世界一の××を君に
第3話
神は死んだ……って誰の言葉だっけ? たしか有名な哲学者だったような気がする。
力なくベッドに寝転びながらスマホ画面を見つめひたすら流れてくるゼックスをチェックしていた。
【Yuki活動停止って、もしかしてなにかやらかして雲隠れとか?】
【逮捕とかあったりして】
【男絡みのスキャンダルじゃない?】
【クスリとか?】
【えー。だったらショック】
違う! 絶対に違う!
内心で反論しつつ私は、なにも呟けずにいる。そうこうしているうちに空が白みはじめていた。
ほぼほぼ寝られなかった………。
頭は重いのに逆に目は冴えている。
Yukiちゃんが突然の無期限活動休止を発表し、その瞬間から界隈は大騒ぎだった。まさかのヨフートップニュースにまで掲載され、面白半分の人やインフルエンサーが持論を展開し、憶測が憶測を呼んで、情報を収集しとうとしていた私はその煽りをもろに喰らってダメージを受けていた。
昨日、Yukiちゃんの衝撃発言を聞いたあと、どうやって家まで帰ってきたのかはあまり覚えていない。
『桂木さん、大丈夫? 明日、仕事に出られそう?』
黙り込み、無気力で足元が覚束ない私を千島さんは支えてくれていた。
ポツポツとアパートの場所を口にして彼に送ってもらい、戸締まりはしっかりするように、ちゃんと寝るようにとまるで子どもみたいな扱いを受ける。
それほどまで私は頼りなかったのだろう。
って、また千島さんに迷惑かけてどうするの!?
ふと冷静になり、布団の中にもぐる。気が動転していたとはいえ、やらかしてしまった。落ち込んでいるうえ、さらなる自己嫌悪で仕事を休みたくなる。
Yukiちゃんの限定グッズを買うためや抽選に応募するため、平日に有休を使う必要もこれからはなさそうだし……。
頭を振って考えをかき消す。
ダメだ。大好きなYukiちゃんのためにも、心配をかけた千島さんのためにも、きちんと仕事に行こう。それに今月いっぱい、最後までYukiちゃんを応援しないと!
重い体をベッドから引きずり出し、出社の準備にかかった。
とはいえ……。
「桂木さん、顔色悪いけれど大丈夫?」
「平気です」
昨日、話題の中心となっていた坂野さんから心配そうに声をかけられる。いつも通り出社して仕事をこなしながらも、負のオーラは隠せなかったらしい。
意外と私ってわかりやすい人間なのかな。いや、でも一大事なわけだし。
何人かの同僚から体調を気遣われたが、ひたすら仕事に打ち込んだ。
「なにかあったの?」
昼休みに改めて尋ねられ、まさかの推しが無期限活動休止になったとは説明できず、差し障りのない答えを探す。
「あ、いえ……。ちょっとプライベートでショックなことがあって」
「えー! なに失恋?」
どうしてそういう考えになるのか。苦笑しつつ適当に誤魔化し、その場は難を逃れた。
それにしても、周りに心配をかけるなんて社会人失格だ。とにかく仕事でミスだけはしないようにしよう。
千島さんに昨日のお詫びをしようと思ったが、職場ではどうも声をかけるタイミングが計りづらい。
「桂木さん、急ぎなんだけど、この資料の作成も頼める?」
「はい!」
機会があったら言えばいいか。とにかく今は仕事だ!
【だから神はひとりではなく複数を信仰すべきだって言ったじゃん】
【そうかもしれないけれど、Yukiちゃんほど応援したいって思える神が現れなかったんだもん】
仕事を終え、ベッドで寝転びながらSNSで知り合ったザワミーさんとやりとりをする。SNSは見るのが基本だが、このザワミーさんはYukiちゃんに関して呟いている内容やファンとしてのスタンスがすごく共感できるので、思いきって私から声をかけた。おかげでけっこう長い付き合いになる。
とはいえリアルでは会ったことない。この前の握手会も来ていたみたいだけれど、お互いに『会いましょう』とはならなかった。そんな距離感も心地いい。
【Mintは本当にYukiが好きだね。そんなので私生活どうなってるの?】
【それなりに過ごしてるけど、まだまだショックが大きすぎて】
私のアカ名は名前をもじって『Mint』にしている。Yukiちゃんをリスペクトしてつけたのは言うまでもない。
ザワミーさんとやりとりする前に見た他のファンの投稿を思い出す。同じファンでも今回の件はそれぞれ捉え方が違っている。SNSでは否定的な見方をするファンも少なくはなかった。
【どうせYukiも話題作りですぐに帰ってくるんじゃない?】
【最近、多いよね。休止とか大事なお知らせとか言って、そんなに間をおかず復帰するパターン】
【結果的にヨフーにも載って、知名度も上がったしね】
Yukiちゃんはそんな打算的な性格じゃない!……たぶん。
相変わらず心の中だけで反論する。レスバをするつもりも、自分の考えを押し付けることもしない。ただ、Yukiちゃんはファンの悩みにもいつも真摯に応えて、真面目な性格だ。きっとこの活動休止もすごく悩んで決めたのに違いない。
そんな想いと愚痴をザワミーさんにひたすらぶつけていた。
【Yukiちゃんが幸せでいてくれたら私は十分に幸せだよ】
結論を告げると、すぐさま返事がある。
【うわっ。悟ったね。で、そういうタイプに限ってあっさり他に神を見つけてきたりするんだよ】
【そんなことない!】
タップして反論する。
【まあ、神はアイドルや二次元だけとは限らないし。リアルでいい人いないの?】
まったく。いたらこんな状況にはなっていない。
その心の呟きをまんま返して、ザワミーさんとのやりとりを終えた。
張りきっていたからか、気を紛らわせというお達しなのか、珍しく連日残業続きとなり、あっという間に今週が終わろうとしていた。
今日も疲れた……。
仕事を終え会社を出ると、むわっと湿った生温い空気が肌にまとわりつき不快感に眉をひそめる。忙しさと時間の経過によって心は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
そういえば今日、千島さんお休みだったな。
あれから彼とはまともに会話していない。ここまでくると、蒸し返してあれこれ言うのもなんか憚れる。
体調を崩しているとかじゃないといいんだけれどな。あ、でもプライベートな用事かもしれないし。
って、なんで私は千島さんのことをあれこれ考えているの!?
