記憶の欠片
第二章【月影が差す】

ハプニング

 初夏。

 窓を開け放った教室に、少し熱を含んだ風が流れ込み、文化祭の準備が本格的に始まったことを知らせていた。

 放課後の教室は、いつもよりざわざわしている。

 模造紙を広げる音、机を動かす音、どこか浮き足立った笑い声。

 私はクラスの隅で、指示を書き写しながらぼんやりと考え事をしていた。

 ——月城くん。

 あの日から、彼のことを考える時間が増えた。

 あのバルコニー以来、彼と特別に話したわけじゃない。

 それなのに、ふとした瞬間に視線が彼を探してしまう。

 話しかけられた回数も、目が合った回数も、他の人と比べて多いわけじゃないのに。

 廊下ですれ違うかもしれないと思うだけで、無意識に歩く速度が変わる。

 ——どうして、あんな言い方をしたんだろう。

 ——「懐かしい」って、何のことだろう。

 考えても答えは出ないのに、気づけば、そんなことばかり考えている。

 授業中、窓の外を見ているはずなのに、視界の端に彼の横顔が浮かぶ。

 近くにいるときは、距離を測るみたいに落ち着かなくて、離れているときは、なぜか少し物足りない。

 自分でも、変だと思う。

 すれ違う時に、つい目で追ってしまうのも。

 彼が誰かと話しているのを見て、理由の分からないざわつきを覚えるのも。

 これはきっと、まだ「好き」なんて言葉にするほどのものじゃない。

 でも——知らないままでいたかったはずの人を、もっと知りたいと思っている。

 それだけは、確かだった。

 初夏の風が、また校舎を抜けていく。

 その風の中に、彼の気配を探してしまう自分に気づいて、私はそっと胸の前で指を握りしめた。

 名前を思い浮かべただけで、胸の奥がきゅっと縮む。
< 32 / 153 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop