記憶の欠片
 橋の上で足を止めた瞬間、空気が違った。

 夜の湿った匂い。

 川の流れる低い音。

 そして——暗闇の中、きらりと光る二つの目。

 黒猫だった。

 闇に溶け込む小さな身体。

 じっと俺を見つめ、にゃあ、と鳴く。

 まるで、ついてこいと言っているみたいに。

 猫はくるりと背を向け、橋の下へと軽やかに降りていく。

 胸騒ぎがして、俺は後を追った。

 橋の下は冷たく湿っていて、コンクリートは雨で濡れている。

 街灯の光も届かない、薄暗い空間。

 その奥に、小さな影が倒れていた。


「……愛梨」


 駆け寄る。

 制服は雨で濡れ、髪は頬に張り付いている。

 呼びかけても、反応はない。


「愛梨、起きろよ。おい……!」


 揺らす手が震える。

 でも——胸は、上下している。

 呼吸は、ある。

 力が抜けそうになりながらも、さっき読んだ手紙の言葉が頭をよぎる。

 迷惑をかけるのは、終わりにする。

 一人で大丈夫。

 ……違う。

 愛梨の「大丈夫」は、いつも嘘だ。

 俺のことを思って、俺に迷惑をかけないように、一人で消えようとしたんだろ。

 胸が締め付けられる。

 俺が——俺がもっと早く気づいていれば。

 俺がもっと強ければ。

 俺が、ちゃんと隣に立てる人間だったら。

 愛梨は、自分を消そうなんて思わなかったんじゃないか。


「……俺のせい、だよな」


 雨の雫が、橋の隙間からぽたりと落ちる。

 俺がそばにいるから、愛梨は「迷惑をかけている」って思い込んだ。

 俺が守るって言ったから、守られる自分を、嫌になったのかもしれない。

 俺がいる限り、愛梨はまた自分を追い詰めるんじゃないか。


 だったら——俺は。


 何もかも封じ込めて、離れた方がいいんじゃないか。

 好きだなんて言わない。

 そばにいるなんて言わない。

 守るなんて、もう言わない。

 愛梨が笑っていられるなら、俺が嫌われてもいい。

 俺がいない方が、あいつが楽に生きられるなら。

 濡れたその身体を抱き上げる。

 驚くほど軽い。


「……守りたいんだよ」


 でも、守る方法が分からない。

 傍にいることが、傷になるなら。

 俺の存在が、あいつを追い詰めるなら。

 ——離れるしか、ないのか。

 黒猫が、少し離れた場所からこちらを見ている。

 責めるでもなく、ただ静かに。

 俺は愛梨を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。


「ごめん、愛梨」


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