ツッコミを入れながら足を動かす。これは、その……千島さんは友人だって自分でも言ったからで。
「流通管理部の……桂木さん? 」
部署と名前を呼ばれ、振り向く。そこには知らない女性が立っていた。
サラサラの手入れされている茶色い髪が肩下で揺れ、メイクもバッチリ決めている彼女はこちらを睨みつけるように鋭い視線を送ってくる。
「はい、そうですけど」
仕事関係者だろうかと身構えつつ頷くと、女性はあきらかに不機嫌な表情になる。
「私、流通管理部の坂野浩太と付き合っている経理部の宮崎祥子ですけど」
「はあ」
唐突な自己紹介に圧倒され、簡単に頷く。
「坂野さんにはいつもお世話になっています」
ひとまず無難な挨拶を返すと、宮崎さんの細い眉が釣り上がった。
「あなたが浩太を狙っていたって聞いて、会いに来たの」
「……はい?」
ところが彼女が続けた言葉に私は硬直してしまった。
誰が、誰を狙っているの? 狙っているって……。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんでそんな話に?」
あまりにも突拍子のない事態に私の頭は混乱するばかりだ。
「否定しないってことは事実なわけ?」
なんでそんな受け取り方をするのか。私は勢いよく首を横に振った。
「事実ではありません。坂野さんのことなんとも思ってません」
「嘘つかないでよ。あなたが浩太が私と付き合っているって聞いた日から、あきらかに落ち込んで失恋したって言ってたって聞いたけど?」
訳がわからない。とにかく自分なりに話を整理してみる。
そ、そういえば飲み会で坂野さんが彼女ができたって話をしていて、あの日はYukiちゃんの無期限活動休止を聞いて、屍みたいなって千島さんに迷惑をかけた。その翌日、顔色や体調を心配されて、その中でたしか……。
『あ、いえ……。ちょっとプライベートでショックなことがあって』
『えー! なに失恋?』
あ、あれ? あれなの?
なんとか自分の中で答えを導き出したものの宮崎さんがとんでもない勘違いをしているのは間違いない。
「誤解です。坂野さんはまったく関係のない違うことでショックな出来事があって、それで落ち込んでいたんです」
「嘘つかないでよ。そう言って同情誘って、浩太の関心を引こうとしてるんでしょ? 同じ部署でやりとりも多いだろうし」
ヒートアップしていく彼女に、逆にこちらが冷静になっていく。
宮崎さん、不安なんだ。
坂野さんはモテるし、恋人が途切れないようなことを聞いた。
『彼女がいたこともあったけれど、不安を募らせ、疑われて、束縛が激しくなって……最後はだめになる。結局俺は女の子みんな不幸にするんだよね』
寂しそうに告げた千島さんの顔が浮かんだ。
私には経験ないけれど、恋愛って幸せで、楽しいものじゃないの?
「浩太にあなたのことを言ったら、ありえないって笑ってたわよ。地味でおとなしくてまったく好みじゃないって」
宮崎さんの言葉に、胸がズキリと痛む。坂野さんにどう思われようと関係ないし、彼を異性として意識したこともない。それでも、なんで勝手に話題にされて値踏みされないとならないの?
「身の程を知りなさいよ。あなたが相手されるわけないでしょ」
悔しくて唇を噛みしめる。一方で宮崎さんは満足げに鼻を鳴らした。言いたいことを言って彼女の気は済んだのか。なら、私がどう反論したところで………。
『次はちゃんと断ろうって思いました。自分の気持ちをきちんと主張しようって……だから、今も迷惑だったら千島さんに言ってます』
そうだ、決めたんだ。
真っ直ぐに宮崎さんを見つめる。
「坂野さんはただの同僚で、異性として、なんとも思っていません。大体、付き合っている彼女をこんなに不安にさせる人、こっちから願い下げです」
「なっ」
静かにはっきりと告げると、宮崎さんの顔が怒りで歪む。余計なことまで言ったかもしれないと罪悪感が一瞬、滲んだ。
「あなたなんて、そもそも大事にしてくれる彼氏もいないくせに!」
「そんなことはないけど?」
突然、背後から肩に手を置かれ温もりと知っている声に驚く。
そこには髪型をバッチリ整え私服姿の千島さんの姿があった。
「千――」
「仕事、お疲れさま。早く会いたくて迎えにきたんだ」
私の言葉を遮るように、千島さんはにこりと続けた。
アイボリーのパーカーに細身のジーンズを合わせてカジュアルだけれどシンプルにお洒落にまとめている。普段の彼とはまったく異なる雰囲気だ。
驚いたのは私だけではなく、宮崎さんもぽかんと口を開けて千島さんに視線を送っている。千島さんは笑みを湛えたまま宮崎さんの方をちらっと見つめた。
「そういうわけで全部、君の勘違いだから。不安は彼女ではなく恋人にぶつけるべきだ。少なくとも俺は、関係を否定するために同僚を馬鹿にする暇があるなら、その分、恋人が安心できるように言葉と態度で示すけどね」
顔は笑っているのに声は冷たい。宮崎さんは、図星だと思ったのか怒ったような傷ついた表情になった。
「いずれにせよ大事な彼女を侮辱するのは許せない」
千島さんが告げると宮崎さんは顔をしかめたまま踵を返し、その場をさっさと走り去っていく。彼女になにか声をかけたいのに、言葉が出てこなかった。
宮崎さんのうしろ姿を見つめ千島さんに目を向ける。
「あれ?」
ところが、そこには彼の姿はなかった。
「え、え?」
きょろきょろと辺りを見渡すと、建物と建物の細い隙間に人影を見つけた。
「千島さん!」
慌てて駆け寄り声をかけると、千島さんはパーカーのフードを深くかぶり身を縮めている。
「ど、どうしたんですか?」
「桂木さん……」
