記憶の欠片
愛梨side

 ——目を開けると、視界いっぱいに空の青が広がっていた。

 潮の匂いと、遠くの波の音。

 そして、すぐそばにいた彼。

 私は考えるより先に、口を開いていた。


「……稲くん」


 昔と同じ。

 身近な人を呼ぶときの、自然な声。

 その名前を聞いた瞬間、彼の肩がびくっと揺れた。


「…記憶、思い出したよ」


 そう伝えると稲くんは一瞬目を見開いて、次の瞬間、苦しそうに笑った。


「……ごめんなさい。俺、結局何も変われてなくて」


 そこから彼は、途切れ途切れに話し始める。

 自信がないこと。

 周りと比べてしまうこと。

 中途半端な自分が嫌いなこと。

 その言葉の端々に、長い時間、ひとりで抱えてきた気持ちが滲んでいて、胸が少し痛くなった。


「こんな自分、ほんと嫌いで……」


 その言葉が、胸に刺さる。

 ——ずっと、そう思っていたのだろうか。

 あの頃から、今までずっと。

 それなら、稲くんはとても大きな間違いをしている。


「稲くん」


 私ははっきり言った。


「十分、変われてるよ」


 彼がこちらを見る。


「ギター、続けてるんでしょ」


「いくら辛くても、諦めなかったんだよね」


 海風に揺れる前髪の奥で、彼の目が小さく震えた。


「それって、全然中途半端なんかじゃない」


 少し間を置いて、私は笑って付け足す。


「……今まで、よく頑張ったね」


 気づけば、私は稲くんの頭にそっと手を置いていた。

 昔と同じように、ゆっくり、優しく撫でる。

 すると彼は、ふいっと顔を背けて。


「……泣き顔、見られたくないです」


 その声は、拗ねたみたいで、でもどこか安心したようで。

 思わず、笑ってしまった。


「はいはい」


 そうして、二人で笑いながら立ち上がり、並んで海の家へ戻る。

 白い砂浜の向こう、賑やかな声が聞こえてくる。

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