記憶の欠片
バルコニーに一歩踏み出した瞬間、季節の変わり目特有の、生ぬるい風が頬を撫でた。
春とも夏とも言い切れない、少し重たい空気。
視線を向けると、彼はそこに座っていた。
手すりに背を預け、膝を立てて、まるでずっと前からここにいたみたいに自然な姿で。
何か言おうとして口を開いたが、その前に——彼の方が先に口を開いた。
「ここ、サボるのにいい場所なんだ」
低くて落ち着いた声。
「暖かいしさ。風も気持ちいいし。……心地いいところだろ?」
そう言って、彼は少しだけ目を細めた。
返事を考える間もなく突然、図書室の扉が開く音がした。
——担当の先生だ。
反射的に、二人の視線が交わる。
「やば」
彼が小さく呟いた瞬間、手首を引かれた。
「しゃがんで」
囁くような声。
言われるがまま私は身を低くして、彼の隣にしゃがみ込む。
バルコニーの手すりと影が、ぎりぎり先生の視界を遮ってくれている。
図書室の中から、足音と資料を置く音が聞こえる。
息を殺す。
こんなに近くにいるのに、お互い、何も言わない。
風がまた吹いて、彼の黒髪が揺れた。
心臓の音が、やけに大きく響いている気がした。
……見つかりませんように。
静かな図書室と、この小さな隠れ場所。
その境目で、時間だけがゆっくりと流れていた。
ふたりで、しばらく何も言わずに景色を眺めていた。
校舎の外に広がる街並みは思った以上に遠くまで続いていて、建物の隙間の向こうには——きらりと光る海がかすかに見えた。
心地いい風が吹いて、私の髪も、彼の黒髪も、同じリズムで揺れる。
……近くにいるはずなのに。
不思議と、彼は「近くにいない」気がした。
手を伸ばせば届く距離なのに、触れたら壊れてしまいそうな、そんな雰囲気。
月城くん。
彼は、どこか現実から半歩ずれた場所に立っているみたいだった。