慌てて尋ねると、打って変わって力ない声で返される。さっきまで私と宮崎さんとの間に入り、堂々と話していた彼と同一人物なのか思わず疑ってしまいそうになるほどの豹変ぶりに首を傾げた。
そこに高校生らしき女の子たちが数人走ってきた。全員スマホを片手にきょろきょろと辺りを見渡している。
「ねぇ、さっきのイケメンどこ? めっちゃカッコよかったよね!」
「こっちの方に来た気がするけど」
「こっそり撮った写真ブレてたんだよね。手ブレ修正してもいまいちだし」
「あー、もう。インスタかゼックスとかで探せないかなー。どう見ても二十代だったよね。大学生とかかな」
もしかして彼女たちが探しているのって……。
すぐに見当がつき、私は千島さんを隠すような角度で立った。
人通りはそこまで多くないが、仕事終わりのサラリーマンたちが行き交う中、女子高校生たちは気まずそうに場所を移していった。
「彼女たち、もう行きましたよ」
「ありがとう」
千島さんに小声で告げると、彼はため息混じりにお礼を告げた。
「千島さん、今日お休みだったのにどうして会社へ?」
「いや、それがさ。出かけていたら、部長からシステムに不具合が出たらしく、別の人が担当しているけれど、もしも都合がついたら会社に来てほしいって連絡があって……」
なるほど。それで彼は私服でここにいたらしい。
「意外と近くにいたから、終業時間も過ぎているし人も少ないだろうって、そのまま会社の近くまで来たものはいいものの、さっきの女の子たちに絡まれちゃって」
大まかな流れは理解できたけれど、話すたびに千島さんの顔に疲労の色が滲んでいくのは気のせいだろうか。
「だったら私を無視して、さっさと会社に入ったらよかったじゃないですか」
発言してすぐに後悔する。わざわざ間に入って助けてくれた彼に言うことじゃない。
なにかフォローしようとしたら、千島さんが苦笑した。
「桂木さんが、あんなふうに一方的に罵倒されて黙って通り過ぎるなんてできないよ」
彼の言葉になぜか心臓が跳ねる。そんな私に気づくことなく、彼は私を見た。
「でも必要なかったね。桂木さん、ちゃんと言い返せていたじゃん」
先輩が後輩を褒めるような口調と優しい笑顔。
『坂野さんはただの同僚で、異性として、なんとも思っていません。大体、付き合っている彼女をこんなに不安にさせる人、こっちから願い下げです』
いつもの私なら言われるままで嵐が過ぎ去るのを持っていた。ああやって言い返せたのは――。
千島さんは、深く息を吐いた後、私の横を通って会社の玄関に向かおうとした。とっさに自分の鞄の中に手を突っ込み、あるものを取り出して千島さんに差し出す。
「これ」
振り向いた彼に渡したのは個包装になっているマスクだった。
「気休めですけれど、それをつけてこっちに来てください」
戸惑いつつ千島さんおとなしくマスクをつけた。パーカーのフードをかぶったままの彼を正面玄関とは逆の方へ促す。
「ここは?」
「業者専用の裏口です。こっちは守衛さんひとりなので会社の人にもほとんど会わずにすみませんよ。社員証はありますよね?」
彼は小さく頷いた。正面玄関とは対照的にひっそりとした裏口になっている。
「ありがとう」
笑顔でお礼を言われ、わずかに間が空いた後、私は口を開く。
「こちらこそ、さっきはありがとうございました」
改めて深々と頭を下げる。
「千島さんは、ちゃんと言い返せていたって言いましたけど、全然です。一方的に言われっぱなしでした」
きっと千島さんがあの場に現れなかったら、宮崎さんはもっと私に苛立ちと見下した思いをぶつけてきただろう。
千島さんがなにか言いかけたのを遮り、「でも――」と続ける。
「今までならただ耐えるだけだったのに、ああやって自分の気持ちを口に出せたのは、千島さんのおかげです」
私も彼みたいに自分の意見を言えるようになりたい。見習いたいって。
行動に移せた自分が少しだけ誇らしい。
そこで、なんだか気恥ずかしくなり素早く回れ右をする。
「お、お疲れ様でした。私はここで」
「桂木さん」
ところが呼び止められ、今度は私が彼に目を向ける。
「その、よかったらドドールで待っていてもらえるかな? すぐに終わると思うから」
ドドールは会社の入っているビルの一階にあるコーヒーチェーン店だ。
どうして? 時間はあるし、待つのはいいんだけれど、なにかあるのかな?
予想外の展開に混乱しつつ考えを巡らせる。しばらくして、はっと閃いた。
「用事があるなら――」
「いいえ。前回は千島さんを送っていけなかったので、今日はきちんと送り届けます。さっきの女子高生たちに遭遇する可能性もありますし」
私は真顔で答えた。前回、使い物にならなかった汚名を返上しないと!
対する千島さんは眉尻を下げ、途端に困惑めいた顔になったのがマスク越しでも伝わる。顔が整っている人はマスクをしていても十分に魅力的だ。彼は軽く鼻にかかる部分に指をかけた。
「これもありがとう。急いで行ってくる」
さっさと現場に向かった千島さんだが、私も移動する。それにしても、あのままの格好で大丈夫なのかな? マスクをしているとはいえ少なくとも中澤部長は待っているだろうし……。
あれこれ心配してもしょうがない。
金曜日の午後七時半過ぎ。店内はそれなりに混んでいたけれど、ちらほら空席はある。カウンターでコーヒーを注文し、私は席についた。職場に近いからこそ普段はあまり利用しないから、仕事終わりに少しだけ贅沢な時間だと感じる。
Yukiちゃんの配信アーカイブでも聞こうかな。でも場所が場所だし。
カップを置き、項垂れる。
私、Yukiちゃん以外に趣味も楽しみも余暇の過ごし方もないんじゃない?
