記憶の欠片
 記憶が一気に繋がり、意識が、今の私へと戻ってきた。

 ずっと思っていた。

 ハープが倒れた、あの日の強い衝撃で、私は“事故で”記憶を失ったのだと。

 でも、違った。

 私は——自分で、意識と記憶を閉じた。

 壊れてしまわないために。

 これ以上、感じ続けられなかったから。

 だから、心が先に限界を迎えて、私を守るために、世界の音を遮断した。

 逃げだったかもしれない。

 弱さだったかもしれない。

 でも、それでも——私は、ここにいる。

 忘れることで、私は生き延びたんだ。

 冷たい風が頬を撫でる。

 橋の下の湿った空気が、今の私を現実に引き戻す。

 もう一枚の手紙を、そっと取り出す。

 指先に伝わる紙の感触が、やけに現実的で、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 私に宛てられた文字。

 慧くんの、少し癖のある筆跡。

 封は、まだ切られていない。

 長い時間、誰にも開かれずにここで眠り続けていたんだと思うと、それだけで息が詰まりそうになる。

 この中に何が書かれているのか、分からない。

 優しい言葉かもしれないし、突き放すような言葉かもしれない。

 でも——今の私は、もう逃げない。

 震える手で、封の端に指をかける。

 紙が擦れる、かすかな音。

 その音が、やけに大きく響いた。

 心臓の音が、耳の奥でうるさい。

 まるで「ちゃんと受け止めろ」と言われているみたいだ。

 深く息を吸って、ゆっくり、封を切る。

 ……慧くん。

 あなたは、あの時。

 どんな気持ちで、この手紙を書いたの?

 私は、逃げない。

 たとえどんな言葉が待っていても——今度こそ、ちゃんと向き合う。

 そう心の中で呟いて、私は手紙を開いた。

 震える指で、便箋を広げる。

 そこにあった文字は、驚くほどまっすぐで、優しかった。



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