記憶の欠片
 フラワーショップを出て、少し歩いたところで明日香ちゃんと別れた。

 手を振る彼女の背中は、夕暮れの中にすぐ溶けていく。

 空は、いつの間にか重たい色をしていた。

 昼間の名残を引きずった明るさの奥に、鉛色の雲がゆっくりと広がっている。

 風が止み、街の音が妙に遠く感じられる。

 ——夕立の前の、あの静けさ。

 胸の奥が、理由もなくざわついた。

 さっきの花言葉。

 明日香ちゃんの横顔。

 全部が頭の中で絡まり合って、不安だけが残る。

 ……何も、嫌なことが起こらないといいけど。

 そう思った、その矢先だった。

 ぽつり。

 肩に、小さな冷たさが落ちる。

 次の瞬間、空気が一気に崩れて、雨粒が地面を叩き始めた。


「やっぱり……」


 通りを行き交う人たちが、慌てて動き出す。

 傘をさして足早に歩く人。

 軒下に駆け込む中学生たち。

 ネクタイを片手で押さえながらずぶ濡れで走り抜けていくサラリーマン。

 それぞれの事情を抱えたまま、雨の中ですれ違っていく。

 私も鞄から傘を取り出し、ぱっと広げた。

 傘に当たる雨音が、規則正しく響く。

 視界が、少しだけ狭くなる。

 世界と自分の間に、一枚の膜が張られたみたいだ。

 濡れたアスファルトが街灯を映し、秋の夕暮れは、さらに深い色へと沈んでいく。

 胸のざわめきは、まだ消えない。

 傘を取り出そうとした私の視界の端に、ふと人影が映った。

 ——月城くん。

 学校の外で見るその姿に、胸がきゅっと跳ねる。

 こんなところで会えるなんて。

 それだけで、少し嬉しくなってしまった自分がいた。

 彼は傘を差して立っていた。

 その傘の下から覗いた横顔は、見慣れているはずなのに、どこか新鮮で。

 ……でも。

 その隣に、もうひとつ影がある。

 ふわふわの茶髪。

 雨粒を弾くように笑う、その表情は花が咲いたみたいに柔らかい。

 その笑顔につられるように、月城くんも笑った。

 胸の奥に、鈍い衝撃が走った。

 ——彼女、なのかな。

 嫌だ。

 そんなふうに、他の女の子に笑わないで。

 気づいたら、手が前に伸びていた。

 名前を呼ぼうとして、唇が動く。

 でも、声は雨音に溶けて形になる前に消えてしまう。

 二人は気づかない。

 私の存在なんて、最初からいなかったみたいに。

 下唇をぎゅっと噛みしめる。

 何もできない自分が、悔しくて情けなくて。

 視線を落とした、その瞬間だった。

 ——ぐらり。

 頭の奥で、何かが弾けた。

 雨音が遠のき、代わりに別の音が流れ込んでくる。


 校舎の軋む音。

 風に揺れるカーテン。

 夕方の、少し冷たい空気。

 誰かが、私の名前を呼んでいる。

「……愛梨」

 懐かしい声。


 胸が、きゅっと締めつけられる。

 視界がぶれて、重なっていく。

 今の雨の景色と、過去の光景が、混ざり合う。

 ——知ってる、この感じ。

 心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。

 足元が不安定で、世界が遠ざかっていく。

 まただ。

 また、記憶が——

 私は思わずその場で立ち止まり、胸元を押さえたまま、激しくなる雨の中に取り残された。
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