自覚して泣きそうになる。とりあえず、今日の夕飯はなににしようか。カフェのサイドメニューは甘いものメインでこの時間は売り切れの品も目立つ。
料理は嫌いではないけれど一人分って面倒くさい。メニューを考えるのも含めて誰か作ってくれないかなぁ。
そんなことをぼんやり考えた。
「夕飯はパスタでどうかな?」
隣に座る千島さんから明るく尋ねられたが、私はイエスともノーとも言えなかった。
「時間も遅いし簡単なものしかできないけど、桂木さん、苦手なものとかアレルギーとかある?」
「とくに、ないです……」
あの後、ほぼ待つことなく千島さんは現れた。お疲れ様でした、と労うとタクシーで帰る旨を告げられる。
タクシーを使うなら私は必要ないのでは?と思いながら、それなら私はいつも通り電車で帰ろうと頭の中で予定を組み立てる。そのとき千島さんから夕飯に誘われたのだ。
『さっきのお礼に夕飯をご馳走させてもらえないかな?』
彼が私に待ってほしいと言った意味を悟り首を横に振る。
『そんなお気遣い無用です! この前は私がお世話になりましたし』
しかし千島さんは譲らず、しばらく押し問答を続け至った結論が、千島さんの家でご飯をご馳走になるというむしろハードルが上がった展開となった。
「エキスポのお礼にYukiのアクスタをあげるって言ってたし、見てもらった方が早いだろうから」
これを言われると断るわけにはいかない。
会社に持ってきてもらうわけにもいかないし。
「トラブルの方は大丈夫でした?」
話題をなんとなく変えたくて今日の件を振る。
「ああ。俺が行ったときはほとんど解決していたよ」
よかったですね、と喉まで出かかり飲み込む。休日にあんな思いまでして会社に行った千島さんの苦労を考えると、簡単には言えない気がした。
現に彼は「ほぼ、無駄足だった」と続ける。
「けれど――桂木さんに会えたから会社に行ってよかった」
にこやかに答えられ、目を見開く。それからぱっと視線を逸らし、早鐘を打つ心臓を押さえた。
な、なんなのこの胸の動悸は? 義理堅い千島さんが、約束していたYukiちゃんのアクスタを私に渡せるからって意味で言っただけなのに………。
変に意識すぎだ。とはいえ無理はない。社会人になって多少マシにはなったものの私にとって男性は極力関わりたくないし、ずっと苦手で縁がない存在だった。
だから千島さんのストレートな言葉をどう受け取っていいのかわからない。
ただ、千島さんは私が苦手としてきた男性とは違う。変に見下したり値踏みする真似はしない。私のことを同僚として、友人として大切に、対等に接してくれている。だから――。
「ありがとうございます。私も千島さんに会えてよかったです」
さっきもなんだかんだ言って、宮崎さんとの間に入って助けてもらった。彼の優しさを私も返したい。
そんな気持ちで告げたのに、千島さんはこちらの顔をじっと見てくる。ややあって彼は大きくため息をついて項垂れた。
なにかまずいことを言っただろうかと慌ててると彼がぽつりと呟く。
「桂木さんって………天然だよね」
どういう意味なのか。少なくとも、今までそんなふうに言われたことはない。
「な、なんですか? 先に千島さんが言うから、それで………」
反論しようとしたものの、千島さんがタクシーの運転手に止まる場所について指示を出す。ほどなくして停車し、ひとまずお礼を告げてタクシーを降りた。
「え………」
降りて驚く。素人目に見てもかなり高級で立派な、いわばタワマンだ。
「千島さん、ここに住んでいるんですか?」
彼は専門職だし、私よりも年齢も上だ。とはいえ、こんなところに住めるなんて………。
疑問が顔に出ていたのか、千島さんは気まずそうに頬をかいた。
「錦食品とは別に、フリーで他にも収入源はあるから」
「なるほど」
千島さんは正社員ではなく外部の人間なので、他でも仕事をしていること自体は悪いことでも驚くことでもない。それにしても、ここに住むには相当な収入がないと難しいだろうから、千島さんはやっぱりすごい。
「生活自体は質素で庶民だし、どう考えてもここに住むような人間じゃないけれど……」
一方で千島さんは苦々しく続ける。
「何度も身に危険を感じた経験から、住む場所はセキュリティとプライバシーを最重視して選んでいたら、気づけばこのマンションに――」
「それでいいと思います!」
項垂れる千島さんに即座に答える。彼の経験からすると、譲ってはいけない部分だ。
エントランスは明るく広々として、ホテルの受付さながらの雰囲気でコンシェルジュと呼ばれる中年男性が「おかえりなさませ」と恭しく頭を下げる。まるでドラマだ。
きょろきょろ視線を飛ばしながら、千島さんについていく。普通のエレベーターに乗ろうとしたら止められ、別の方向を指定された。どうやら上階層は専用のエレベーターがあるらしい。世界が違い過ぎると思いながら、中に乗り込み無意識止めていた息をそっと吐いた。
そこで気になっていたことを口にする。
「そういえば、プライベートの格好で会社に行って、中澤部長驚きませんでしたか?」
私の疑問に、千島さんは少しだけためらったあと、口を開く。
「周りに言っていないけれど中澤さんは、高校のときの先輩で……」
「そうなんですか!?」
意外なつながりに驚く。私はあまり会話したことはないけれど、中澤部長は優秀で人望も厚く、若いのに部長に抜擢されたけれど驚く社員は誰もいなかった。
「俺を錦食品に声をかけてくれたのも中澤さんだったんだよね」
千島さんはエレベーター内のモニターを見つめながら続ける。
「本当は在宅で誰とも会わずに仕事をしようと思っていただけれど――」
「先輩に言われると断れないですよね」
彼の続きを予想して答える。驚いたような顔の彼と目が合い、私にはにこりと微笑んだ。
「それに千島さん、誰かと仕事するの――本当は人と関わるの、好きですよね」
職場では無愛想で無口。でも仕事は確実で、責任感もある。異性を避けてはいても誠実で、こうして私と友人になったわけだし。
そのとき、エレベーターが止まった。五十を超えた数字は初めて見る。
「あ、それから桂木さん――」
「どうされました?」
降りたところで声をかけられ、千島さんを見ると彼はふいっと視線を逸らした。
「いや、なんでもない」
「な、なんですか! 言いかけてずるいですよ。気になります」
つい声を上げてしまったが、共有スペースで迷惑だ。一度口をつぐんで、千島さんについていく。
後でちゃんと聞かないと。そう決意していると千島さんが足を止めた。ドアの前でもないのでどうしたのかと思ったら、彼の目線の先には女性が立っていた。顔はよく見えない。
ご近所さん? それとも千島さんへの来客者? まさか彼を狙った女性が……。
千島さんを庇うつもりで彼の前に出ようとする。すると女性の視線がこちらを向いた。
え?
「あ!」
相手も小さく声を上げた。もちろん私ではなく私のうしろの千島さんを見てだ。その声を聞いて電流が走ったような衝撃に襲われる。
な、なんで……。
素顔を公表していないけれど、全体の雰囲気、声、そして最近の生配信のときに見たネイル。
そんなはずない。でもずっと見てきたからわかる。彼女は――。
「ゆ、Yukiちゃん!?」
夢か幻か。目の前には私の神が――生き甲斐もとい最推しのYukiちゃんが立っていた。
力なくベッドに寝転びながらスマホ画面を見つめひたすら流れてくるゼックスをチェックしていた。
【Yuki活動停止って、もしかしてなにかやらかして雲隠れとか?】
【逮捕とかあったりして】
【男絡みのスキャンダルじゃない?】
【クスリとか?】
【えー。だったらショック】
違う! 絶対に違う!
