記憶の欠片

落雷 月城 慧side

 廊下に、鈍くて重い音が響いた。

 反射的に足が止まる。

 隣を歩いていた明日香も、同時に顔を上げた。


「……今の音」


 一組の方角だった。

 後夜祭のざわめきに紛れるには、少し大きすぎる。

 何かが落ちた——そんな音。

 顔を見合わせる間もなく、俺たちは音のした方へ走った。

 一組の教室。

 扉は半分ほど開いている。

 中を覗いた、その瞬間。

 ——息が詰まった。

 教室の奥、窓際。

 倒れた資材の影で、二人の人影が重なっている。

 三湊と、愛梨。

 三湊は壁に手をつき、愛梨を囲い込むような体勢で——距離が、異様に近い。

 触れてはいない。

 けれど、触れていないからこそ余計に。

 胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。


「……っ」

 明日香が小さく息を呑む。

 次の瞬間、俺たちはほとんど同時に扉から身を引き、教室の前にしゃがみ込んだ。

 心臓の音が、うるさい。

 ばれてはいけない。

 そう思えば思うほど、呼吸が浅くなる。

 三湊の声が、教室の中から微かに聞こえた。

 それに応える、愛梨の声。

 何を話しているのかは分からない。

 けれど、理由の分からない苛立ちがゆっくりと腹の底に沈んでいく。

 ——明日香が、ぽつりと囁いた。


「……ほんとに後悔しないの?」


 低い声だった。

 後夜祭の音楽と人のざわめきにぎりぎり溶けるくらいの小ささ。


「愛梨ちゃんが、他の人に取られても……いいの?」

 その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さる。

 答えようとして、喉が動いた。

 けれど、音にはならなかった。

 教室の中では、三湊と愛梨の気配がまだ残っている。

 あの距離。

 あの空気。

 ——俺じゃ、無理だ。

 頭では、はっきり分かっている。

 俺は不安定で、過去に縛られていて、誰かを支えるほど強くない。

 愛梨の隣に立つ資格なんて、ない。

 俺じゃ、愛梨のことを幸せにできない。

 そう思うたび、自分で自分を納得させるたびに、心が冷えていく。

 でも。

 ……それでも、他の奴に取られるのは、嫌だ。

 その感情だけが、どうしても消えない。

 愛梨の名前が浮かぶだけで、胸の奥がざわついて、落ち着かなくなる。

 矛盾してる。

 分かってる。

 守れないのに、手放せない。

 近づく勇気もないくせに、遠ざかる覚悟もできない。

 俺はただ、廊下の冷たい床にしゃがみ込んだまま、拳を強く握ることしかできなかった。

 行動に移せない。

 選ぶことも、壊すこともできない。

 ……臆病だな。

 明日香はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、静かに隣にしゃがみこんでいるだけで。

 ——教室の中から、会話が途切れ途切れに漏れてくる。


「……記憶は、まだ……」


「そっか……」


 その言葉に、思考が一瞬で止まった。

 ——記憶喪失。

 その四文字が、頭の中で何度も反響する。

 ……は?

 俺と明日香は、同時に息を呑んだ。

 廊下の空気が、急に重くなる。

 愛梨が……記憶喪失?

 そんなの、予想したこともなかった。

 いや、正確には——考えないようにしていた。

 思い返せば、兆しはいくつも転がっていた。

 変な距離感。

 近づけば一歩引かれて、離れれば安心したように微笑む、その曖昧な間。

 目が合ったとき、昔みたいに一瞬で分かり合える感覚がなくて、探るように視線を泳がせる仕草。

 ぎこちない笑顔も、そうだ。

 優しいのに、どこか借り物みたいで感情が一拍遅れてついてくる感じ。

 そして——俺を呼ぶ声。

「月城くん」

 その呼び方を聞くたび、胸の奥がちくりと痛んでいた。

 前は、違った。

 もっと近くて、もっと無防備で、「慧くん」って、当たり前みたいに呼んでくれていたはずなのに。

 俺はそれを、都合よく解釈していた。

 最後の別れ方が、あんな終わり方だったから。

 お互い、踏み込みきれずに、曖昧なまま距離ができたから。

 だから、気まずいだけなんだって。

 ……そう思いたかった。

 でも違った。

 彼女は、忘れていたんだ。

 気まずさなんかじゃなく、迷いでも、戸惑いでもなく。

 最初から、俺との“記憶そのもの”を。

 おかしいとは思ってた。

 でも、それを「忘れているから」だなんて、信じたくなかった。

 理解した瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられる。

 ……そんなの、ずるいだろ。

 怒りじゃない。

 悲しみとも違う。

 ただ、どうしようもない無力感。

 俺だけが覚えていて、俺だけが取り残されていて、彼女は、何も知らない顔で前に進んでいる。

 深刻だ。

 俺が想像していたより、ずっと。

 愛梨の世界は、俺が思っていた以上に壊れていて、それを必死で繕いながら、笑っているんだ。

 教室の向こうから聞こえる声が、また現実に引き戻す。

 俺は、何も言えないまま、膝の上で拳を握りしめた。

 ……それでも。

 忘れられたからって、最初からなかったことには、できない。

 そう思ってしまう自分が、まだどうしようもなく愛梨のことを想っている証拠だった。

 胸の奥が、じわっと冷える。

 放課後、他愛もない話をしたこと。

 ずっと守るからと誓ったあの約束。

 笑い合った、あの瞬間も。

 ——全部、ないのか。

 俺だけじゃない。

 明日香も、きっと同じことを考えている。

 横を見ると、彼女は唇を噛みしめていた。

 強がりな明日香が、こんな顔をするのは珍しい。


「……そっか」


 小さく呟いたその声は、震えていた。

 思い出を失うって、どんな気持ちなんだろう。

 大切だったはずの時間が、最初から存在しなかったみたいになる感覚。

 三湊の隣にいたのは、記憶を取り戻す“手がかり”があいつにあるからなのかもしれない。

 ……そう思った瞬間、胸の奥がまた軋んだ。

 納得できる理由が見つかったはずなのに、気持ちは少しも軽くならない。

 俺はゆっくりと目を閉じる。

 守れなかった過去。

 忘れられてしまった時間。

 それでも——それでも、まだ。

 俺は……。

 言葉にならない感情が、喉の奥で絡まったまま消えなかった。
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