記憶の欠片
文化祭の喧騒とは無縁だった教室が、一瞬で、騒然とした空気に包まれる。
そして、落ち着いた静寂が戻るまで、ほんの数秒。
何も、降ってこなくなったのを感じて、私はゆっくりと、目を開ける。
——近い。
思考より先に、それだけが分かった。
すぐ目の前にあったのは、三湊くんの顔。
息がかかるほどの距離で、彼の表情が、はっきりと見える。
筋の通った鼻。
影が落ちて、横顔の線を際立たせている。
きゅっと結ばれた薄い唇は、何かを耐えるみたいに強張っていて。
長いまつ毛が、伏せられた目元に影を作る。
その奥で、眉がわずかに寄っているのが分かった。
——苦痛に歪んだ顔。
彼は歯を食いしばって、私のすぐ後ろのロッカーに手をついていた。
壁ドン、なんて言葉じゃ軽すぎる。
倒れてきた資材から、私を覆うように庇って、自分の背中を盾にした姿勢。
「……っ」
小さく、息を詰める音。
私の頭の横で、彼の手がロッカーを強く掴んでいる。
三湊くんの体が、私と壁の間にすっぽり収まっていて、逃げ場なんてどこにもない。
でも——怖さよりも先に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……三湊、くん……?」
名前を呼ぶと、彼のまつ毛が、ぴくりと揺れた。
後夜祭の喧騒は、もう遠い。
静まり返った教室で、彼の呼吸と、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
しばらく、二人とも動けなかった。
教室に散らばった資材の音が完全に消え去ったあとも、時間だけが止まったみたいだった。
数秒。
でも、やけに長く感じる。
三湊の目が、私を捉えたまま離れない。
息が整っていくのが分かるのに、距離だけは、縮まったまま。
——近すぎる。
先に動いたのは、三湊だった。
「……っ」
はっとしたように目を逸らして、壁についていた手を離す。
「ご、ごめん……!」
一歩、二歩と急いで距離を取る。
私は、少し遅れて体を起こした。
「ちがう……謝るのは、私の方」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「不注意で……ごめん」
三湊は一瞬、言葉に詰まったようにしてから、「いや……」と小さく首を振る。
教室に、また静けさが戻る。
散らばった段ボールとガムテープ。
さっきまでの出来事が、現実だったことを、無言で主張していた。
——後夜祭の裏で、こんなことが起きるなんて。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
もし、誰かに見られていたら。
この距離、この体勢。
きっと、変な勘違いをされていただろうな。
そう思って、胸の奥が少しだけざわついた。
三湊は視線を落としたまま、気まずそうに頭をかく。
遠くから、校庭の音楽がかすかに聞こえてきた。
楽しげな声。
笑い声。
その裏側で、誰にも知られずに起きた出来事を私はそっと、胸の奥にしまい込んだ。
三湊は、わざとらしく一つ咳払いをした。
さっきまでの沈黙を、振り払うみたいに。
「……なあ」
私が顔を上げると、彼は少し困ったように、でもいつもの調子で笑う。
「記憶のほう、どうだ?順調に……思い出せてるか?」
その問いに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
私は小さく首を振る。
「……だめ。三湊くんと、出会った日から…何も」
言葉にすると、改めて実感してしまう。
まるでそこだけ、時間が途切れているみたいだ。
「思い出したのは、雨の日のことだけ。それより前も、後も……真っ白」
三湊は、顎に手を当てて考え込む。
「そっか……」
教室の窓から入る夜風が、散らばった紙をかすかに揺らした。
「どうしたらいいんだろうな」
「うん……」
二人で、同じ場所を見つめる。
「きっかけ、なのかな」
「きっかけ?」
「雨とか、公園とか。そういう……記憶に直結してるもの」
でも、それだけで全部が戻るとは思えない。
「効率のいい方法とか……あったらいいのに」
私がそう呟くと、三湊は苦笑いを浮かべた。
「そんな都合のいいもの、あったら苦労しないよな」
それでも、彼はすぐに真剣な目になる。
「でもさ。一緒に考えれば、何かあるかもしれないだろ」
その言葉が、不思議と心に沁みた。
——一緒に。
窓の外では、後夜祭の音楽が遠くでまだ鳴っている。