内心で反論しつつ私は、なにも呟けずにいる。そうこうしているうちに空が白みはじめていた。
ほぼほぼ寝られなかった………。
頭は重いのに逆に目は冴えている。
Yukiちゃんが突然の無期限活動休止を発表し、その瞬間から界隈は大騒ぎだった。まさかのヨフートップニュースにまで掲載され、面白半分の人やインフルエンサーが持論を展開し、憶測が憶測を呼んで、情報を収集しとうとしていた私はその煽りをもろに喰らってダメージを受けていた。
昨日、Yukiちゃんの衝撃発言を聞いたあと、どうやって家まで帰ってきたのかはあまり覚えていない。
『桂木さん、大丈夫? 明日、仕事に出られそう?』
黙り込み、無気力で足元が覚束ない私を千島さんは支えてくれていた。
ポツポツとアパートの場所を口にして彼に送ってもらい、戸締まりはしっかりするように、ちゃんと寝るようにとまるで子どもみたいな扱いを受ける。
それほどまで私は頼りなかったのだろう。
って、また千島さんに迷惑かけてどうするの!?
ふと冷静になり、布団の中にもぐる。気が動転していたとはいえ、やらかしてしまった。落ち込んでいるうえ、さらなる自己嫌悪で仕事を休みたくなる。
Yukiちゃんの限定グッズを買うためや抽選に応募するため、平日に有休を使う必要もこれからはなさそうだし……。
頭を振って考えをかき消す。
ダメだ。大好きなYukiちゃんのためにも、心配をかけた千島さんのためにも、きちんと仕事に行こう。それに今月いっぱい、最後までYukiちゃんを応援しないと!
重い体をベッドから引きずり出し、出社の準備にかかった。
とはいえ……。
「桂木さん、顔色悪いけれど大丈夫?」
「平気です」
昨日、話題の中心となっていた坂野さんから心配そうに声をかけられる。いつも通り出社して仕事をこなしながらも、負のオーラは隠せなかったらしい。
意外と私ってわかりやすい人間なのかな。いや、でも一大事なわけだし。
何人かの同僚から体調を気遣われたが、ひたすら仕事に打ち込んだ。
「なにかあったの?」
昼休みに改めて尋ねられ、まさかの推しが無期限活動休止になったとは説明できず、差し障りのない答えを探す。
「あ、いえ……。ちょっとプライベートでショックなことがあって」
「えー! なに失恋?」
どうしてそういう考えになるのか。苦笑しつつ適当に誤魔化し、その場は難を逃れた。
それにしても、周りに心配をかけるなんて社会人失格だ。とにかく仕事でミスだけはしないようにしよう。
千島さんに昨日のお詫びをしようと思ったが、職場ではどうも声をかけるタイミングが計りづらい。
「桂木さん、急ぎなんだけど、この資料の作成も頼める?」
「はい!」
機会があったら言えばいいか。とにかく今は仕事だ!
【だから神はひとりではなく複数を信仰すべきだって言ったじゃん】
【そうかもしれないけれど、Yukiちゃんほど応援したいって思える神が現れなかったんだもん】
仕事を終え、ベッドで寝転びながらSNSで知り合ったザワミーさんとやりとりをする。SNSは見るのが基本だが、このザワミーさんはYukiちゃんに関して呟いている内容やファンとしてのスタンスがすごく共感できるので、思いきって私から声をかけた。おかげでけっこう長い付き合いになる。
とはいえリアルでは会ったことない。この前の握手会も来ていたみたいだけれど、お互いに『会いましょう』とはならなかった。そんな距離感も心地いい。
【Mintは本当にYukiが好きだね。そんなので私生活どうなってるの?】
【それなりに過ごしてるけど、まだまだショックが大きすぎて】
私のアカ名は名前をもじって『Mint』にしている。Yukiちゃんをリスペクトしてつけたのは言うまでもない。
ザワミーさんとやりとりする前に見た他のファンの投稿を思い出す。同じファンでも今回の件はそれぞれ捉え方が違っている。SNSでは否定的な見方をするファンも少なくはなかった。
【どうせYukiも話題作りですぐに帰ってくるんじゃない?】
【最近、多いよね。休止とか大事なお知らせとか言って、そんなに間をおかず復帰するパターン】
【結果的にヨフーにも載って、知名度も上がったしね】
Yukiちゃんはそんな打算的な性格じゃない!……たぶん。
相変わらず心の中だけで反論する。レスバをするつもりも、自分の考えを押し付けることもしない。ただ、Yukiちゃんはファンの悩みにもいつも真摯に応えて、真面目な性格だ。きっとこの活動休止もすごく悩んで決めたのに違いない。
そんな想いと愚痴をザワミーさんにひたすらぶつけていた。
【Yukiちゃんが幸せでいてくれたら私は十分に幸せだよ】
結論を告げると、すぐさま返事がある。
【うわっ。悟ったね。で、そういうタイプに限ってあっさり他に神を見つけてきたりするんだよ】
【そんなことない!】
タップして反論する。
【まあ、神はアイドルや二次元だけとは限らないし。リアルでいい人いないの?】
まったく。いたらこんな状況にはなっていない。
その心の呟きをまんま返して、ザワミーさんとのやりとりを終えた。
張りきっていたからか、気を紛らわせというお達しなのか、珍しく連日残業続きとなり、あっという間に今週が終わろうとしていた。
今日も疲れた……。
仕事を終え会社を出ると、むわっと湿った生温い空気が肌にまとわりつき不快感に眉をひそめる。忙しさと時間の経過によって心は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
そういえば今日、千島さんお休みだったな。
あれから彼とはまともに会話していない。ここまでくると、蒸し返してあれこれ言うのもなんか憚れる。
体調を崩しているとかじゃないといいんだけれどな。あ、でもプライベートな用事かもしれないし。
って、なんで私は千島さんのことをあれこれ考えているの!?
