記憶の欠片
それから体育館で校長先生の長ーい話を聞いて、列に流されるがまま教室へと戻っている時の話。
…はぁ、校長の話長すぎだよ。
体育館は暖かくて、椅子も微妙にフィットしていて、寝る環境が完璧に整っていた。
何とか眠気を追い払ってたけど、廊下を歩いている今まさに限界が来そうだった。
足は動いているはずなのに、頭が言うことを聞いてくれない。
廊下の光がやけに白くて、まぶたの裏に残像が残る。
ぼーっと前を向いたまま歩いていたそのとき。
「——あ」
鈍い衝撃。
肩と肩がぶつかって、私は思わずよろけた。
「ご、ごめんなさ……」
顔を上げると、同じ制服の女の子が立っていた。
長い髪を揺らしながら、私の顔を見て、ぴたりと動きを止める。
……あれ?
謝ると思っていたのに、その子は驚いたように目を見開いて、次の瞬間、信じられないものを見たみたいな顔をした。
「……うそ、ほんとに?」
小さな声。私に向けられているはずなのに、独り言みたいだった。
「え、あの…?」
声をかけると、女の子は一歩近づいてくる。
じっと、確かめるように私の顔を見る。
「……ねぇ。名前、教えて!」
「えっと……黒瀬愛梨だよ、その…私のこと知ってるの?」
そう聞いた瞬間、女の子の表情が一瞬だけ揺れた。
笑いそうで、泣きそうで、言葉を飲み込んだみたいな顔。
「…うんん、なんでもない。…私、茉梨明日香。よろしくねっ」
さっきの反応は気になったけれど、友達が出来た喜びで、疑問も眠気も全部吹き飛んだ気がした。
「えっと…」
何か会話を続けたくて、言葉を探しているあいだに、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
何気なく顔を上げた、その瞬間。
目が、合った。
同じ制服の男の子が、こちらを見ていた。歩きながら、ふと視線を上げただけの、ほんの一瞬。
なのに——胸の奥が、ざわっと音を立てた。理由は分からない。
心臓が一拍、遅れて強く打つ。金縛りにあったみたいに体が動かない。
……なに?
視線を外そうとしたのに、なぜか目が離れなかった。
朝の光を吸い込む、黒髪の男の子だった。
きちんと整えられた髪と、背筋の伸びた立ち姿。
制服の着こなしも自然で、周りのざわついた空気から切り離されたみたいに、すっとそこに立っている。
思わず、息を止めた。
目元は涼しくて、整った顔立ちなのに冷たい感じはしない。
特別変わった見た目をているわけじゃないのに、視界に焼きつく。
視線が絡んだ一瞬で、心臓が強く脈打つ。
初対面の人に向ける感情じゃない、と頭では分かっているのに。
懐かしさとも違う、でも確かに「覚えがある」感覚が込み上げた。
……知らない、はずなのに。
——どこかで君を…。
そう思った瞬間、頭の奥がひりっと痛んだ。
記憶に触れかけて、すり抜ける感覚。
「……」
その横顔には、諦めたみたいな、覚悟を決めたみたいな表情が浮かんでいる。
目を逸らしたくせに、足は一瞬止まったままだった。
肩がわずかに揺れて、無意識に拳を握りしめているのが見える。
——動揺してる。
はっきりそう分かった。
整った顔立ちとは裏腹に、その仕草だけが妙に人間らしくて、余計に目を離せなくなる。
「月城、早く来いよー」
遠くから、彼を呼ぶ声が響く。
彼は一拍遅れて歩き出した。
歩幅はさっきより少しだけ早くて、逃げるみたいだった。
でも、その背中を見送ったあとも胸のざわつきだけが置き去りになった。
月城くん。
どこかで——確かに、どこかで会ったことがある。
思い出しかけて、届かないこのもどかしい感じ。
すごく嫌だ。
「……大丈夫?」
明日香ちゃんの声で、はっと現実に戻る。
「う、うん。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
嘘ではないけど、全部でもない。
さっきの感覚を、どう説明していいか分からなかった。
私はもう一度、彼が歩いていった廊下の先を見る。
月城くんは、廊下の突き当たりで一度だけ曲がって、二組と書かれた教室の中へ消えていった。
扉が閉まる音は聞こえなかったのに、それだけで、もう戻ってこない気がした。
私はその場に立ち尽くしたまま、必死に頭の中を探る。
黒い髪。
諦めたみたいな横顔。
動揺を隠しきれない歩き方。
——どこで会った?