その裏側の静かな教室で、私たちは、ただ並んで立っていた。
そして、落ち着いた静寂が戻るまで、ほんの数秒。
何も、降ってこなくなったのを感じて、私はゆっくりと、目を開ける。
——近い。
思考より先に、それだけが分かった。
すぐ目の前にあったのは、三湊くんの顔。
息がかかるほどの距離で、彼の表情が、はっきりと見える。
筋の通った鼻。
影が落ちて、横顔の線を際立たせている。
きゅっと結ばれた薄い唇は、何かを耐えるみたいに強張っていて。
長いまつ毛が、伏せられた目元に影を作る。
その奥で、眉がわずかに寄っているのが分かった。
——苦痛に歪んだ顔。
彼は歯を食いしばって、私のすぐ後ろのロッカーに手をついていた。
壁ドン、なんて言葉じゃ軽すぎる。
倒れてきた資材から、私を覆うように庇って、自分の背中を盾にした姿勢。
「……っ」
小さく、息を詰める音。
私の頭の横で、彼の手がロッカーを強く掴んでいる。
三湊くんの体が、私と壁の間にすっぽり収まっていて、逃げ場なんてどこにもない。
でも——怖さよりも先に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……三湊、くん……?」
名前を呼ぶと、彼のまつ毛が、ぴくりと揺れた。
後夜祭の喧騒は、もう遠い。
静まり返った教室で、彼の呼吸と、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
しばらく、二人とも動けなかった。
教室に散らばった資材の音が完全に消え去ったあとも、時間だけが止まったみたいだった。
数秒。
でも、やけに長く感じる。
三湊の目が、私を捉えたまま離れない。
息が整っていくのが分かるのに、距離だけは、縮まったまま。
——近すぎる。
先に動いたのは、三湊だった。
「……っ」
はっとしたように目を逸らして、壁についていた手を離す。
「ご、ごめん……!」
一歩、二歩と急いで距離を取る。
私は、少し遅れて体を起こした。
「ちがう……謝るのは、私の方」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「不注意で……ごめん」
三湊は一瞬、言葉に詰まったようにしてから、「いや……」と小さく首を振る。
教室に、また静けさが戻る。
散らばった段ボールとガムテープ。
さっきまでの出来事が、現実だったことを、無言で主張していた。
——後夜祭の裏で、こんなことが起きるなんて。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
もし、誰かに見られていたら。
この距離、この体勢。
きっと、変な勘違いをされていただろうな。
そう思って、胸の奥が少しだけざわついた。
三湊は視線を落としたまま、気まずそうに頭をかく。
遠くから、校庭の音楽がかすかに聞こえてきた。
楽しげな声。
笑い声。
その裏側で、誰にも知られずに起きた出来事を私はそっと、胸の奥にしまい込んだ。
三湊は、わざとらしく一つ咳払いをした。
さっきまでの沈黙を、振り払うみたいに。
「……なあ」
私が顔を上げると、彼は少し困ったように、でもいつもの調子で笑う。
「記憶のほう、どうだ?順調に……思い出せてるか?」
その問いに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
私は小さく首を振る。
「……だめ。三湊くんと、出会った日から…何も」
言葉にすると、改めて実感してしまう。
まるでそこだけ、時間が途切れているみたいだ。
「思い出したのは、雨の日のことだけ。それより前も、後も……真っ白」
三湊は、顎に手を当てて考え込む。
「そっか……」
教室の窓から入る夜風が、散らばった紙をかすかに揺らした。
「どうしたらいいんだろうな」
「うん……」
二人で、同じ場所を見つめる。
「きっかけ、なのかな」
「きっかけ?」
「雨とか、公園とか。そういう……記憶に直結してるもの」
でも、それだけで全部が戻るとは思えない。
「効率のいい方法とか……あったらいいのに」
私がそう呟くと、三湊は苦笑いを浮かべた。
「そんな都合のいいもの、あったら苦労しないよな」
それでも、彼はすぐに真剣な目になる。
「でもさ。一緒に考えれば、何かあるかもしれないだろ」
その言葉が、不思議と心に沁みた。
——一緒に。
窓の外では、後夜祭の音楽が遠くでまだ鳴っている。
その裏側の静かな教室で、私たちは、ただ並んで立っていた。