ツッコミを入れながら足を動かす。これは、その……千島さんは友人だって自分でも言ったからで。
「流通管理部の……桂木さん? 」
部署と名前を呼ばれ、振り向く。そこには知らない女性が立っていた。
サラサラの手入れされている茶色い髪が肩下で揺れ、メイクもバッチリ決めている彼女はこちらを睨みつけるように鋭い視線を送ってくる。
「はい、そうですけど」
仕事関係者だろうかと身構えつつ頷くと、女性はあきらかに不機嫌な表情になる。
「私、流通管理部の坂野浩太と付き合っている経理部の宮崎祥子ですけど」
「はあ」
唐突な自己紹介に圧倒され、簡単に頷く。
「坂野さんにはいつもお世話になっています」
ひとまず無難な挨拶を返すと、宮崎さんの細い眉が釣り上がった。
「あなたが浩太を狙っていたって聞いて、会いに来たの」
「……はい?」
ところが彼女が続けた言葉に私は硬直してしまった。
誰が、誰を狙っているの? 狙っているって……。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんでそんな話に?」
あまりにも突拍子のない事態に私の頭は混乱するばかりだ。
「否定しないってことは事実なわけ?」
なんでそんな受け取り方をするのか。私は勢いよく首を横に振った。
「事実ではありません。坂野さんのことなんとも思ってません」
「嘘つかないでよ。あなたが浩太が私と付き合っているって聞いた日から、あきらかに落ち込んで失恋したって言ってたって聞いたけど?」
訳がわからない。とにかく自分なりに話を整理してみる。
そ、そういえば飲み会で坂野さんが彼女ができたって話をしていて、あの日はYukiちゃんの無期限活動休止を聞いて、屍みたいなって千島さんに迷惑をかけた。その翌日、顔色や体調を心配されて、その中でたしか……。
『あ、いえ……。ちょっとプライベートでショックなことがあって』
『えー! なに失恋?』
あ、あれ? あれなの?
なんとか自分の中で答えを導き出したものの宮崎さんがとんでもない勘違いをしているのは間違いない。
「誤解です。坂野さんはまったく関係のない違うことでショックな出来事があって、それで落ち込んでいたんです」
「嘘つかないでよ。そう言って同情誘って、浩太の関心を引こうとしてるんでしょ? 同じ部署でやりとりも多いだろうし」
ヒートアップしていく彼女に、逆にこちらが冷静になっていく。
宮崎さん、不安なんだ。
坂野さんはモテるし、恋人が途切れないようなことを聞いた。
『彼女がいたこともあったけれど、不安を募らせ、疑われて、束縛が激しくなって……最後はだめになる。結局俺は女の子みんな不幸にするんだよね』
寂しそうに告げた千島さんの顔が浮かんだ。
私には経験ないけれど、恋愛って幸せで、楽しいものじゃないの?
「浩太にあなたのことを言ったら、ありえないって笑ってたわよ。地味でおとなしくてまったく好みじゃないって」
宮崎さんの言葉に、胸がズキリと痛む。坂野さんにどう思われようと関係ないし、彼を異性として意識したこともない。それでも、なんで勝手に話題にされて値踏みされないとならないの?
「身の程を知りなさいよ。あなたが相手されるわけないでしょ」
悔しくて唇を噛みしめる。一方で宮崎さんは満足げに鼻を鳴らした。言いたいことを言って彼女の気は済んだのか。なら、私がどう反論したところで………。
『次はちゃんと断ろうって思いました。自分の気持ちをきちんと主張しようって……だから、今も迷惑だったら千島さんに言ってます』
そうだ、決めたんだ。
真っ直ぐに宮崎さんを見つめる。
「坂野さんはただの同僚で、異性として、なんとも思っていません。大体、付き合っている彼女をこんなに不安にさせる人、こっちから願い下げです」
「なっ」
静かにはっきりと告げると、宮崎さんの顔が怒りで歪む。余計なことまで言ったかもしれないと罪悪感が一瞬、滲んだ。
「あなたなんて、そもそも大事にしてくれる彼氏もいないくせに!」
「そんなことはないけど?」
突然、背後から肩に手を置かれ温もりと知っている声に驚く。
そこには髪型をバッチリ整え私服姿の千島さんの姿があった。
「千――」
「仕事、お疲れさま。早く会いたくて迎えにきたんだ」
私の言葉を遮るように、千島さんはにこりと続けた。
アイボリーのパーカーに細身のジーンズを合わせてカジュアルだけれどシンプルにお洒落にまとめている。普段の彼とはまったく異なる雰囲気だ。
驚いたのは私だけではなく、宮崎さんもぽかんと口を開けて千島さんに視線を送っている。千島さんは笑みを湛えたまま宮崎さんの方をちらっと見つめた。
「そういうわけで全部、君の勘違いだから。不安は彼女ではなく恋人にぶつけるべきだ。少なくとも俺は、関係を否定するために同僚を馬鹿にする暇があるなら、その分、恋人が安心できるように言葉と態度で示すけどね」
顔は笑っているのに声は冷たい。宮崎さんは、図星だと思ったのか怒ったような傷ついた表情になった。
「いずれにせよ大事な彼女を侮辱するのは許せない」
千島さんが告げると宮崎さんは顔をしかめたまま踵を返し、その場をさっさと走り去っていく。彼女になにか声をかけたいのに、言葉が出てこなかった。
宮崎さんのうしろ姿を見つめ千島さんに目を向ける。
「あれ?」
ところが、そこには彼の姿はなかった。
「え、え?」
きょろきょろと辺りを見渡すと、建物と建物の細い隙間に人影を見つけた。
「千島さん!」
慌てて駆け寄り声をかけると、千島さんはパーカーのフードを深くかぶり身を縮めている。
「ど、どうしたんですか?」
「桂木さん……」
