臓がやや早鐘を打ち出すが、生配信が始まり私の意識はあっさりそちらに奪われる。
『こんばんは。Yukiです。みんな、今夜もありがとう!』
ああああああ。神! Yukiちゃん、可愛い! このワンピースどこのだろう? すっごく似合ってる! ネイルも素敵。シンプルなのにゴールドラメがいい。今度真似しよう!
これで明日からも仕事頑張れる。
ひとりなら間違いなく全部口にして身悶えしているが、ここは外ですぐ隣には千島さんがいるので理性を総動員させて抑え込む。
Yukiちゃんはいつも通り、今日のファッションのポイントについて語り出す。あとで誰かまとめてくれているからチェックしにいこう。
自然と頬が緩んで画面に釘付けになっていると、不意に視線を感じ、広告が流れたタイミングで隣を見ると至近距離で千島さんと目が合った。
「えっ――」
「Yukiよりも桂木さんを見ている方が面白いなって」
にこりと微笑み、千島さんは悪びれもなく答えた。いつもの彼らしくないというか、なんというか。
「ち、千島さん、酔っています?」
あたふたしつつ尋ねると、千島さんの唇がゆっくりと動く。
「そうだね。酔っているのかもしれない」
そう言った瞬間、彼の頭が私の肩にもたれかかる。
「ち、千島さん!?」
重たさと温もりを同時に感じ、思わず立ち上がりそうになったのを必死で堪え、固まったまま横目に彼をうかがう。
「だ、大丈夫ですか? 吐きそうです?」
彼の心配半分、この体勢に動揺が隠せないのを隠すのが半分。それにしても千島さん、こんなにお酒が弱いのに、どうして私のためにここまでしてくれるんだろう?
『だから、桂木さんで証明させてほしい。女性を幸せにできるんだって』
そのために無理をさせている? この前、千島さんに付き合ったもののほとんど役に立たなくて、むしろ迷惑をかけてしまったのに……。
「千島さん、私――」
「ごめん」
私が口火を切ったのとほぼ同時に、千島さんが頭を上げて謝罪を口にした。どうして千島さんが謝るのか。混乱しながらも千島さんに視線を送ると、彼は気まずそうに目線を逸らした。
「桂木さんが断れないのをいいことに、甘えすぎていた。これじゃさっきの橋爪課長と同じだ」
「同じじゃないです!」
嫌悪感混じりに呟いた千島さんの言葉を私は反射的に否定した。目を丸くする千島さんに私は訴える。
「さっきも言いましたけれど千島さんを見習って……次はちゃんと断ろうって思いました。自分の気持ちをきちんと主張しようって……だから、今も迷惑だったら千島さんに言ってます」
これは本音だ。酔いが醒めるまで彼のそばにいると決めたのも、この距離の近さを戸惑いながらも受け入れていたのも私の意思だ。
「どうして?」
一瞬、心が読まれたのかと驚く。頭の中に浮かんだ疑問をまさか千島さんから尋ねられるとは。
「なんで俺は迷惑じゃないの?」
千島さんの声がやけに低く、眼鏡の奥の瞳が真っすぐに私を捉えた。おかげで彼から目が離せなくなる。
「俺が課長との間に入ったから?」
答えない私に彼が囁くようにしてさらに尋ねてくる。心臓が早鐘を打ち出し体温が上昇する。
助けてもらったから、という思いがないわけでもない。それよりも、もしかして下心があると思われている?
「ち、千島さんは……友人だからです!」
半ば叫ぶようにして答え、場所と時間を思い出し慌てて口を噤んだ。そして声のトーンを落として言い訳めいた口調で続ける。
「お互いに素の姿を知っているわけですし。困っているときはお互いさまと言いますか……」
声にしながら自分に言い聞かせている部分もあった。千島さんを見ると、彼は目を見開いて固まっていた。
もしかして友人なんて図々しかった? 彼は女性に苦手意識があるのに。なにかフォローを入れようとしたら、突然、千島さんが噴き出した。
その様子に今度は私が面食らう。
口元を押さえ、笑いだす千島さんの姿が意外で、いつも職場では無愛想な彼からは想像できない。千島さんって笑うとこんな感じなんだ。
「桂木さんっておもしろいよね」
笑みをこぼしながら千島さんが漏らした。どういう意味で捉えていいのかわからず反応に困る。千島さんはわざと癖をつけている前髪を掻き上げた。
「ありがとう。桂木さんの同僚から友人に昇進できて光栄だよ」
あ、そうだ。職場では無口で冷たい印象だったけれど、本当の千島さんはおしゃべり上手でこうして茶目っ気混じりにお世辞も言う人だった。
この前、ふたりで出かけたときのことを思いだす。今、彼が素に近い状態でいるのだと思うと、なんだか胸が温かくなる。
「大袈裟ですよ、仕事じゃないんですから」
気を取り直して、Yukiちゃんの動画に集中しようとする。
いつもはなにを差し置いてもYukiちゃんを優先するのに、つい千島さんと話し込んでいた。
一応、千島さんにも見えるようにスマホを持ち直す。いつも通りYukiちゃんのおすすめのコスメや食べ物などを近況と共にゆるゆると語っている。
「桂木さん」
「なんでしょう?」
今度は千島さんの方を向かずに返す。彼の呼び掛けもそれくらい軽いものだったから。
「桂木さんにとって同僚から友人に昇進できたのなら、俺の頑張り次第ではさらに特別な存在になれる?」
「え?」
動画を見ながらだった私は、千島さんがなにを言ったのかよく聞こえなかった。思わず聞き返すと、彼が真剣な顔でこちらを見ていた。
この表情を私は知っている。たしか彼に――
『ここで、いつも応援してくれるみんなに大事なお知らせがあります。今月いっぱいで、私Yukiはすべての活動を無期限で休止します』
私のすべての意識はスマホ画面に釘付けになる。
今、なんて――。
『この決断をするのにすごく悩みました。けれど、一度立ち止まって、これからのことを考えたいなという結論になったんです』
「嘘……」
画面を自分の方に引き寄せ、ボリュームを最大にする。空耳でもエイプリルフールでもドッキリでもなければ、のっとりでもない。これは現実?
Yukiちゃんが、活動休止? 無期限って……もう見られないし、会えないかもしれないってこと――?
「桂木さん?」
千島さんの声がどこか遠い世界からのものに聞こえる。実際、目の前が真っ暗だ。
推しが、神が――この世からいなくなる?
誰か、誰か嘘だと言ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。


