記憶の欠片

狛犬の飼い主

 弟と再会してから、私はいつも通り学校に通う日々を送っていた。

 まだ完全に記憶が戻ったわけじゃないし、体調も万全とは言えないけれど、少しずつ「普通」に戻っている感覚がある。

 その日、校門をくぐると、先の煉瓦敷きの広場がやけに騒がしかった。

 カラフルなポスター。

 大きな声で呼びかける先輩たち。

 楽器やボールを抱えた人影。


「……部活勧誘か」


 どうやら今日は、勧誘の日らしい。

 近づいてくる先輩たちに、私は軽く会釈をしながら歩く。


「よかったら――」


「すみません、今は考えてなくて」


「見学だけでも――」


「体調がまだ安定してなくて」


 できるだけ柔らかく、角が立たないように断りながら、私はその場を抜けた。

 今は、部活に入る余裕はない。

 それは、自分でもちゃんと分かっている。

 ようやく校舎に入り、ほっと息をついた。

 しばらく廊下を歩き、教室に入ると、まだ朝の準備中であちこちから話し声が聞こえていた。

 自分の席に向かって鞄を置き、椅子に座った、そのとき。


「おはよ、愛梨ちゃん」


 突然、隣から声がして、思わず顔を上げる。

 振り返ると、そこにいたのは——茶髪のくせっ毛の男の子。

 柴野 献くんだった。


「……おはよう、柴野くん」


 そう返すと、彼は一瞬きょとんとして、次の瞬間、少しだけ不満そうに眉を寄せた。


「えー。そっちだけ苗字なの?」


「え?」


「献って呼んでよ」


 あまりにも自然に言うものだから、言葉に詰まる。


「い、いきなり……?」


 小さく息を吸って、私は声を落とした。


「……け、献くん……?」


 自分でも分かるくらい、控えめな声だった。

 でも、それを聞いた瞬間、献くんはぱっと表情を明るくして、満足そうに笑った。


「うん、それでいい」


 それだけ言うと、彼は軽く手を振って、教室の外へ出ていく。

 取り残された私は、しばらくその背中を見送っていた。

 ——なんで、あんなに嬉しそうなんだろう。

 胸の奥に、くすぐったいような違和感が残る。

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