記憶の欠片
 雨が、降り出した。

 しとしとと、音を立てて落ちてくる秋雨。

 気づけば私は、中学校の近くにある小川の橋の下に立っていた。

 無意識だった。

 足が、勝手にここへ連れてきたみたいだった。

 濡れた上着をぎゅっと絞って、顔を上げる。

 空は真っ黒で、月も星も見えない。

 雨は止む気配を見せず、ただ同じリズムで地面を叩き続けている。

 橋の下は暗くて、冷たくて、ひどく静かだった。

 車の音も、人の声も、遠くに滲んで聞こえるだけ。

 ここには、私しかいない。

 ……孤独だ。

 そう思った瞬間、どっと力が抜けた。

 今まで無理やり立っていた糸が、ぷつんと切れたみたいに。

 疲れが、一気に押し寄せてくる。

 身体じゃない。

 心の奥の、もっと深いところから。

 今まで、見ないふりをしてきた。

 感じないように、蓋をしてきた。

 「大丈夫」「平気」「一人でも平気」

 そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。

 でも——もう、無理だった。

 胸の奥に溜め込んでいた感情が、溢れ出す。

 それは突然で、止め方も分からなくて。

 まるで、雨の中にずっと放置していたバケツが、気づかないうちに満杯になって、縁から静かに、でも確実に水をこぼし始めるみたいに。

 ぽた、ぽた、と。

 最初は小さかったはずなのに、気づけば止まらない。

 悔しさも、寂しさも、怖さも、慧くんに置いていかれたくなかった気持ちも、一人になることを選んだはずなのに、一人が怖いっていう矛盾も。

 全部、雨音に紛れて零れ落ちていく。

 橋の下で、私はただ立ち尽くしていた。

 濡れることも、寒さも、どうでもよくて。

 暗い空間に、一人。

 雨だけが、私の代わりに泣いてくれているみたいで。

 今なら、全部を手放せる気がした。

 そう思って、ゆっくりと目を閉じる。

 学校。

 ずっと、しんどかった。

 直接、刃みたいな言葉を向けてくる人。

 自分は安全な場所にいながら、噂や視線だけを投げてくる人。

 どこにいても、逃げ場はなかった。

 夜になると、決まって夢を見る。

 暗い教室。

 笑う声。

 耳を塞いでも消えない言葉たち。


「汚い人間」

「よく来れるよね」

「生きてる意味ない」


 ……そうだよね。

 生きてる意味なんて、ないのかもしれない。

 気づけば、胸の奥がひどく痛かった。

 息をするたび、そこに冷たい空気が流れ込んでくるみたいで。

 ずっと、独りだった。

 誰かがそばにいてくれても、本当の気持ちは言えなくて、分かってほしくて、でも迷惑をかけたくなくて。

 ——寂しかった。

 ぽつり、とその言葉が心の中で落ちる。

 そのとき。

 にゃあ、という小さな声がした。

 目を開けると、橋の下の暗がりで、小さな黒猫がこちらを見ていた。

 さっきまで微動だにしなかったはずなのに、今は少しだけ距離を縮めて、濡れた地面に前足を揃えている。

 雨音の中で、その存在だけが妙にはっきりしていた。


「君も一人なの?」


 その呼びかけに答えるように、猫は私の傍に寄り、体を預けてきた。

 その小さな体からつたわる体温は、冷えきった心をじんわりと溶かしていく様で。

 ずっと私の事を守ってくれていた彼のことを思い出させた。

 慧くん。

 君まで遠くへ行ってしまったら、私はきっと自分がここにいる理由を見失ってしまう。

 ……ひとりでいいなんて、嘘だった。

 強がって、突き放して、守ったつもりで、本当は、ずっと誰かを求めていた。

 ずっと、好きだったんだな。

 今になって、ようやく分かる。

 できるなら、やり直したい。

 何も壊れていない、誰の声にも傷つけられない世界で、君と、もう一度。

 ——ごめんね、私。

 胸の奥が限界だと、静かに知らせてくる。

 これ以上、抱えきれない。

 これ以上、思い出していたら、壊れてしまう。

 私は、深く息を吐いて、目を閉じた。

 雨音が遠ざかっていく。

 冷たさも、重さも、少しずつ輪郭を失っていく。

 辛かった記憶。

 怖かった言葉。

 押し殺してきた感情。

 それらが、ひとつ、またひとつと、指の間から零れ落ちるように離れていった。

 ——忘れたかったわけじゃない。

 ただ、生きるために、手放すしかなかった。

 その日、私は自分を守るために、記憶の扉を閉じた。

 そして、世界は少しだけ静かになった。



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