慌てて尋ねると、打って変わって力ない声で返される。さっきまで私と宮崎さんとの間に入り、堂々と話していた彼と同一人物なのか思わず疑ってしまいそうになるほどの豹変ぶりに首を傾げた。
そこに高校生らしき女の子たちが数人走ってきた。全員スマホを片手にきょろきょろと辺りを見渡している。
「ねぇ、さっきのイケメンどこ? めっちゃカッコよかったよね!」
「こっちの方に来た気がするけど」
「こっそり撮った写真ブレてたんだよね。手ブレ修正してもいまいちだし」
「あー、もう。インスタかゼックスとかで探せないかなー。どう見ても二十代だったよね。大学生とかかな」
もしかして彼女たちが探しているのって……。
すぐに見当がつき、私は千島さんを隠すような角度で立った。
人通りはそこまで多くないが、仕事終わりのサラリーマンたちが行き交う中、女子高校生たちは気まずそうに場所を移していった。
「彼女たち、もう行きましたよ」
「ありがとう」
千島さんに小声で告げると、彼はため息混じりにお礼を告げた。
「千島さん、今日お休みだったのにどうして会社へ?」
「いや、それがさ。出かけていたら、部長からシステムに不具合が出たらしく、別の人が担当しているけれど、もしも都合がついたら会社に来てほしいって連絡があって……」
なるほど。それで彼は私服でここにいたらしい。
「意外と近くにいたから、終業時間も過ぎているし人も少ないだろうって、そのまま会社の近くまで来たものはいいものの、さっきの女の子たちに絡まれちゃって」
大まかな流れは理解できたけれど、話すたびに千島さんの顔に疲労の色が滲んでいくのは気のせいだろうか。
「だったら私を無視して、さっさと会社に入ったらよかったじゃないですか」
発言してすぐに後悔する。わざわざ間に入って助けてくれた彼に言うことじゃない。
なにかフォローしようとしたら、千島さんが苦笑した。
「桂木さんが、あんなふうに一方的に罵倒されて黙って通り過ぎるなんてできないよ」
彼の言葉になぜか心臓が跳ねる。そんな私に気づくことなく、彼は私を見た。
「でも必要なかったね。桂木さん、ちゃんと言い返せていたじゃん」
先輩が後輩を褒めるような口調と優しい笑顔。
『坂野さんはただの同僚で、異性として、なんとも思っていません。大体、付き合っている彼女をこんなに不安にさせる人、こっちから願い下げです』
いつもの私なら言われるままで嵐が過ぎ去るのを持っていた。ああやって言い返せたのは――。
千島さんは、深く息を吐いた後、私の横を通って会社の玄関に向かおうとした。とっさに自分の鞄の中に手を突っ込み、あるものを取り出して千島さんに差し出す。
「これ」
振り向いた彼に渡したのは個包装になっているマスクだった。
「気休めですけれど、それをつけてこっちに来てください」
戸惑いつつ千島さんおとなしくマスクをつけた。パーカーのフードをかぶったままの彼を正面玄関とは逆の方へ促す。
「ここは?」
「業者専用の裏口です。こっちは守衛さんひとりなので会社の人にもほとんど会わずにすみませんよ。社員証はありますよね?」
彼は小さく頷いた。正面玄関とは対照的にひっそりとした裏口になっている。
「ありがとう」
笑顔でお礼を言われ、わずかに間が空いた後、私は口を開く。
「こちらこそ、さっきはありがとうございました」
改めて深々と頭を下げる。
「千島さんは、ちゃんと言い返せていたって言いましたけど、全然です。一方的に言われっぱなしでした」
きっと千島さんがあの場に現れなかったら、宮崎さんはもっと私に苛立ちと見下した思いをぶつけてきただろう。
千島さんがなにか言いかけたのを遮り、「でも――」と続ける。
「今までならただ耐えるだけだったのに、ああやって自分の気持ちを口に出せたのは、千島さんのおかげです」
私も彼みたいに自分の意見を言えるようになりたい。見習いたいって。
行動に移せた自分が少しだけ誇らしい。
そこで、なんだか気恥ずかしくなり素早く回れ右をする。
「お、お疲れ様でした。私はここで」
「桂木さん」
ところが呼び止められ、今度は私が彼に目を向ける。
「その、よかったらドドールで待っていてもらえるかな? すぐに終わると思うから」
ドドールは会社の入っているビルの一階にあるコーヒーチェーン店だ。
どうして? 時間はあるし、待つのはいいんだけれど、なにかあるのかな?
予想外の展開に混乱しつつ考えを巡らせる。しばらくして、はっと閃いた。
「用事があるなら――」
「いいえ。前回は千島さんを送っていけなかったので、今日はきちんと送り届けます。さっきの女子高生たちに遭遇する可能性もありますし」
私は真顔で答えた。前回、使い物にならなかった汚名を返上しないと!
対する千島さんは眉尻を下げ、途端に困惑めいた顔になったのがマスク越しでも伝わる。顔が整っている人はマスクをしていても十分に魅力的だ。彼は軽く鼻にかかる部分に指をかけた。
「これもありがとう。急いで行ってくる」
さっさと現場に向かった千島さんだが、私も移動する。それにしても、あのままの格好で大丈夫なのかな? マスクをしているとはいえ少なくとも中澤部長は待っているだろうし……。
あれこれ心配してもしょうがない。
金曜日の午後七時半過ぎ。店内はそれなりに混んでいたけれど、ちらほら空席はある。カウンターでコーヒーを注文し、私は席についた。職場に近いからこそ普段はあまり利用しないから、仕事終わりに少しだけ贅沢な時間だと感じる。
Yukiちゃんの配信アーカイブでも聞こうかな。でも場所が場所だし。
カップを置き、項垂れる。
私、Yukiちゃん以外に趣味も楽しみも余暇の過ごし方もないんじゃない?
