記憶の欠片
 それから授業はすべて終わり、教室には放課後特有のざわめきが広がっていた。

 椅子を引く音、笑い声、部活へ向かう足音。

 鞄をまとめていると――


「ねえ」


 ぴりっとした、怒りを含んだ声がした。

 顔を上げると、そこに立っていたのは日菜咲さんだった。

 さっきまで友達と笑っていたのが嘘みたいに、表情は険しい。


「献くんと、あんなふうに気軽に話さないでよ」


 一歩、距離を詰められる。


「隣の席だからって、あなたばっかりずるいでしょ!」


 早口で、感情を抑えきれないまま捲し立てる彼女。

 その勢いに、私は言葉を失った。

 ——ああ、もしかして。


「……ごめん」


自然と、そう口にしていた。


「献くんの彼女さん、だよね?ごめん嫌な思いさせちゃって……」


 その瞬間、彼女は不意を突かれたみたいに目を見開いた。


「……はぁ?」


 きょとんとした顔。

 さっきまでの勢いが、急に失われる。


「訳分かんないんだけどっ」


 顔を赤らめて動揺している日菜咲さんが、吐き捨てるように言ったそのとき。

 ガラッ、と音を立てて教室の扉が開いた。


「献くん!」


 日菜咲さんの声が弾む。

 振り向くと、そこには献くんが立っていた。

 制服の袖を少しまくり、少し息を切らしている。

 彼女は、迷いなく彼に駆け寄り、抱きつこうとする。

 けれど。

 献くんは、そのまま私のほうへ歩き出した。


「……え?」


 行き場を失った日菜咲さんの腕が、空を切る。

 献くんは私の前に立つと、少し屈んで顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」


 くりっとした目が、不安そうに揺れている。


「沙彩に、何かされてない?」


「ううん。何もされてないよ」


 そう答えると、献くんはほっとしたように肩の力を抜いた。


「……よかった」


 小さく笑ってから、彼は日菜咲さんのほうを振り向く。


「やめろよ」


 声は強くないけれど、はっきりしていた。


「愛梨ちゃんのこと、困らせないで」


 彼女は唇を噛みしめ、何も言えずに視線を逸らす。

 教室に、気まずい沈黙が落ちた。

 そのあと、献くんは小さく息を吐いてから、彼女のほうを振り向いた。


「……行くぞ」


 言葉少なにそう言って、教室を出ていく。

 少し遅れて、日菜咲さんも後を追った。

扉の前で、彼女は一度だけ足を止める。

 振り返り、まっすぐ私を見る。

 さっきまでの苛立ちとも、さっきの動揺とも違う、妙に強い光を宿した目。


「献くんは——」


一拍置いて、はっきりと。


「絶対に渡さないから」


 それだけ言い残し、彼女は献くんの背中を追っていった。

 ガラリ、と扉が閉まる。

 教室には、私ひとり。

 呆気にとられたまま、しばらくその場から動けなかった。

 胸の奥に残ったのは、戸惑いと、理由の分からない鼓動。

 彼女の言葉が、しばらく耳から離れてくれなかった。
< 12 / 153 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop