記憶の欠片 Original

 やがて、校舎中に予鈴が響き渡る。


 ——戻らなきゃ。


 頭では分かっているのに、足が動かない。


 ここから離れたくない。


 もっと、隣にいたい。


 そんな気持ちを見透かしたみたいに、ふいに彼が口を開いた。


 「……五限目さ」


 一瞬、こちらを見る。


 「一緒に、サボる?」


 冗談みたいな口調なのに、視線だけは真剣で。


 彼は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。


 さっきまで余裕そうだった横顔が、どこかぎこちなくて——よく見ると、頬がうっすら赤い。


 風のせい、なんて言い訳ができそうなくらい微かな色づきなのに、それが妙に目についてしまう。


 「……別に、強制じゃないけど」


 そう付け足す声は少し低くて、さっきよりも小さい。


 照れを隠すみたいに、彼はまた遠くの街へ視線を戻す。


 風の音と、遠くの波のきらめき。


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 近くにいるのに、触れられない距離。


 でも、その距離が今は、やけに甘くて。


 胸の奥が、静かにざわつく。


 ——この人も、同じ気持ちなんじゃないか。


 そんな考えがよぎって、私は思わず息を詰めた。


 予鈴の余韻がまだ空気に残る中、風だけがふたりの間をそっと撫でていった。


 どうしようか迷っている、その一瞬の隙を縫うように、チャイムの音が校舎中に鳴り響いた。


 乾いた金属音が、初夏の空気を震わせる。


 窓の外では、さっきまで穏やかだった風が少しだけ強くなり、若葉の擦れる音が遅れて届いた。


 びくりと肩が揺れる。


 図書室の奥を見ると、担当の先生はもう椅子に腰を下ろしていて、机に積まれた本の影が午後の光で長く伸びている。


 ……今から教室に戻るのは、無理だ。


 そう理解した瞬間、胸の奥にふわりとした諦めと、妙な安堵が同時に広がった。


 この人と一緒にいたら、きっと、いつもと違う時間が流れる。


 ……ああ、もう戻れないな。


 そう悟った瞬間、私はゆっくりと目を閉じた。


 まぶたの裏で、光が滲む。


 黒い視界に残るのは、白く眩しい空と、濃くなり始めた緑の色。


 春の名残を含んだ風はもう冷たくなく、肌に触れるたび、少しだけ湿り気を帯びている。


 生ぬるい風が頬をなぞり、どこかで蝉の声がまだ遠くで準備運動をしているみたいに響く。


 近くでは、彼の制服の布が風に揺れる音。


 ——夏が、やってくる。


 教室の中で過ごすはずだった午後を置き去りにして、季節だけが先へ進んでいくような感覚。


 そのとき隣にいた彼が、ふっと息を落とすように呟いた。


 「……懐かしいな、この感じ」


 本当に、そっと。


 独り言みたいな声。


 その言葉は殆どが、風で木の葉が擦れる音に溶けてしまったけど、確かに私の耳に届いた。


 その言葉は、どういう意味だろう。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 初めて過ごすはずの時間、二人きりの空間。


 …なのに。


 全てが初めてじゃない気がして。


 この懐かしさの正体を彼に聞いてみたかったけど、言葉が出なかった。


 この距離感が心地いい。


 私が何か思い出して、この距離が変わってきしまうのが怖かった。


 …私の手で、壊してしまいたくなかった。


 私はまだ目を閉じたまま、生ぬるい風と、隣にいる彼の気配だけを静かに感じていた。
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