自覚して泣きそうになる。とりあえず、今日の夕飯はなににしようか。カフェのサイドメニューは甘いものメインでこの時間は売り切れの品も目立つ。
料理は嫌いではないけれど一人分って面倒くさい。メニューを考えるのも含めて誰か作ってくれないかなぁ。
そんなことをぼんやり考えた。
「夕飯はパスタでどうかな?」
隣に座る千島さんから明るく尋ねられたが、私はイエスともノーとも言えなかった。
「時間も遅いし簡単なものしかできないけど、桂木さん、苦手なものとかアレルギーとかある?」
「とくに、ないです……」
あの後、ほぼ待つことなく千島さんは現れた。お疲れ様でした、と労うとタクシーで帰る旨を告げられる。
タクシーを使うなら私は必要ないのでは?と思いながら、それなら私はいつも通り電車で帰ろうと頭の中で予定を組み立てる。そのとき千島さんから夕飯に誘われたのだ。
『さっきのお礼に夕飯をご馳走させてもらえないかな?』
彼が私に待ってほしいと言った意味を悟り首を横に振る。
『そんなお気遣い無用です! この前は私がお世話になりましたし』
しかし千島さんは譲らず、しばらく押し問答を続け至った結論が、千島さんの家でご飯をご馳走になるというむしろハードルが上がった展開となった。
「エキスポのお礼にYukiのアクスタをあげるって言ってたし、見てもらった方が早いだろうから」
これを言われると断るわけにはいかない。
会社に持ってきてもらうわけにもいかないし。
「トラブルの方は大丈夫でした?」
話題をなんとなく変えたくて今日の件を振る。
「ああ。俺が行ったときはほとんど解決していたよ」
よかったですね、と喉まで出かかり飲み込む。休日にあんな思いまでして会社に行った千島さんの苦労を考えると、簡単には言えない気がした。
現に彼は「ほぼ、無駄足だった」と続ける。
「けれど――桂木さんに会えたから会社に行ってよかった」
にこやかに答えられ、目を見開く。それからぱっと視線を逸らし、早鐘を打つ心臓を押さえた。
な、なんなのこの胸の動悸は? 義理堅い千島さんが、約束していたYukiちゃんのアクスタを私に渡せるからって意味で言っただけなのに………。
変に意識すぎだ。とはいえ無理はない。社会人になって多少マシにはなったものの私にとって男性は極力関わりたくないし、ずっと苦手で縁がない存在だった。
だから千島さんのストレートな言葉をどう受け取っていいのかわからない。
ただ、千島さんは私が苦手としてきた男性とは違う。変に見下したり値踏みする真似はしない。私のことを同僚として、友人として大切に、対等に接してくれている。だから――。
「ありがとうございます。私も千島さんに会えてよかったです」
さっきもなんだかんだ言って、宮崎さんとの間に入って助けてもらった。彼の優しさを私も返したい。
そんな気持ちで告げたのに、千島さんはこちらの顔をじっと見てくる。ややあって彼は大きくため息をついて項垂れた。
なにかまずいことを言っただろうかと慌ててると彼がぽつりと呟く。
「桂木さんって………天然だよね」
どういう意味なのか。少なくとも、今までそんなふうに言われたことはない。
「な、なんですか? 先に千島さんが言うから、それで………」
反論しようとしたものの、千島さんがタクシーの運転手に止まる場所について指示を出す。ほどなくして停車し、ひとまずお礼を告げてタクシーを降りた。
「え………」
降りて驚く。素人目に見てもかなり高級で立派な、いわばタワマンだ。
「千島さん、ここに住んでいるんですか?」
彼は専門職だし、私よりも年齢も上だ。とはいえ、こんなところに住めるなんて………。
疑問が顔に出ていたのか、千島さんは気まずそうに頬をかいた。
「錦食品とは別に、フリーで他にも収入源はあるから」
「なるほど」
千島さんは正社員ではなく外部の人間なので、他でも仕事をしていること自体は悪いことでも驚くことでもない。それにしても、ここに住むには相当な収入がないと難しいだろうから、千島さんはやっぱりすごい。
「生活自体は質素で庶民だし、どう考えてもここに住むような人間じゃないけれど……」
一方で千島さんは苦々しく続ける。
「何度も身に危険を感じた経験から、住む場所はセキュリティとプライバシーを最重視して選んでいたら、気づけばこのマンションに――」
「それでいいと思います!」
項垂れる千島さんに即座に答える。彼の経験からすると、譲ってはいけない部分だ。
エントランスは明るく広々として、ホテルの受付さながらの雰囲気でコンシェルジュと呼ばれる中年男性が「おかえりなさませ」と恭しく頭を下げる。まるでドラマだ。
きょろきょろ視線を飛ばしながら、千島さんについていく。普通のエレベーターに乗ろうとしたら止められ、別の方向を指定された。どうやら上階層は専用のエレベーターがあるらしい。世界が違い過ぎると思いながら、中に乗り込み無意識止めていた息をそっと吐いた。
そこで気になっていたことを口にする。
「そういえば、プライベートの格好で会社に行って、中澤部長驚きませんでしたか?」
私の疑問に、千島さんは少しだけためらったあと、口を開く。
「周りに言っていないけれど中澤さんは、高校のときの先輩で……」
「そうなんですか!?」
意外なつながりに驚く。私はあまり会話したことはないけれど、中澤部長は優秀で人望も厚く、若いのに部長に抜擢されたけれど驚く社員は誰もいなかった。
「俺を錦食品に声をかけてくれたのも中澤さんだったんだよね」
千島さんはエレベーター内のモニターを見つめながら続ける。
「本当は在宅で誰とも会わずに仕事をしようと思っていただけれど――」
「先輩に言われると断れないですよね」
彼の続きを予想して答える。驚いたような顔の彼と目が合い、私にはにこりと微笑んだ。
「それに千島さん、誰かと仕事するの――本当は人と関わるの、好きですよね」
職場では無愛想で無口。でも仕事は確実で、責任感もある。異性を避けてはいても誠実で、こうして私と友人になったわけだし。
そのとき、エレベーターが止まった。五十を超えた数字は初めて見る。
「あ、それから桂木さん――」
「どうされました?」
降りたところで声をかけられ、千島さんを見ると彼はふいっと視線を逸らした。
「いや、なんでもない」
「な、なんですか! 言いかけてずるいですよ。気になります」
つい声を上げてしまったが、共有スペースで迷惑だ。一度口をつぐんで、千島さんについていく。
後でちゃんと聞かないと。そう決意していると千島さんが足を止めた。ドアの前でもないのでどうしたのかと思ったら、彼の目線の先には女性が立っていた。顔はよく見えない。
ご近所さん? それとも千島さんへの来客者? まさか彼を狙った女性が……。
千島さんを庇うつもりで彼の前に出ようとする。すると女性の視線がこちらを向いた。
え?
「あ!」
相手も小さく声を上げた。もちろん私ではなく私のうしろの千島さんを見てだ。その声を聞いて電流が走ったような衝撃に襲われる。
な、なんで……。
素顔を公表していないけれど、全体の雰囲気、声、そして最近の生配信のときに見たネイル。
そんなはずない。でもずっと見てきたからわかる。彼女は――。
「ゆ、Yukiちゃん!?」
夢か幻か。目の前には私の神が――生き甲斐もとい最推しのYukiちゃんが立っていた。


