記憶の欠片
 その記憶が、今になって、やけに鮮明によみがえってくる。

 思い出してしまった。

 忘れたふりをしていた、大切で、苦しい記憶を。


「……覚えてるよ」


 そう言って、私は慧くんの方を見つめた。

 あの夜の空気も、消しゴムを巡って笑ったことも、近づいて、離れた、その一瞬も——全部。

 慧くんは一瞬だけ目を見開いて、それから少し困ったように笑った。


「……良かった」


 それだけ言って、慧くんは黙り込んでしまう。

 街灯の光に照らされた横顔は、どこか大人びていて、でも変わらなくて。

 その沈黙が、なぜか切なくて、愛おしくて。

 気づいたら、私は考えるより先に体を動かしていた。

 慧くんの胸に、飛び込んでいた。

 一瞬、時間が止まったみたいだった。

 ふわりと香る柔軟剤の匂い。

 思っていたよりもずっとしっかりした胸板。

 背中に回された腕は、触れているだけなのに、熱を持っているみたいで。

 ——あ、だめだ。

 そう思うのに、心臓は正直で、ドクン、ドクンと、うるさいほど鳴っている。

 慧くんは驚いたように息を呑んで、それから、そっと私を抱き返した。

 強くはない、でも離さない、そんな抱き方。

 夜の公園は静かで、街灯の光だけが、私たちを包んでいた。

 言葉はなくても胸に伝わる鼓動と、ぬくもりだけで、十分すぎるほどだった。

 ——流されちゃだめ。

 そう思っていたはずなのに。

 それでも私は、この腕の中が、嫌になるほど安心できてしまう自分を、止められなかった。

 夜空には、静かに月が浮かんでいて。

 冬の澄んだ空気のせいか、輪郭までくっきり見える。


「……月が、綺麗だね」


 自分でも分かる。

 少しだけ、試している。

 慧くんは、私を抱いたまま、ゆっくりと顔を覗き込んだ。


「それ、どういう意味で言ってんの」


 低くて、少しだけ意地悪な声。

 心臓が跳ねる。

 本当は、分かってるくせに。

 でも、私はまだ踏み込めない。

 怖い。

 もしまた、拒まれたら。


「ほら、見て。今日、すごくよく見えるよ」


 誤魔化すように、空を指さす。

 慧くんは数秒、私を見つめたまま動かない。

 それから、わざとらしく小さくため息をついた。


「……ずるいな」


 拗ねたような顔。

 次の瞬間、彼の指が私の顎を軽く上げる。

 ちゅ、と。

 額に、あたたかい感触。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。


「……っ」


 固まる私を見て、慧くんは少し照れたように笑う。


「仕返し」


 月明かりの下。

 冷たい夜風とは裏腹に、顔が熱い。

 心臓の音が、さっきよりもずっと大きく響いていた。

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