問いかけても、返事はない。
中学二年から三年のあいだ、私の記憶は深い霧に覆われたままだ。
目を閉じてみる。
胸の痛みを手がかりにすれば、何か出てくる気がした。
けれど浮かぶものはどれも輪郭が曖昧で、すぐに溶けてしまう。
頭の奥が、じんと痛んだ。
無理やり思い出そうとしているせいだ。
「……だめだ」
小さく呟いて、目を開ける。
思い出せない。どんなに探しても、空白は空白のままだった。
二組の教室の扉は、もう閉まっている。
そこに、答えがあるはずなのに。
私は胸に残った違和感だけを抱えたまま、何も掴めない自分をただ受け入れるしかなかった。
…はぁ、校長の話長すぎだよ。
体育館は暖かくて、椅子も微妙にフィットしていて、寝る環境が完璧に整っていた。
何とか眠気を追い払ってたけど、廊下を歩いている今まさに限界が来そうだった。
足は動いているはずなのに、頭が言うことを聞いてくれない。
廊下の光がやけに白くて、まぶたの裏に残像が残る。
ぼーっと前を向いたまま歩いていたそのとき。
「——あ」
鈍い衝撃。
肩と肩がぶつかって、私は思わずよろけた。
「ご、ごめんなさ……」
顔を上げると、同じ制服の女の子が立っていた。
長い髪を揺らしながら、私の顔を見て、ぴたりと動きを止める。
……あれ?
謝ると思っていたのに、その子は驚いたように目を見開いて、次の瞬間、信じられないものを見たみたいな顔をした。
「……うそ、ほんとに?」
小さな声。私に向けられているはずなのに、独り言みたいだった。
「え、あの…?」
声をかけると、女の子は一歩近づいてくる。
じっと、確かめるように私の顔を見る。
「……ねぇ。名前、教えて!」
「えっと……黒瀬愛梨だよ、その…私のこと知ってるの?」
そう聞いた瞬間、女の子の表情が一瞬だけ揺れた。
笑いそうで、泣きそうで、言葉を飲み込んだみたいな顔。
「…うんん、なんでもない。…私、茉梨明日香。よろしくねっ」
さっきの反応は気になったけれど、友達が出来た喜びで、疑問も眠気も全部吹き飛んだ気がした。
「えっと…」
何か会話を続けたくて、言葉を探しているあいだに、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
何気なく顔を上げた、その瞬間。
目が、合った。
同じ制服の男の子が、こちらを見ていた。歩きながら、ふと視線を上げただけの、ほんの一瞬。
なのに——胸の奥が、ざわっと音を立てた。理由は分からない。
心臓が一拍、遅れて強く打つ。金縛りにあったみたいに体が動かない。
……なに?
視線を外そうとしたのに、なぜか目が離れなかった。
朝の光を吸い込む、黒髪の男の子だった。
きちんと整えられた髪と、背筋の伸びた立ち姿。
制服の着こなしも自然で、周りのざわついた空気から切り離されたみたいに、すっとそこに立っている。
思わず、息を止めた。
目元は涼しくて、整った顔立ちなのに冷たい感じはしない。
特別変わった見た目をているわけじゃないのに、視界に焼きつく。
視線が絡んだ一瞬で、心臓が強く脈打つ。
初対面の人に向ける感情じゃない、と頭では分かっているのに。
懐かしさとも違う、でも確かに「覚えがある」感覚が込み上げた。
……知らない、はずなのに。
——どこかで君を…。
そう思った瞬間、頭の奥がひりっと痛んだ。
記憶に触れかけて、すり抜ける感覚。
「……」
その横顔には、諦めたみたいな、覚悟を決めたみたいな表情が浮かんでいる。
目を逸らしたくせに、足は一瞬止まったままだった。
肩がわずかに揺れて、無意識に拳を握りしめているのが見える。
——動揺してる。
はっきりそう分かった。
整った顔立ちとは裏腹に、その仕草だけが妙に人間らしくて、余計に目を離せなくなる。
「月城、早く来いよー」
遠くから、彼を呼ぶ声が響く。
彼は一拍遅れて歩き出した。
歩幅はさっきより少しだけ早くて、逃げるみたいだった。
でも、その背中を見送ったあとも胸のざわつきだけが置き去りになった。
月城くん。
どこかで——確かに、どこかで会ったことがある。
思い出しかけて、届かないこのもどかしい感じ。
すごく嫌だ。
「……大丈夫?」
明日香ちゃんの声で、はっと現実に戻る。
「う、うん。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
嘘ではないけど、全部でもない。
さっきの感覚を、どう説明していいか分からなかった。
私はもう一度、彼が歩いていった廊下の先を見る。
月城くんは、廊下の突き当たりで一度だけ曲がって、二組と書かれた教室の中へ消えていった。
扉が閉まる音は聞こえなかったのに、それだけで、もう戻ってこない気がした。
私はその場に立ち尽くしたまま、必死に頭の中を探る。
黒い髪。
諦めたみたいな横顔。
動揺を隠しきれない歩き方。
——どこで会った?
問いかけても、返事はない。
中学二年から三年のあいだ、私の記憶は深い霧に覆われたままだ。
目を閉じてみる。
胸の痛みを手がかりにすれば、何か出てくる気がした。
けれど浮かぶものはどれも輪郭が曖昧で、すぐに溶けてしまう。
頭の奥が、じんと痛んだ。
無理やり思い出そうとしているせいだ。
「……だめだ」
小さく呟いて、目を開ける。
思い出せない。どんなに探しても、空白は空白のままだった。
二組の教室の扉は、もう閉まっている。
そこに、答えがあるはずなのに。
私は胸に残った違和感だけを抱えたまま、何も掴めない自分をただ受け入れるしかなかった。